2005年1月9日

「主は聞いて下さる」(詩編4・1〜3)

テーマ:祈りは聞かれる。

時:05.1.9. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

寒さが続いています。風邪に気をつけながら過ごしたいと願います。先週のメッセージの時にも申しましたが、私はこの教会に赴任して今年でもう6年目になります。牧師になって5度目の正月を過ごしています。今年は気持ちを新たにして皆さんと共に信仰生活をして行きたいと願っています。ところが、私にとって一年の中で最も余裕のある時と言えば、やはりクリスマスが終わってからの年末年始であります。心が最も静まり返る時でもあります。それで、色々一年を顧みたり、新しい年には特に何処に力を入れるべきかなどを考えながら過ごしていますが、今年は何より、三苫開拓教会の為に一歩踏み出したいと祈っています。皆さんも祈りに合わせていただければ幸いであります。

今月も去年の一月と同じく「祈り」をキーワードにして共に聖書から聞いていますが、今日のメッセージは先週の続編と言っても良いかも知れません。今日のテーマはダビデの祈りの姿勢であります。

今日のメッセージのテーマとも関係がありますので、先週のメッセージの粗筋を先ず少し申します。先週の聖書の個所はサムエル記でありましたが、サムエル記を簡単に纏めますと4人の主人公の話となります。すなわち、エリとサムエル、そしてサウルとダビデであります。ところが、エリもサムエルも共に祭司でありましたが、サムエル記にはエリは失敗した祭司として、サムエルは成功した祭司として画かれています。また、サウル王は失敗した王として、ダビデは成功した王として画かれています。しかし、この4人ともそれぞれ欠点はありましたが、一方は自分の職を全うしましたし、一方はそれが出来なかったわけであります。その原因を一言で言えば、神さまに頼ったか、自分に頼ったかであります。私たちはここから学んで「神様に頼りつつ、失敗を恐れずに雄雄しくこの一年を始めましょう」という話を先週申しあげたわけであります。

さて、今日の聖書の個所は詩編でありますが、詩編の多くはダビデによるモノであります。この事は、それほど、彼は神様を呼び求めつつ一生を過ごし、それを書き残したというしるしでもあります。

ダビデはご存知のように羊飼いから王にまで上り詰めた人であります。もっとも不安定な時代を生きた人物であり、波乱万丈の人生を送った人であります。例えば、彼は晩年に自分の息子による反乱に逢って命がらがら逃げ回らなければならない時もありました。しかしながら確固たるイスラエルの王政を築いた人でもあります。今日の個所はおそらく彼が王になって自分を振り返りながら、祈りに助けられたことを思い出しながら神を賛美していたと思われるところであります。

話が少し変わりますが、この間、ある映画の少しだけを見ました。アメリカの映画でケネディ大統領がいわゆるキューバ危機を如何乗り越えたを映画化したモノでありました。その中でケネディ大統領が一つ一つ決断をしていく中での苦しみや孤独をも現われていましたが、その一つとして紹介しますと自分が大統領の座から逃げてしまいたいと話をしていました。それを補佐官に咎められていましたが、最終責任者の苦しみを表す言葉であります。大統領だから誰にも干渉されないで、決める事が出来るから良いなというあまりにも感傷的な話であろうと思います。

これに似たような話をある大統領の回想録でも読んだ事があります。大統領でありながら、つまり彼には自分の上司がいないわけでありますが、自分に上司がいればどれ程、楽であろうと何回も思っていたとその大統領は回想録で述べていました。

ダビデも同じ心境に囚われた時もあろうと思います。王になってからの孤独やその責任の重大さを覚え、その重圧に身が潰されてしまいそうになった時もあっただろうと思います。しかし、彼はそのような時にはいつも祈りをもって神の御旨に聞こうとしていた人でありました。そのような彼の信仰の姿勢が詩篇の彼の歌に良く現われるのであります。

信仰者の最終的な上司は神様であります。ですから、信仰者は神様に最終的に聞くのであります。また、何かあったら最終的には神様、自ら確りと責任をとってくれる方であります。

私が韓国で暫く間、仕事をしている時の事でありますが、その時私には良き上司がいました。私の失敗談を一つ申しますが、大事な事の連絡を一つ忘れていました。それが問題になった時、その上司は恐ろしくなるほど私に対して大声で怒っておりました。もう首かなと思いましたが、彼は中央の方々の前では私を確りかばっていました。すべての自分の責任としようとする姿勢であったわけであります。

話を戻しますが、私たちがどのようにして神様に聞き、また神様に私たちの思いを申すのでありましょうか。それは他ならないで祈りであります。祈りを「神様との対話」とも、「信仰者の呼吸」とも言います。一応、聖書を読むのは私たちが一方的に神様の御旨を聞くことであるとすれば、祈りは聞きつつ、神様に私たちの苦しみや願いを具体的申すことであります。非信仰者は、勿論、神が何処にいるか、いるもしない神がどのようにして聞いてくれると言うのかと笑います。しかし、信仰者は神様は生きていて私たちの祈りを聞いて下さると告白するのであります。

以前ある本から読んだ祈りに関する証しを紹介します。ある青年が長年信仰生活をしていましたが、ある日、「常に祈りなさい」という御言葉が心に留まり、これは具体的に如何すれば良いのかと疑問が生じました。仕事をしながら、一日一回でも難しいのに、常に祈れとはあまりにも非現実的ではないかと疑問が生じたわけであります。それで自分が尊敬していたある牧師に行って如何すれば良いかと尋ねたそうです。するとその牧師は「主、イエス・キリストよ、私に慈悲を与えたまえ」と一日3000回、一週間、声をだして祈りなさいと言われたそうです。それで彼は真面目に「やってみます」と約束をしてその通りしましたが、心に平安と喜びが訪れたそうです。しかし、それ以上のことは起こらなかったそうです。それで約束の一週間が終わって、牧師にこの事を報告するとその牧師は「今度は一週間、6000回をして見なさい」と言ったそうです。今度もそれを約束して家に戻って真面目てやったそうです。今度も心に平安があったがそれ以上ものは起こらなかったそうです。また、終わって報告をすると、今度もまたその牧師は「それでは12000回を一週間だけやって見なさい」と言ったそうです。始めの一日目はさすがに声をだして言うのは難しかったそうですが、でもやっている内に、心に絶対的平安と喜びがあふれ、自分の周りにあるモノのすべてが美しく輝きだし、余りの嬉しさに涙が溢れ出たそうです。自分以上にこの世に幸せな人がいるだろうかと思うようになったそうです。その本の中での、彼の言葉が印象的でありましたので覚えていますが、自分が祈りを唱えたり、捧げたり、するというより、「祈りに導かれている」という事を分かったそうです。

ダビデもこの青年のように祈りに導かれていただろうと思いますが、祈りはこのように神様に一方的に唱えるのでなく、神様から与えられる声を内面から聞く事であり、祈りによって導かれるモノであります。ですから、祈りは神様との対話であると言うのであります。祈りによって神様からの声を聞く者は幸いであります。

今、紹介した祈りの例は具体的な内容と言うより、神様の守りの中でいたいという抽象的な祈りでありましたが、祈りはより具体的な祈りも勿論出来るわけであります。例えば、私の健康を守ってくださいとも祈ります。目標を立てた事が達成できるように助けてくださいと祈る事が出来るのであります。

余談になるかも知れませんが、この年末年始のテレビ番組の多くは漫才や歌、またマジックショーなどでありましたが、マジックになりますと欠かさずにハンドパワーを披露する人が現われます。彼らは念じてという言うべきでしょうか、それとも気を集めてというべきでしょうか、よく分かりませんが、兎に角、そのような力で、スプーンを曲げたり、モノの形を変えたりしますが、信仰者の祈りとはこのようなモノとは全く違うものであります。つまり、直接人間が何かのモノを変化させたりするものではありません。信仰者の祈りは自分の能力の限界を前にして、全知全能の神様に願う事であります。言い変えれば、信仰者の祈りは自然界に直接呼びかけて、その変化を求めるのでなく、神様に願うのが祈りであります。この意味で祈りは呪術とも全く違うものであり、また、自分に自分の言葉で言い聞かすような自己催眠とも違います。神様に願い、神様の助けを待つのであります。これが祈りであります。

今日の個所から私たちが注意すべきことを少し確認ながら話を纏めたいと思いますが、1節を見ますと「私の義を助け守られる神よ」となっていますが、これを誤解してはならないと思います。つまり、信仰者の祈りは自分の正しいと思うこと、自分が義だと思うことを神様に守らせようとする事ではないと思います。例え、自分が正しいことを神に守らせようとする事は、神様が信仰者の最終的な上司ではなく、自分意のまま動かせる部下にしてしまいたいという妄想であります。ダビデがそれを知らずこのように祈ったのでなく、徹底的自分の限界を知った上で、全知全能の神様に助けを求めるのが祈りであると知った上で、このように歌ったと思います。

因みに申しますが、自分が思うことが絶対正しいと言うような思い、ないし束縛から解放されるために、私たちは聖書を通していつも聞いているのであります。また、礼拝を通して共に神の前で跪くのであります。聖書に聞く時、無条件に聞こうとするのが重要であります。自分の義の基準をもって、御言葉に○と×をつけたり、点数をつけたりするものではありません。

ダビデは幼い娘を亡くした事がありますが、彼は自分の娘が重大な病気であることを知っては断食の祈りを始めますが、その娘は亡くなったしまいます。人間的な思いで言えば、その祈りは聞かれなかったのであります。それで、私たちは聖書に記されている「祈りは聞かれる」という言葉は虚しい言葉だと言えるのでしょうか。

決してそうでありません。神様は私たちの知恵や理解を超えたところで働かれる方であります。祈りは聞かれないと言える人は神さまと同様に完全な人だけであります。しかし、私たちは皆不完全であります。今、知っている事、今願っている事は部分であります。

この事を私たちは良く、子供と親の関係をもって喩えますが、子供が願うモノを親はすべて与えるでしょうか。決してそうでありません。時には親の判断で与えないこともありうるのであります。

最近まだ一才になっていないヨハナさえも自分の欲が満たされなければ、床に転びながら不満を表しますが、でも私たちは与えてはならないモノはいくら泣かれても与える事が出来ないのであります。私も元々頑固者と言われていましたが、この間ヨハナが床に転がりながら泣いているのを見て昔の私を思い出しました。私が小学校入る前の夏でありましたが、何を願っていたかは覚えていませんが、自分の要求を親に聞いてもらえなくて、車が通る道を転がりながら泣いた事があります。砂利の道でありましたが、ほこりが立たないように水を蒔いていていましたが、その上を転がりながら泣いて親を困らせたわけであります。しかし、今は、勿論、そのように子供のような要求はしません。

これと同じく、私が願った祈りがすべて即座で聞き入れられなかったとしても、今の私はすべてにおいて不完全である事を知っているが故に、祈りは聞き入れられないとはいわないのであります。何れか神の前に立った時、そのわけが知れされると信じています。

ダビデは自分の娘が亡くなるとそれほど必死になって祈っても、それが聞き入れられなかった事を覚えていたはずでありますが、今日の個所で「主は私が呼ばわる時お聞きくださる」と告白をし続けるのであります。自分の不完全を知り、何時か神の前でそのわけを含めてのすべてが知らされる事を信じて、今のすべてを神に委ねつつ、祈る事が出来たからであろうと思います。