2004年12月26日

「まだ終わりでない」(マタイ24・3〜6)

テーマ:終末を生きるキリスト者の姿勢とは。

時:04.12.26. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

今日は今年の最後の日曜日であります。今年も残すところ六日となりましたが、この時期になりますと多くの方がこの一年を顧み、また、来年は如何過ごすべきかなどを考えるだろうと思います。ところが、クリスチャンとしての私たちは、その際にこの世の人々のように金儲けや出世、また、更に多くの快楽などを得る為に如何すべきかだけを工夫するのでなく、キリスト者として、それに似合う一年であったのか、もしそうでなかったのであれば来年は如何生きるべきかをも悩む事が出来ればと思います。

思い出してみると私たちの教会にもこの一年間、悲しい事や嬉しい事などが色々ありました。悲しい事として二回の告別式がありました。そして、最近の驚きとしては共に信仰生活をしてきた佐藤夫妻の交通事故でありました。勿論、嬉しいこともありましたが、子供が生まれた家庭がありました。また、平岡姉妹と幾野兄弟がバプテスマを受けて名実共に私たちと神の名の下での兄弟姉妹となりました。村上姉妹も私たちの群に加わりました。小鉢恵美さんが結婚し新しい人生を歩むこととなりました。もう一つのクリスチャンホームが生まれたわけであります。

教会としてもこのように色々と嬉しいことや悲しいことがありましたが、皆さんそれぞれ、個人的にも色々あったに違いありません。経済的な問題が解決されたと喜んでいるうちに子供が問題を起こしたり、そのような心配は最早ないと思っている時、健康に異常があると知らされたり、経済的な問題も健康の問題もないと思っている時、心の問題として虚しさに囚われて心のバランスを崩してしまって苦しんだりするものであります。苦しみのない、悩みのない人生はないと思います。災いと関係のないところで過ごすことの出来る人は一人もいません。

ところが、私たちは、このような様々な苦しみや災いという結果に自ら責任を負わなければならない事もありますし、時には自分の責任とは全く関係のないところからもそのような災いが襲って来る事もあります。つまり、不可抗力によって私たちは苦しみを受ける時があります。今日の聖書の個所はそのような事があった時、イエスの弟子達たちが抱いていて不安とそれに対してのイエスの教えが記されている個所でもあります。

今月は「聖誕」をキーワードにして共に聖書から聞いておりますが、今月の初めにイエスがこの世に来られた時からすでに「終末」が始まったと申しました。また、イエスが約束した再臨はまだ来ていないので、私たちは終末が始まった時とその終わりの時の間を生きているとも申しました。このように、クリスマスはいわゆる終末論と決定的に結びついています。

この「終末」を個人の死と結び付けて理解することも出来ると思います。つまり、人は必ず何時か死ななければなりませんが、個人が死ぬことによって、その時まで、自分を取り囲んでいたこの世が死ぬ事と結果的には変わりがないと言う理解であります。しかし、聖書が語る終末とはそのような個人の死を意味するものでもなく、また、個人とこの世との相関関係においての理解でもありません。この世の全体が終わりの時を迎える時が必ず来るという意味であります。

神様が聖書を通して約束した終末の予告ほど、人間を倫理に対して緊張させるのはないと信じています。ここで言う倫理とは人間的な、ヒュマニズムの見地からの倫理でなく、いつか、神様の前に立つべき者としての緊張という倫理であります。言い変えれば、「キリスト教倫理」であります。終末論はキリスト者がどう生きるべきかを究極的に語ってくれるところであります。

私は神様を信じていない時からこの世の終わりは何れか来るだろうと思っていました。つまり、人種の絶滅の時が来ると信じていました。それは聖書に聞かなくとも、地球の歴史が教えてくれます。今のこの世の中の現実が語ってくれます。つまり、この地球の主として支配していた恐竜は絶滅しました。ご存知のようにその絶滅の原因について色々の仮説が立てられていますが、残されている化石が証明しているのように、この地球上に恐竜が存在していたのは間違いありません。しかし、彼らは滅びました。人間も何れか自らの原因による公害や戦争であろうとも、そうでなく、強大な隕石との衝突のような外部からの力によるモノであろうとも、何れか終りの時は来るのは間違いないのでりあります。言ってみれば、これは「無神論的終末論」であります。

ところが、このように思うと人間の倫理の根拠も全く崩れ去って行くのではないかと思います。すなわち、今どんなに自分の体に鞭を打って、倫理的になっていても、この世の終りの時となりますと、私を記憶してくれる人は一人もありません。その時になりますと如何なる今の記録も無意味であります。これが神様のない終末論の果ではないかと思います。

しかし、私は神様に赦されて神さまを呼び求める者とされた時、御言葉に終末が約束されていることを知ってホッとしました。信仰者にとってはこの世の終末は無意味ではありません。なぜなら、終末と共に私たちは霊の体として起こされ、神の前に立たなければならないと約束されているからであります。神様が記憶し、右左と裁いて下さるのであります。神様の言葉に聞き従うことによって個人としての死だけでなく、この世の終末をも恐れない者は幸いであります。

さて、今日の聖書の個所はマタイの24章であります。この事は、イエスが弟子達に終末ないし再臨を語り始めたのはご自分が十字架にかかる時が間近に迫ってきた事を知ってからであることを教えてくれます。

イエスは自分が十字架に架かって亡くなった後、弟子達に襲ってくる虚しさや不安、絶望を知っていたと思います。それで、予めて語られていた事でもありましたが、終末と再臨を今日の個所の以下で教えているのであります。

考えてみたら弟子達の不安は当然であります。彼らは律法に生きるのを放棄して、生きているイエスに従っていました。しかし、イエスが十字架に架かって死ねば、彼らには律法もイエスも同時に失う事になってしまいます。つまり、生きる道しるべも、方向もなくなってしまうのであります。そのような不安に駆られていた弟子達はオリブ山に座っているイエスに近寄って新たなる希望としての「終末」について聞き出そうとしているところが今日の個所であります。

因みに言いますが、聖書にオリブ山と言う名が度々出てきますが、大きな山をイメージする方もいるかも知れませんが、私たちの感覚から言えば山と言うより、一寸して丘のようなところであります。私たちがニュースで度々見る岩のドーム、つまり、昔のイスラエルの神殿の近くの山であって、オリブの木が沢山植えられていて、そのような名で呼ばれるようになったようであります。

イエスとその弟子達はその日も神殿からその山に帰って来て、一休みをしているようでありましたが、弟子達は神殿の横を通りながらイエスが語った事を更に聞きだそうとしていました。つまり、イエスと一緒に帰りの途中で終末が始まったら神殿が完全に崩れ落ちると聞いたのでありました。この事を2節の終りのところでイエスが「その石一つでもくずれされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」と語っています。

神殿が崩壊するなんて、当時の人々としては考えられない出来事だと思います。絶対崩れそうには見えない立派な石造りの城であります。更にこの世を支配する神を祭るところであり、神が自ら住まいとする神殿を崩すとはありえない話でもあったと思います。しかし、イエスは終末の時には神殿も粉粉に崩れると言ったのでありました。

その以外にも終末の時には民は民と戦いをし、飢饉や地震が起こり、あちこちでは偽予言者が現われ、自分がキリストだと言うだろうと言いました。

このイエスの言葉は間もなく的中します。つまり、終末はすでに始まっていたのであります。イエスが十字架の上で亡くなって間もなく、70年にはローマによって神殿が破壊され、その後は異教徒の手に落ち、民は世界を彷徨う身となったのであります。正に石の上に石一つ残らず破壊された格好であります。また、戦争や飢饉も更に酷くなって行きました。これらに伴なってこの世の中は不安も増して来ましたが、これに便乗して、自分が救う主であると言いながら人間的な欲を満たそうとした人々が多く現われたのであります。

今においてもそのような人々が出てきてこの世を騙しています。戦争のニュースも絶えません。今年は特に大きな地震もありました。南アメリカなどではイナゴが異常発生して大きな農作物の被害が出たと聞いております。正に終末と時に起こるだろうと言われた事が続いています。

時には、早く終りの時が来て、この醜い世が終わって神の支配が始まった方が良いのではないかと願いたくなるような時代でもあります。しかし、神様は御言葉を通して私たちに「まだ終りではない」と語っています。終りの前兆はすでに始まっているが、まだ終りではないから慌てたり、偽予言者に騙されてはならないと語っています。

では、何時がその終りの時でありましょうか。これについて御言葉は一つだけの答えをもっています。36節を見ますと「その日は、その時は誰も知らない。天の御使いたちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」と記されています。この以外に如何なる主張も不正解であります。ここを見ますとイエス・キリスト自身も終りの時を知らないとはっきり言っておられます。ですから、自分がキリストであるが故にその時を知っていると語ったりする者は自らが嘘つきであると言うよう事であります。

終りの時は父なる神様が決めるのみであります。人間はそれを決める力もなく、またそれを知るすべもありません。例え、その時を知っていても如何しようもない事であります。ただ、私たちは与えられた道を、神様が見るによき道を走るだけであります。そして、それを神様が如何裁くのかを待つだけであります。これが終末を生きるキリスト者の姿であろうと思います。

この事をスポーツに喩えて申します。今年の多くの出来事の中でアテネオリンピックも大きなニュースの一つでありましたが、私たちに大きな感動や楽しみを与えてくれました。私が好きな種目はやはりマラソンと柔道であります。柔道は昔、自分も少しやっていましたから、今も良く見ているほうでありますが、柔道も色々昔と変わってきました。昔は二人の選手が共に白い柔道着を着ていましたが、今は青と白の柔道着を着なければなりません。また、審判の基準も変わりまして、今は昔比べて遥かに攻撃的な柔道をしなければならなくなっています。つまり、先に得点をしてそれを守ろうとすると昔より遥かに厳しく罰点が与えられるようになりました。この間のオリッピックの時、ある選手の試合を見ていましたが、彼は先に「技あり」と言う得点を取りました。しかしながら、彼はそれを守ろうとしないで、更に、積極的に攻撃をしていました。しかし、時は進んで僅か9秒しか残りませんでした。幾ら攻撃的な柔道が求められるとしても9秒の間、技ありの得点は守る事はそれほど難しいとは思いません。

しかし、彼はその9秒の時、攻撃を仕掛けて一本勝ちをしました。攻撃をすることによって反撃を食らって負ける可能性もあるのに、そのような危険を考えないで最後の瞬間まで自分のベストを尽くしたのであります。勝つだけがベストではないことを知っていたからであろうと思います。

試合が終わって、ある記者が「最後の9秒は守っていてもよかったの思うのに、なぜ危険を覚悟しながら攻撃を仕掛けたのか」と尋ねるとその選手は「終りの時は審判が告げるモノです」と答えていました。その言葉に私は大変な感激しました。終末を生きる私たちの姿勢を正にこの言葉で語る事も出来ると思います。人生の最後の時は神様のみが決めるのであります。私たちはただ与えられた今をベストを尽くして生きるだけであります。

終りの時は個人の次元として、また世界規模として必ず訪れます。つまり、個人の次元としての死が、世界規模としては終末が早かれ遅かれ必ず訪れます。それが明日になるか、来年になるか、それとも1000年後になるかは誰も知れません。それは世界の裁き主、この世の最終の審判である神様が決める事であります。神が定める前に自分が人生の終りだと、この世の終りだと決めったり、そのような人の話を聞いて慌てる事、自体が敗北であります。それはマラソン選手がゴールライン一歩手前で立ち止る事と同じであります。その選手が例え、その時まで、一番先を走ったとしてもメダルが与えられません。最後まで走ることが期待されているのにその人が勝手に止めたからであります。

最後にもう一回確認をして話を終わらせたいと思いますが、もうすでにイエス・キリストの誕生と共に終末が始まっています。それで私たちクリスチャンは終末を生きるのであります。喩えで言えば、私たちは試合終了何秒かの前を生きています。マラソンのゴールライン手前を生きているのであります。私たちにはそのような姿勢で生きるのが神様によって期待されています。これからも共に最後までを走りぬこうではありませんか。