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2005年1月16日 |
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「ネヘミヤの祈り」ネヘミヤ記1・4〜9 テーマ:義人は神の名が教会において留まるのを祈り、その為の業を尽くす。 時:05.1.16. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
私は毎年一月になりますと歯の検診の為に福岡のある歯科医院に行っております。何日か前に行って来ましたが、少し待たなければならなかったので、待合室のテーブルに置かれていた雑誌を広げて見ましたが、ある女性陶芸家が紹介されていました。少し読んでみますと有名な方のようで、彼女の一生をテーマにした映画も近々上映されるようでありました。波乱万丈の人生を送ったようでありますが、絶望を前にしてでも打ち込む事の出来る陶芸があったから、そこから這い上がってくる事が出来たと彼女は証言していました。そして、最後に「自分から陶芸を取り除くと何も残らない」と言っていました。まさに陶芸が彼女を支えきた事をその言葉が表しているようでありました。 その陶芸家は自分の仕事、作品を眺める時のみ自分が生きている理由が確認でき、また喜びを覚えたのではないかと思います。そのような人生であったから、「自分から陶芸を取り除くの何ものこらない」と言えたと思います。 ふと、この言葉に私を当てはめて考えて見ました。つまり、私から何を取り除けば何も残らないと言えるモノは何だろうかと考えてみたわけであります。私にはやはり「教会」であります。これは決して、私が牧師であるからこう言うのではありません。例え、私が今日牧師をやめても、明日も、全く同じ言葉を発すると思います。また、そのような者でありたいと願っています。私は教会に行くようになって、間もなく、そのような一生でありたいと願ったわけですが、何故かと言えば、教会で私は始めて神様との出会いが赦され、それによって私の存在価値が知らされ、また、教会で神様を介しての新しい人間関係を作ることが出来たからであります。言い変えれば、教会を中心にして私は神様と、他人との出会いが赦され、これによって教会が私の中心となり、私の存在の基盤となったのであります。これは勿論私だけがこう体験し、信じて、このように語る事ではありません。すべての信仰者にとって同じことであろうと思います。 さて、今日の聖書の個所は信仰の共同体の為に祈ったネヘミヤの話であります。彼は祭司ではありませんでした。しかし、一信仰者として神殿の再建の為の祈りが起され、その為に全力を尽くした人でありました。祭司や牧師だけが熱心な信仰者であると思う方がいるかも知れませんが、それは先入観に過ぎない事であります。 今月は「祈り」をキーワードにして共に御言葉から聞いておりますが、今日は特にネヘミヤの祈りから共に学びたいと願います。 祈りとは何でしょうか。信仰によって求めることとは何でしょうか。また、私たちは何を祈り、何を求めるべきでありましょうか。お金でありましょうか。名誉でありましょうか。信仰者は常にこれを問わなければならないと思いますが、今日の個所はこの問と関連しての多くのモノを私たちに語ってくれます。 今の時代は遠くを見て求める人の少ない時代であります。多くの人々が目先の利益だけを求める時代であります。また、共同体の為に求めるのでなく、自分の利益だけを求める者が多い時代でもあります。このような事を考えますと、今は祈りのない時代であると言っても良いかも知れません。この世の言葉に聞こうとする前に、御言葉から先ず聞き、そこから祈りが起される者は幸いであります。なぜなら、その者は最も遠くを見つつ、最も大きな自我を実現したいと言う遠大な夢を抱くようになるからであります。 キリスト教と仏教と比較するつもりではありませんが、教えとしては今日の個所のテーマと似ているモノもあります。つまり、仏教で言う「大慈大悲」という言葉がありますが、これは自分への慈しみや、自分による悲しみが大きいと言う意味ではありません。他人の為に慈しんだり、悲しむ事を「大慈大悲」と言います。仏教でもこのように人を愛することや、人の為に悲しむ事は自分だけを愛したり、自分だけの為に悲しむより尊いモノであり、大きなモノであると教えています。 イエスは友の為に命を捧げる愛より大きな愛はないと言いましたが、この言葉は正に他人の為に犠牲し、他人の為に生きる愛が最も大きな愛であると言う意味であります。イエス・キリストが十字架の上で罪人の為に命を捧げたのもこの愛であります。 今日の個所の4節でネヘミヤは当時の神殿やイスラエルの状況を聞いて、「座って泣き、数日の間嘆き、悲しみ断食をして天の前に祈っ」たと記されていますが、これは正に人の為に悲しむ「大悲」のネヘミヤを伝えているのであります。 話が少し変わるかも知れませんが、私が好きなテレビ番組と言えば、やはりニュースと動物に関する番組であります。この間、テレビを見ていましたら、東南アジアのジャングルに棲息している鳥だそうですが、「ツカツクリ」と言う鳥が紹介されていました。卵を産む為に落ち葉を集めて塚のようなモノを作るからそのような名がつけられているようでありますが、雄鶏が先ず直径何bする大きな塚を作るとその中に集められた微生物によって腐食が始まり、その塚の中の温度が35度まで上がるそうです。そのような塚を作っておいて、雌鳥を待っていると産卵の場を探してた雌鳥が現われ、そこに穴を掘って卵を産むそうです。それで一定の時間が経つと孵化をし、その塚から出てくるわけであります。私たちの周辺にいる鶏は、卵を自分の体温で温めて孵化させますが、同じ鳥であってもやはり種類によってその種族を保存の方法が違うようであります。 その番組を見ながら、私は以前、鶏が自分の体温で卵を暖めるのは本能であろうと思いましたが、それが、必ずしもすべての鳥に備えられた本能ではなく、環境や学習によって与えられた習性であるかも知れないと思い直されました。 これも鳥の話でありますが、カラスを私たちは頭が良い鳥だと良く言います。例えば、カラスは堅いモノを嘴で割る事が出来ないと知った時はそれを車が通る道の上に落としておいて車がそれを踏むまで待って、それを取って食べる事もあるようであります。これを見ると確かに頭の良い鳥のように思われます。 しかし、これはカラスの頭が良くてそのような事に思い付いたというより、食べたいと言う一心があってそのような方法が教えられたと思います。また、先ほど例で申し上げたツカツクリという鳥も頭がよくで、落ち葉を集めて置くとそれが暖かくなると言う事に気付いたのでなくやはり自分の種族を残さなければならないと言う本能ないし一心がそのような事に気付かせ、それが習性として伝わったと思います。 祈りとはこのようなモノに似ているところがあろうと思います。人は何を祈り、何を求めるかによってその人の生き方や人柄が決まります。その人の知恵や能力はその祈りの方向や内容にそった形で成長されて行くものであります。更に言えば、祈りに従って神様は私たちに知恵を与えてくださり、また助けて下さいます。それで祈りによって人は時々自らの限界をも越えての仕事も可能になるのであります。 先ほど今は祈りのない時代だと申しましたが、人々は経済的なモノだけを求めて来ました。これを私たちの信仰の言葉に置き換えますと、この世は物質的な豊かさだけを求めまてきました。しかし、神様を求めたり、神様の秩序による他人との共存を求めていないこの世であります。 その結果、確かに多くのものが与えられましたが、心には空洞が出来て、喜びは失い、人は人を警戒し、出来れば互いが近づきたくない、関係を持ちたくないと言うようなそのような殺伐な時代となってしまいました。人間はパンだけで生きるモノでないのに、パンだけを求めてきた結果であると言わざるを得ません。 先週の月曜日は成人式でありましたが、ニュースを見ていましたら、例年の如く暴れたりした若者を多く伝えていました。去年も同じ事を申したと思いますが、この成人式は大いに意味のある日であります。新しく責任のある大人となった事を祝い、また、それを確り受け止めて、新たなる出発を期待しつつ、成人式を国を挙げて行い、また祝日としているのであります。それを報道されるような形で裏切るのは大変悲しい事であります。私は成人式の日だけでの事を見てこのように目くじらを立てながら言っているつもりではありません。この世の現状の一面を彼らが代弁でもしているかのように思われるから申し上げているのであります。この世の為に、共同体の為に祈る事が求められている時代であります。つまり、信仰の共同体の為に、また日本の為に、若者の為に、世界の為の祈りが必要な時であります。 今日の個所の背景になっている時代も今の時代のように良くない時代でありました。ある意味で絶望的な時代でありました。そのことをネヘミヤは6節後半から7節にかけて「まことに、私も、私の父の家も罪を犯しました。われわれはあなたに対して大いに悪い事を行い、あなたのしもべモーセに命じられた戒めをも定めをも掟をも守りませんでした」と語っています。なぜ、このように自分を含めて、イスラエルが罪を犯したとネヘミヤが言ったかと言えば、ネヘミヤは崩壊した信仰共同体としてのイスラエルが、再起する条件がもうすでに整えられているのに、再起できずにいたからであります。もう少し詳しく申しますと、イスラエルはネヘミヤが活動する約150年前にバビロン帝国によって滅ぼされ、神殿は破壊され、そして、多くの人々がバビロンの捕囚になっていました。しかし、時代は変わって、ペルシャ時代が始まっていました。つまり、ペルシャの王クロスによって捕囚の身から自由が赦され、エルサレムに戻る事が許可されていました。しかしながら、多くの人々はまだスサと言うペルシャの首都に留まり、イスラエルに戻って神殿を再建して、信仰共同体としての新たなる出発を怠っていた訳でありました。 その捕囚の一人として来ていたネヘミヤは出生をしてスサで王のの給仕役を務めていましたが、王の給仕役とは最も王の近くにいた人であって、王に大変信頼されていた人であります。異国の人としてそのような仕事をしていましたから、ネヘミヤの誠実は推測ができます。兎に角、彼は王の身近にいましたから、一人だけの楽な生活をしようとすれば、可能であったはずであります。 しかし、彼はイスラエルの地から聞こえてくるイスラエルの現状を聞き流す事が出来ませんでした。つまり、エルサレムの神殿が崩壊されたまま放置されていることを聞いて、彼は断食をしながら涙をもって神殿の再建の為に祈ったわけであります。なぜそうであったでしょうか。彼にとっては神殿とはただ宗教的なシンボルでなく、イスラエルという信仰共同体の精神と生活の中心であったわけであります。あっても無くとも構わないのでなくイスラエルとって欠かすことの出来ないモノであったわけであります。おそらく、その知らせと共に、ネヘミヤは自分から信仰共同体としてのイスラエルや神殿を取り除いては自分の存在の意味も、今の栄華の意味も無であることに気づかされただろうと思います。それでそのように激しく泣き祈り始めたのであります。 彼は祈りの末に、様々な混乱が予想される中で、自分の一人の栄かを顧みないで、彼は王に神殿再建の許可と協力を申し出るのであります。ネヘミヤ記の全体は神殿再建のための計画や苦労、また完成された後の喜びがその内容となっています。 因みに申しますが、ネヘミヤはリーダシップを学びたい人には多くのモノを教える書物でもあります。自分の一身の為に祈るだけでなく、共同体の為に大きく、更に遠くのみながら祈る人は、その祈りの為に身を投じ、また、そのためのリーダシップを発揮するための計画やプルグラムを準備し、実行して行くのであります。ネヘミヤ記にはそのようなネヘミヤの姿が画かれています。 今は勿論ネヘミヤが活動をしていた時代とは違います。つまり、神殿の時代ではありません。神殿が神様の住むところではありません。神様はイエス・キリストの御名の下で集まる群の間を住処とされています。言い変えれば、私たちは教会という群の中で神様を呼び求め、またそこで神様に出会い、そして、神様が私たちの群を支配されるのを願うのであります。神様はそのような祈りを私たちに求めています。また神様はご自分の住処としての教会が、例えば、「和白教会」という私たちの領域だけに止まるのでなく、この世のすべてが教会であることを求めています。ですから、地の果まで御名を伝えなさいと命じているのであります。そのような教会でありたい、その為に、自分が用いられたいと言う祈りを共にもって歩む事が出来ればと願っています。 |