2005年1月2日

「主はあかしされる」(サムエル上12・1〜5)

テーマ:失敗を恐れずに主に聞きつつ、また、赦されつつ走ろう!

時:05.1.2. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

明けまして、おめでとうございます。今日は今年の初めての礼拝でありますが、多くの兄弟姉妹と共に礼拝を捧げる事が出来て感謝です。

新しい年がスタートしました。時とは途切れることなく流れるモノではありますが、私たちは一日、一ヶ月、一年と区切って計画を立てたり、リズムを取ったりしながら生活をしています。こう意味で私たちは今、12月というゴールラインに向かってのスタートを切ったわけであります。

世間では今年を酉年だとも言いますが、東洋ではこのように12の動物をもって年を表したりします。言うまでもありませんが、これを「干支」とも言います。この起源は中国の殷の時代にまで溯るそうですが、当時は12年で一周する木星の軌道上の位置を示すための数字であったそうです。これを覚えやすくする為に動物をもって表したのがその始まりだそうです。それが年を数えたり、時を数えたりするようになったわけですが、それを人々が更にその動物がもっているイメージをもって占うのにも利用するようになったようであります。

聖書には「鶏」は羊や牛などのように多く登場しませんが、この数少ない聖書の個所の中で、私たちが覚えている個所は、十字架に架かる前の夜、イエスがペテロに告げたこの言葉ではないかと思います。つまり、「鶏が鳴く前にあなたは三回も私を知らないと言うだろう」と言ったところであります。これを見ますと2000年前の鶏も人々にとって身近な動物であって、夜が明ける時に鳴いていたことを知る事が出来ます。

鶏が時を告げる役目をしているところをもう一箇所を見ますとマルコによる福音書13章35節であります。ここはイエスの再臨との関連で語られている個所でありますが、読みますと「だから目を覚ましていなさい。いつ家の主人か帰ってくるのか、夕方か、夜中か、にわとりが鳴く頃か、明け方か、分からないからである」となっています。ここを見ても夜が明ける少し前、まだ暗い内ににわとりが鳴くとされています。

このように昔から鶏は人々に時を告げる動物でありましたが、鶏はなぜ夜が明けるのを人よりいち早く知る事が出来るのでしょうか。豆知識として何処かの新聞の隅っこに載っていましたが、鶏は目だけで光を感知するのでなく、肌を通しても光を感知できるそうです。また、鳥は暗くなりますと殆ど活動が出来ませんので、夜が明けるのを待っていてそれを肌で分かると鳴くようであります。

これは仏教と絡んだ話でありますが、大晦日の夜、年が明けて零時になりますと彼方此方の寺で「除夜の鐘」を打ち鳴らしますが、これは108回鳴らすようであります。勿論、これは108煩悩を表します。それによって108もある煩悩を取り除くと言う意味がこめられているそうです。それで「除夜の鐘」と言うわけでありますが、この字を見ますと「夜を取り除く」と言う字の組み合わせになっています。夜が煩悩の代わりの意味として、マイナスのイメージとして使われています。これを見ますと仏教の教えにおいても過去に拘る柵は煩悩であって、それより、前を見て歩む事を奨励しているのであります。兎に角、これらの関連で「明けましておめでとう」と言う挨拶が出来たのかと思い巡らして見ました。

過去から未来へと年が明けましたが、新しい希望、覚悟、そして計画をもって一年を始めたいものであります。イエスは「鋤をもって後ろを見るのは自分の弟子に相応しくない」と言いました。後ろを見ながら、前に進む者は真っすぐな歩みが出来ないからであります。辛い過去をもっていない人は一人もいないと思います。要はどれ程早く気持ちを切り替えて、それを前に進むための肥と出来るかどうかに掛かっていると思います。

過去の辛い事でなく、過去の楽しい事や思い出だけに浸って生きるのも同じく、やはり後ろ向きの人生ではないかと思います。クリスチャンは毎日、新しく生まれる為に毎日、死ぬ者でもあります。これは新しく生きるためであります。私たちはこのようにひたすら前を見つめつつ歩むのが神様によって期待されています。

さて、年の初めである今月は「祈り」をキーワードにして共に聖書から聞きたいと願っていますが、今年の初めての礼拝の今日の為に、どのような個所が私たちに必要であるかを考えながら今日の聖書の個所を選ばせて頂きました。

今日はサムエル記からでありますが、時代としては紀元前1000年頃でありますから、今から約3000年前の時代であります。話を始める前に、旧約聖書の順を見ますとサムエル記を前後して前は士師記であります。ここは昔のイスラエルに色んな英雄が立ち上がり、またい退いて行った様子が語られていまして、いわば、春秋戦国時代のような、まだ一つの中央政権が出来る前の歴史が語られています。そして、サムエル記の後は列王記でありますが、名前で分かりますように王政が確立した後の歴史であります。これでもうすでに推測できますように、今日の個所のサムエル記は英雄の時代から王政に移っていく過渡期でもあります。

それでイスラエルの始めての王サウルとその次の王、ダビデの名が度々登場する個所でありますが、サムエル記の全体の構造を分かりやすくする為に、このサムエル記の主人公を4人に絞って先ず紹介します。祭司としてエリとサムエルがいます。王としては先ほど申し上げたサウルとダビデがあります。この4人がサムエル記の主人公であると言っても良いと思いますが、この4人を対比させてながら、信仰者とは神様にどのように聞き従うべきなのかを学ぶことの出来るかと思います。つまり、このサムエル記は4人の主人公の中でエリと言う祭司とサウルと言う王は失敗した人として、サムエルとダビデは成功したした人として伝えているとも言えるかと思います。

ところが、この4人を良く見ますとエリもサムエルも、サウルもダビデも皆それぞれ弱点はあります。私たちが知っているようにダビデも様々は失敗や過ちを犯した王でありました。しかし、彼は徹底的に神の前に戻って神の前で悔い改めた人でありました。しかし、サウルは自分で自分の過ちを解決しようとしていたところがダビデと違うところであります。またエリもサムエルも祭司でありながら自分の子供を育てる事には二人も失敗をしています。しかし、サムエルは失敗した王であろうともサウルを育てました。またダビデを導きました。それで彼は今日の個所のような晩年においてのメッセージが出来たのであります。しかし、エリの晩年は最悪の形で終わっています。つまり、彼は戦場に出た二人の息子が亡くなったという知らせを聞いてそのショックで城壁から後ろから落ちてなくなってしまうのであります。

これ以上詳しく申し上げる時間がありませんが、皆さん時間をとってサムエル記上下をこの4人を比較しながらお読みなりますととても面白いし、面白いだけでなく、多くの生きるための指針を得る事が出来ると思います。是非、ゆっくりお読みになるのをお勧めいたします。

今日の12章はサムエルの晩年に人々を前にして語った言葉であります。別れのメッセージであると言っても良いかもしれませんが、彼はここで読んで分かりますように相当、自信に満ちて人々に語っています。つまり、自分は一生の間、人々の前でも神の前でも恥ずかしい事をしていないと堂々と語っているのであります。

繰り返しになりますが、祭司として一生を過ごす間、私腹を肥やした事があるか、また人を欺いた事があるか、また指導者として人々を抑圧した事があるかと大勢の人々の前で尋ねているのであります。そして、自分にはそのような事がないことを神が証されると言うのであります。

この個所を読みながらある詩人の詩を思い出しましたが、ユンドンジュという詩人の詩であります。彼はクリスチャンでありましたが、今日の個所のサムエルの心境を思わせるような事を詩に託した事があります。彼の詩は何時かメッセージの中で紹介したこともありますが、今紹介しようとする「序詩」の初めだけを意訳して申します。「死ぬその日まで天を仰ぎ一点の恥もなき事を、しかし、葉の間を通り過ぎる風にも私は苦しみ」云々となっています。神の前に全く恥のないように生きたいと言う願いや祈りをもってはいるが、風に揺れ動く葉のようなささやかな事にも自分は苦しくなると言う自分の心の葛藤ないし弱さを訴えているのであります。

しかし、この詩人はこの詩の最後においてそのような現実の苦しみがあるが、星を数えるようなこころをもって自分に与えられた日々を過ごそうと歌っています。現実において過ちや失敗は人間の宿命であり、それを赦すのは神様であるという事を告白でもしているように思われます。

話を戻しますが、先ほどサムエルにも失敗はあったと申しましたが、今日の個所ではサムエルはそのような事はなかったかのように語っています。こう考えますと彼は少し調子にのって語っているようにも思われますが、それもそのはずであります。今日の個所はサムエル本人が王として立てたサウルが戦いに勝った事を祝う所でもあったからであります。つまり、サウルも人々も大いにが喜んでいるところであって、サムエルはやや興奮気味でこのように語っているのではないかと思われるのであります。

過ちと失敗とは区別しなければならないと思いますが、生きるのに失敗は付き物であろうと思います。失敗をすることよりも、絶対失敗はしたくない、または、失敗を恐れて何もしないでいるか、何も出来ないでいるのがより良くないと思います。誰にも失敗もあり、成功もあります。一生の間、何の失敗もなかったと振り返ることの出来る人はいないのであります。

問題は神の前で聞きながら歩むか、そうでないかであります。このサムエル記の主人公4人の中のエリも息子の教育の事を除けば、優れた祭司であったと思います。また、彼は自分の息子の非行を容認したわけでなく、叱ったりしましたが、それでも彼の息子達はそこから立ち直る事が出来なかったのであります。サムエルも失敗はありましたが、彼は徹底的に神さまの言葉に従う人でありました。

また、このサムエル記の主人公の一人であるサウルも始めには優れた武士でありましたが、また優れた顔と体格をもっていたと記されています。しかし、彼は失敗を重ねる内にサムエルの言葉にも、神様の言葉に聞き従わないで、自分が勝手に祭壇を造ったりしていました。これはこころが頑なになって自らの神をつくりあげたという暗示でもあろうと思います。

サムエル記の時代のような過渡期を生きるのは誰にも難しいと思います。特に、サムエルの4人の主人公のように指導的な立場にいた人は更にその舵取りが難しいのであります。過渡期とは前例のない事が起こってくるからであります。今日の個所が正にそのようなところであります。今までのない王制を確立して行かなければならない時代でありましたが、この事条件は皆同じでありました。しかし、サムエルはもっぱら祈りの中で神様の言葉を聞きながら従っていたのであります。それが彼は成功した祭司として語られるようになった理由であると思います。ダビデも徹底的に神の前で自分の過ちや失敗をぶちまける人でありましたが、これが結局、最後においての成功と失敗との分かれ道となったのであります。

今日の個所を2節には群衆の中にサムエルの息子達も共にいましたが、彼らはサムエルにとって悩みの息子達であったはずでありますが、今やそのような事をも踏まえて自分の人生の全体像を振り返っているのであります。そして神の前で人々の前でこのように堂々と語っているのであります。

私たちは今、一年をスタートするところに立っていますが、必ず一年を振り返って見る時が来ます。その時、失敗も過ちもあったけれども、でも、この一年は神の前でも、人の前でも良い一年であったと語る事が出来る一年でありたいと祈っています。そのような一年一年を積み重ねることによって、何れか、私たちもサムエルのように晩年になって自分の一生を振り返える事が出来るのではないでしょうか。