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2005年2月6日 |
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「希望は失望に終わる事はない」(ローマ5・1〜5) テーマ:キリスト者は信仰による希望によって患難をも喜ぶ事が赦される。 時:05.2.6. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
この一週間、大変寒かったですが、昨日からようやく少し暖かくなりました。これから本格的な春が始まりますが、暫くの間はとても変わりやすい天気が続くと思います。互いに風邪をひかないようにしながら過ごしたいと思います。 何週かの前ですが、新宮に住んでいる知り合いの方から電話がありまして、新宮町の方々に呼びかけて憲法改悪に反対するための「九条の会」を結成したいと言う事で、共に呼びかけ人になってくれないかと言われました。喜んで参加させていただきますと答えましたが、何日かの後になって賛同する人々が集まって「九条の会」の趣旨などを聞きました。そして勉強の為に何冊かの本をも分けて頂きました。 その中には「憲法9条、いまこそ旬」と言う小さい雑誌も含まれていましたが、そこに大江健三郎氏の文章もありました。勿論、平和憲法とも言われる根拠にもなっている9条を改悪してはならないと言う趣旨の内容でありました。彼は「教育基本法」の前文と「憲法9条」に使われている言葉を取り上げながら、これらを制定した人々の願いや当時の社会的な合意を踏みにじってはならないと言っておりました。短い文書でありますので全文を紹介します。先ず、教育基本法の前文でありますが、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和と希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性のゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない」となっています。とても素晴らしい理念であると言わざるを得ません。 大江さんが取り上げた言葉はここでの「希求する」と言う言葉であります。彼によりますと「希求する」と言う言葉は若い方には耳慣れない言葉であるそうです。それより「望む」か「求める」、または「希望する」と言う言葉がより自然な文章になるそうです。より自然な言葉を敢えて選ばず、やや不自然で聞きなれない「希求する」と言う言葉を選んだ人々の心を私たちは読み取らなければならないと言っていました。 そしてこの「希求する」という言葉は9条にも登場します。これも全文を読みますが、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」となっています。 残念ながら、今、このような素晴らしい憲法や教育法の理念を放棄しようとしています。それが世の流れになっています。それほど強く求めていた平和や人権への思いを諦めようとしています。考えてみれば、アイロニーであります。つまり、その間の60年の平和が平和を希求する心を鈍らせたと思います。良い文化や思想は必ずしも良い環境で育つものでなく、苦境において逆に育つモノかも知れません。人も同じ事を言えます。必ずしも良い条件が人を精神の面において成長させるのでなく、様々な困難を通り潜りながら成長するモノであろうと思います。 さて、今日の聖書の個所はローマ書でありますが、このローマを書いたのはパウロであります。パウロは伝道者として立てられてから、ご存知のように大変苦労をなさった方であります。どれ程の苦労をなさったかを自らこう記している個所がありますが、読みます「苦労した事はもっとも多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむち打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒れ野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった」と自分の苦労を列記しました。 何でそこまで苦労をしたのでしょうか。人間的な慾だけで言えば、信仰や伝道者の道を放棄し、より楽な道を歩む事も出来たはずなのにと思われます。しかし、彼はより確実な喜びや恵みを得ていたから、そのような苦労を敢えて耐え忍んだのであろうと思います。そして、今日の個所でパウロは私たちに「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す」と語るのであります。このような壮絶な言葉はパウロほどの苦労をしたことのない人は語る事が出来ないと思います。 例え、このような言葉を誰か想像力が豊かで、文章力のある人が辞書を引きながら、または、他人の苦労話を参考しながら書いたのであれば、全くの説得力のない虚しい言葉になってしまいます。しかし、パウロは自らの体験に基づいてこう語りますから、大変な力をもって私たちの心を揺さぶり、私たちの心を捉えるのであります。 パウロはこのように如何なる患難にたいしても神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいました。これが信仰者にあたえらる特権でもあります。つまり、信仰をもっていない方にとっては患難はひたすら憎むべきものでありますが、信仰者はそれを練達される機会として捕らえ喜びさえ覚えるのであります。 今月は「信仰」をキーワードにして共に聖書から聞こうとしますが、今日は特に信仰者はなぜ、患難の中でも希望を失わないのかを共に学びたいと思います。 信仰者にも様々な困難が訪れます。つまり、何の困難にも遭わないようにしてくださいと幾ら祈り、また、そのような困難に遭遇しないように幾ら努力しても何処かで必ず困難に遭うのであります。 人々は昔から人間は患難と共に生きる運命であって、避けられないモノだと思っていたようであります。ギリシャ神話にパンドラと言う女性が出てきますが、人間に神の火を盗んだ罰としてパンドラと言う女性が送られますが、この女性が人間の家にあって箱を好奇心で開けるとあらゆる災いがそこから出て人間世界にひろがりました。それでパンドラは慌てて蓋を閉めましたが、その箱の底に希望だけが残っていたと言う話であります。このように、人間とは災いから自由になれない、それが神によって定められたという思想がこの神話にあります。 これにやや似ている聖書の個所もあります。創世記の始めあたりに人間は善悪の実を食べたのでその罰として楽園であるエデンから追い出されるのであります。そして、神様は人に「あなたは一生、苦しんで地から食物をとる。地はあなたのためにいばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう」と宣言したのであります。 このような個所を通してでなくとも、私たちは自らの経験として、今までまったく苦労がなかったと言える人は一人もいないのであります。また、それが故に、これからも大なり小なりの苦労や患難が待ち構えている事をも知っているのであります。 悲惨な話でありますが、一昨日も東京近くで6人の男女が車の中で炭火を焚いて自殺をしてしまいました。似たようなような事故が相次いでいますが、この間、発見された遺体からも「生きるのに疲れた、葬式はしないでくれ」と言う遺書が見つかったそうです。彼らはおそらく人生とは苦労が繰り返されるだけでないか、それに何の意味があるのかなどと言う思いに囚われ絶望してしまっただろうと思います。苦労や患難はひたすら憎むべきモノなのに、そこから出口が見えないという思いが彼らを死に追い込んだのであります。 如何でしょうか。苦労や患難は何の意味のないひたすら憎むべきものであって、避けるべきものでありましょうか。もしそうであれば、人間は絶望せざるを得ません。意味のない苦しみをただ繰り返さなければならないからであります。正に希望がパンドラの箱に閉じ込められている状態であります。 人間はこの閉塞状態に閉じ込められているだけの存在でありましょうか。決してそうではありません。私たちはイエス・キリストによって希望を見出すのであります。「あなたたちはいばらの間で額に汗ばみながら食べ物を得るだろう」と宣言した神と私たちはイエス・キリストを通して和解をしたのであります。 これによって、私たちの善悪の判断によって患難や苦労はひたすら「悪」なるものと言わないで、そこで神の計画と摂理を見出すのであります。これがキリスト者は信仰によって「義」とされた言う所以でもあります。 聖書は患難の中で信仰によって希望を見出した人々の証でもありますが、聖書の中に登場する人物の中で何の苦労もしなかった人がいるでしょうか。一人もいないと思います。神の子として来られたイエスさえも十字架の苦しみがありました。それをまた避けようともしないで、神の愛と計画が示されることを祈りつつ、そこに立ち続けたのであります。それで復活と言う神の栄光が現われたのであります。 私たちも勿論この栄光に預かることが約束されています。それで、この世の如何なる苦しみも患難も無意味なものでなく、また絶望に終わることがない事を知っているのであります。信仰によって絶望の中でも希望を見出す者は幸いであります。 話が少し逸れますが、私たちが「希望」と言う言葉を発する時、二つの意味で使うのではないかと思います。はじめに、例えば、「自分はプロの野球選手になりたい」「宇宙飛行士になりたい」「金持ちになりたい」と言う類があります。ところが、何々になりたいという事は世俗的な事ではないかと思います。勿論、自分がそのような目標ないし希望をもって自己管理をするのは悪くはありません。しかし、このような世俗的な考え方だけであれば、もし、それが叶えられなかったら自分の存在価値はないと思い込み絶望してしまう恐れがあるのではないかと思います。 もう一つは希望の意味は絶望に対しての概念であります。つまり、一見、絶望のように見えたり、周りではもう望みがないと言う時であろうとも、絶望の上に座り込まないで希望を見出すと言うような意味であります。 ですから、世俗的な意味での希望は「何々になりたい」と言う働きをしますが、この後者の意味での希望とは「こう生きたい」ないし「こうでありたい」と言う働きをするものであろうと思います。今日の個所で使われている「希望」と言う意味もこの意味であると言って良いと思います。すなわち、パウロが何々になりたい希望によって患難を乗り越え、また喜んだのでなく、患難の中でも神の栄光が約束された者としてありたい、そのように生きたいという信仰によって患難を喜びさえ覚えながら、乗り越えたのでありました。 因みも申しますが、人は何々になりたいという希望を持つより、「どのような人でありたい」と言う自分の言葉ないし人生観を持つ事がはるかに大事であろうと信じています。全く同じ論理で言います。私たちはすでにキリスト者になっていますが、「キリスト者になりたい」より、「どのようなキリスト者でありたい」という祈りがはるかに大事であろうと思います。 話を纏めて終わらせたいと思いますが、信仰者は如何なる患難が押し寄せてきても絶望しません。信仰と絶望は両立できないものであるからです。寧ろ、患難を成長させられるための神の計画として喜ぶ者であります。今日の個所の言葉で言うならば、患難は練達を生み出し、練達は希望を生み出します。 この練達と言う言葉が少し難しいと言うか、この文脈には少し合わないような気がしました。つまり、練達と言えば、熟練した技術者の技などを思わせる言葉のように思われました。それで、辞書を調べてみましたが、練達とは「熟練して精通すること。物事になれて奥義に達していること」と説明されていました。どうやら、私がイメージしたように手の技の為に使われるのでなく、より幅のある言葉のようでありますが、パウロは正に多くの患難と付き合いながら人生の奥義、信仰の奥義に達していただろうと思います。その中で、これ以上ないと言う喜びを聖霊の助けによって知っただろうと思います。そのような喜びをもって私たちに今日の個所を語っているのであります。出来れば、私たちも共にこのような信仰者でありたい、そのために共に信仰に励みたいと祈っています。 |