2005年1月23日

「ヤコブの祈り」(創世記32・22〜28)

テーマ:祈り自体が勝利である。

時:05.1.23 於:和白教会 説教者:黄仁坤

近くに城東高校がありますが、この間、その前を通っていましたら、校門の隣に立っている校訓らしき文字が目に留まりました。自然石の一面を切断し、磨いてその上に「克己、友愛、礼節」と刻まれておりました。それを見ながら色々思わされましたが、「克己」とは私も高校時代にテーブルの上にマジックで大きく書いておいて自分の勉強を自ら励ました事があります。

この「克己」の出典は論語でありますが、願淵という弟子が孔子に「仁」とは何かと尋ねたところ、孔子が「克己復礼」が「仁」であると答えたところがあります。このように元々出発は己に勝って「礼」を回復すると趣旨の話でありましたが、今は、如何やら、元々の「克己復礼」のなかから「復礼」が取られた形の「克己」という二文字だけが、広く使われているようであります。

これによって、当然、何の為に己に勝つかと言う制限がなくなって、幅広く使えるようにもなりました。つまり、必ずしも「礼に戻るために」と言う制約はなくなって、人々は、己に勝って勉強に励むとか、己に勝って相手を負かすか、また、己に勝って何かの誘惑を振り切るとか、どの場合にこの言葉を用いるようになったのであります。

また、人々は「克」と言う文字を好んで子供の名前にもつけます。私の知っている方は「克世」でありますが、おそらく親がこの世に勝ちなさいと願いを込めてそのような大きな名をつけたと思います。

このように多くの場合、人々は他人に勝つ事に拘って、克己と言う文字をそのために用いますが、城東高校の校訓の場合、始めに克己があってその次が他人との関係のための言葉として「友愛」があって、最後に「礼節」という順になっていますから、「克己復礼」という出典の趣旨に戻ったかなと思われました。

何れにしてもそれを校訓に掲げている以上、それを教育の理念としてそれに沿う教育をして欲しいと期待をしていますが、おそらく現実は入試の為にすべての力が注がれて校訓に沿う教育をしようという志は忘れがちになっているだろうと推測しています。

校訓を持たない学校はないと思います。しかし、殆ど学校が校訓に沿う教育の為のカリキュラムないし、プログラムをもって具体的に教育に適用していくのは殆どないと思います。自分の高校時代の校訓も思い出して見ましたが、確かに、教室の黒板の上には掲げられてはいましたが、ただ飾り物に過ぎなかったと思います。

話が逸れておりましたが、この「克己」という言葉をもう少し考えて見ますと、己に勝つとか、己を制するとかという言葉の裏には己というモノが二つに分化されているという意味ではないでしょうか。つまり、正しい事をしようとする自分、理想とする自分がいる。一方、欲や怠惰な心によって、正しくない方向に進む自分、現実に流されている自分がいる訳であります。それで、正しい自分、理想とする自分が、不義で怠けている自分を制して何時も格好よく、自分だけに勝つのでなく、他人にたいしても勝利をし続けることが出来ればと言う願望がこの「克己」という言葉に託されているだろうと思います。

先ほど、私も高校時代にテーブルの上に「克己」という言葉を大きく書いておいて自分を励ましながら勉強をしたと申しましたが、しかし、何時も自分が、もう一人の自分に勝ったと言えば決してそうではありません。それとは逆に正しい自分が正しくない自分により多く敗北をしていました。それで益々心の中には葛藤が生じ、自分を憎んだりしながら、心の中で何時も自分に向かって「愚か者、馬鹿者、汚れた者」などと叫んでいました。それがいつの間にか、そのような自分に目をそらしながら適当に過ごすようになったのであります。すなわち、何か心の中で整理がついたわけでも、正しい自分が正しくない自分に勝ち続けたわけでもありませんでしたが、そのような人が私である言いながら、ある意味で諦めていました。

勿論、今も自分の内面を覗いて見ると葛藤し、時には勝ち、時には負ける日々が続いています。ところが、聖書はこのように人が二分化されている自体を罪と言います。ですから、私はクリスチャンになっている今も罪人であります。この話は後でもう少ししたいと思います。

如何でしょうか。すべての人の心は二分化されているのではないでしょうか。つまり、心の中で二人の自分が常に、葛藤しつづけ、戦い続けるのではないでしょうか。聖書が「義人はいない一人もいない」と言う所以であります。

人の心の中での葛藤ないし戦いをパウロはこう語っています。ローマ書7章22節以下でありますが、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中にわたしをとりこにしてるのを見る。わたしは何と言う惨めな人間なのであろう」と嘆いています。これに続いてのパウロの言葉でありますが、「誰が、この死の体からわたしをすくってくれるだろうか」と語っています。つまり、これはそのような二分された自分が戦いをしているのを「死の体」と言っていますが、「この二分された罪から誰がわたしをすくってくれるだろうか」と言う嘆きであります。

そして、ここが大事でありますが、パウロは25節で、嘆きの後にいきなり、「私たちの主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」と賛美をします。

これは今日のメッセージのテーマでありませんので、簡単に申しますが、キリスト教は神様の力を借りて、二つに分裂された自分の一方が他方の自分に勝つための信仰ではありません。葛藤し、戦い続ける自分、言い変えれば、二分化された自分を知り、そのあるがままを神様に申し、赦しを願う信仰であります。

さて、前置きが長くなりましたが、今月は祈りをキーワードにしてメッセージをしています。それで先週はネヘミヤの祈りの中での一箇所を選んで共に聞いたわけでありますが、ネヘミヤの祈りは信仰共同体のための祈りでありました。つまり、自分のための祈りと言うより、他人の為に、イスラエルの為に、神殿再建のための祈りでありました。

今日はヤコブの祈りと言うタイトルでありますが、このヤコブの祈りはネヘミヤの祈りと違って、自分の心の中の葛藤や不安を為の祈りであります。

ヤコブとはどのような人物であるかを先ず申しますが、彼はエサウと言う兄弟との双子であります。ヤコブと言う名前は通常「踵を掴む者」と言う意味であります。生まれる時兄の踵を捕まえて生まれたと言われています。それでそのような名前がつけられたわけであります。二人は成長してエサウは狩をする人となり、弟のヤコブは羊を飼いになりました。ところが、ある日、兄エサウの軽率に乗じて、兄としての祝福相続権を騙し取ります。それで彼はエサウに憎まれ、親もとを離れてハランと言うところまで逃げるしかありませんでした。そこに彼の親戚がいたからであります。

しかし、そこでもラバンと伯父に酷い扱いをされながら十年余りを仕方なく、耐えますが、結局は耐え切ることが出来ずに、夜逃げ同然、そこを離れます。しかし、彼は故郷には簡単に帰る事が出来ませでした。今も怒りを抱いているエサウがいるからであります。

聖書によりますと、エサウは狩をするひとであって性格が男性的であって、攻撃的であり、ヤコブはそれとは逆の性格であります。そのようなヤコブがハランから逃げて辿りついた所が今日の個所の背景になっているヤボクの川の辺でありました。

ヤボクの向こう川は自分の故郷ではありますが、自分を殺すかも知れないエサウがいます。と言って、戻る所があるかと言えばそうでもありません。彼の伯父ラバンも彼に怒りを抱いているからであります。文字通り進退のどちらも困難でありました。悩んだ末、彼は自分の家族と家畜を先に、ヤボク川を渡しておいて自分はこちら側に残って、一晩中悩みます。今日の個所はその時の彼の様子を伝えています。

ところが、夜中に彼のところに神の使いが現われ、彼と組み打ちしたと言う不思議な事を伝えています。聖書で神の使いが現われたと言えば、神さまの言葉を人に伝えるためでありますが、それで、ここの記事も神の言葉を前にしてのヤコブの悩みを、このように「神の使いとの組み打ち」として伝えていると理解出来るのであります。

信仰者は何時も神の言葉を前にして葛藤したり、自分と戦ったりします。今日、教会に行くべきか、それとも他の仕事をすべきか、それとも休むべきか、また、献金はすべきか、そのお金を貯金すべきか、それとも直接、貧しい隣人に渡すべきかなどとも悩んだりします。信仰者であるから悩みも戸惑いもないということではありません。

しかし、信仰をもっていない人のように、自分が二つに分かれて悩むのでなく、信仰者の場合は、自分と神様の言葉との戦いであります。言い変えれば、神様の言葉を前にしての葛藤であります。非信仰者のように己に自らが勝とうするのでなく、信仰者は神様の言葉と組み打ちをするのであります。そして、時には従い、時にはそうできない自分を見て、赦しを求めたり、助けてくださいと願ったりする者であります。それが祈りであります。自分の弱さを見て神に助けを求める者は幸いであります。その人は助けられ、慰められるからであります。しかし、非信仰者にはその道が閉ざされていますから、自分を自分が慰め、自分の弱さや不義を自ら正当化していくしかないのであります。

25節を見ますとヤコブは神の使いと組み打ちをする間、腿のつがいが外れたと記されていますが、これは神様の言葉を前にしてどれ程激しく悩んだかを伝える言葉であります。川を渡れば、殺されるかも知れない。しかし、そこは神様の約束の地である。その悩みであります。ヤコブの性格から考えますと、また、他の所へ逃げてしまいたいと彼は考えていただろうと思います。

しかし、彼は最後まで、腿のつがいが外れながらも神様の言葉と確り組んでいたのであります。つまり、現実的な危険、痛み、損失などが予測されながらも神様の言葉を心から追い出さないで、確り留めていたのであります。これが信仰者の勝利であります。悩まないで、葛藤しないで、何かの法則や義務に従うのが勝利でなく、悩みつつ、戦いつつ、神様の言葉にしがみ付いている事自体が勝利であります。

それが28節に示されています。該当するところだけを読みますと「あなたが神と人とに、力を争って勝った」と示されているのであります。神は腿のつがいが取れたのに、神様はヤコブが勝利したと宣言をするのであります。現実的には多くの痛みがあるのに、神の言葉に踏みとどまっているあなたが勝利した者だと言うのであります。

神の使いはヤコブに根負けをし、このようにヤコブを宣言しながら、ヤコブの名前を尋ねます。これはヤコブそれほど願っていた神様からの決定的な祝福でありますが、彼は最早ヤコブでなく「イスラエル」であると新しい名を与えてくれます。新しい人格の誕生の意味であります。「イスラエル」とは神と共に励むと言う意味でありますが、この新しい名の命名はヤコブは最早、人の踵を捕まえて歩むような者でなく、神様の励みと共に歩む者として生まれ変わったと言う宣言でもあります。

このような個所から倣ってカトリック教会は洗礼を受けた人には洗礼名を与えますが、私たちは洗礼名を持っていませんが、しかし、本質的な同じであります。つまり、キリスト者として新しく生まれ、祈りの中で神様の言葉と共に歩み、神さまによって励まされているのであります。

ヤコブはそのような壮絶な神様の言葉との戦いを終え、また祝福を受け、殺意をもって待っているかもしれないエサウがいる向こう岸へと渡ります。約束の地への帰還であります。勝利への帰還であります。これは己が己に克ったことでなく、自分を神様へと委ねた事であります。これが完全なる勝利であります。これからも皆さんと共にヤコブのように祈りによる完全なる勝利者でありたいと祈っています。