2005年2月13日

「なぜ怖がるのか」(マタイ8・23〜27)

テーマ:私たちが恐怖の中で神を忘れている時であろうとも、神は私たちと共にいる。

時:05.2.13. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

我が家には今までビデオカメラがありませんでしたが、この間は一寸した決心をして小さいビデオカメラを買いました。今週の土曜日にはナオミの発表会がありますし、三月の初めにはヨハナの発表会もありますのでもって行こうと思っています。それだけでなく夏期学校や子供クリスマスにも色々と取って保存しておこうと考えています。他にもこのようにあのようにと活用できるのではないかと想像を膨らませています。

この間、ビデオカメラを買いに行った時の事であります。博多にある大きな電気製品店でありますが、5階の片隅には占いの出店が何軒も並んでいました。これは地下道や町の彼方此方でも見られる風景でありますが、その日にはその光景が特に異様に感じられました。

最も科学的に先端を行っている製品を売っている店でありながら、その隅っこには最も古くて最も根拠のない占いを商売にしている人がいたわけでありました。色々考えさせられましたが、人々が占いに引かれる心理的な理由は色々あろうかと思いますが、最も典型的な理由はやはり「知らな未来への不安」であろうと思います。また、この占いはおそらく人類が始まって以来続いていると思います。こう考えますと今までの科学や人々の知恵の発達が太古からあった人々の不安や恐怖は取り除くことは出来なかったという事を知る事が出来ます。

この占いの種類にも色々あるようですが、最も手軽な方法として、手相が見ます。観光地などに行きますと、パソコンで手相を見てくれるところもあります。また、顔を見る観相と言うものもあります。また、生年月日に意味を付与しつる未来を当てようしたりもします。他にも、家の方角などを鑑定する、いわゆる、風水もあります。

占いを好む人々の不安と視聴率のためでありましょうが、最近、テレビで運命を鑑定すると言う女性がたびたび出現して言いたい放題、全く勝手なことを言って人々に更なる不安を煽りたてたり、また安心感を与えたりしています。公共の利益を計るべき放送がそのような百害あって無益な番組を作っているのは極めて残念であります。

その話はさておいて、このように人は自分の運命を予め知りたがります。そして、知らない未来への不安や目の前の恐怖を解消しようとします。しかし、私たちが明日の事を予め誰が知る事が出来るでしょうか。誰もわかりません。なぜなら、占い師などが言うような運命はないからであります。つまり、運命と言うモノがあって、それは既に決まっていて変わり様のないモノと言うようなモノはありません。もし、定まった運命があって、それが不変であれば、それに興味をもって何とかそれを当ててみようとする努力に意味があるかも知れません。また、家の方角さえ良い方向にしておいて、何もしないで幸運が訪れるのを待っていても良いかも知れません。

では、聖書は占いを如何見ているでしょうか。神様は聖書のいたる所で占い師を憎んでいると語っています。時には占い師は殺されるべきだとまで言ってそれを厳しく禁じています。それが何千年の前から人々に語られていますが、未だに昔のままの原始的な宗教心によって占いなどに走る人がいる訳であります。また、そのような人々の心に便乗して占い師や偽宗教者が金儲けをしているのであります。

と言って、全てを人間の意志と努力で決める事が出来るかと言えばそうでもありません。例え、自分が生まれた日日や、親などは自分の意思と計画によるものではありません。神様が定めたモノであります。他にも私たちは不可抗力としか言い様がない事をも経験してきましたし、これからもあろうと思います。ですから、私たちは占い師が言うようなモノに惑わされてもならないし、また全て自分の意思だけで定めて生けると高ぶってもならないのであります。

先ほど、人間には定まった運命はないと断言をしましたが、では、聖書は人の運命を如何語るでしょうか。一言で言えば、神様が人の明日を導きますが、神様が一方的に定めるのでなく、神様と人と対話によってであります。

この事を示す、典型的な一つの個所を紹介しますと列王記下20章2節以下でありますが、神様はヒゼキヤ王に死を告げます。するとヒゼキヤ王はもう少しの命の延長を願います。それで15年命が増したと語られています。人間と神との対話の中で運命が定まるという一つの例であろうと思います。

さて、今月は「信仰」と言うキーワードをもって共に聖書から聞いていますが、今日は特に私たちの信仰者はどのような姿勢で未来への不安や目の前の恐怖に対応すべきかを今日の個所を通して共に学びたいと思います。

不安や恐怖とは似ているようありますが、厳密には違う意味をもっています。辞書を引きますと、不安とは未来に起こる可能性に対して抱く情緒でありますが、恐怖は目の前にある具体的な危険に対して抱く情緒であります。

聖書は不安や恐怖を共に余計なものとして、抱いてはならないものとして語っています。イエスは明日のことは明日に任せなさいと語ったところがありますが、明日の事を今日予めて心配するような事は恐怖でなく不安であります。余り根拠のない漠然とした可能性に対しての心配であるからです。

しかし、今日の個所では、弟子達が目の前の荒波を見て命の危険を覚えているからこれは恐怖であると言えるかと思います。何れにしても聖書は不安に対しても、恐怖に対してもそれを抱かないで、それより神が共にしてくださるという信仰に生きることを勧めています。

前置きがながくなりましたが、今日の聖書の個所はイエスと弟子達が船旅をしていた時の出来事であります。度々申し上げていますが、ガリラヤ湖は縦22`横11`ほどの湖であります。小さいといえば小さい湖であります。しかしながら突風がよくふくそうです。ある日、イエスと弟子達は共に船に乗り込んで反対側に行こうとしていました。その時、突風がふいて荒波が立って今にでも転覆しそうになったようであります。多くの弟子達は元々ガリラヤ湖で魚を取っていた人が多くいました。つまり、ガリラヤ湖は知り尽くした人々であったはずであります。当然、泳げたはずであります。ある意味では水には自信のある人々でありました。一方、イエスは彼らよりは海には慣れていなかったと思います。しかし、船の中での弟子達とイエスとは対照的であります。イエスは眠っておられましたが、弟子達は目の前の荒波に心まで飲み込まれてしまったわけであります。

この恐怖によって弟子達はイエスを憎んだわけであります。何もしないイエス、目の前の荒波に何の関心を示さないイエス、自分の運命には何の関わりもないイエスのように思われたと思います。

そのような不満と共に弟子たちはイエスを起したのでありますが、これに対してイエスは「なぜ怖がるのか、信仰の薄いものたちよ」と叱ったのでありました。

弟子達は今イエスと共に運命共同体とも言える船に乗っていながら、その意義を忘れているのであります。イエスが見たら逆に「私が共にいるのではないか、なぜ怖がるのか」と聞き返したくなっただろうと思います。イエスは弟子達にご自分が共にいる事を忘れていると言う意味で、信仰の薄いもの達よと弟子達を叱ったわけであります。勿論、弟子達にしてイエスを見失わせたのは荒波と言う恐怖でありました。

このように、不安や恐怖は人々にして度々正しい判断を狂わせます。先ず、その不安や恐怖から逃れるのが何より優先すべきことだと思い込んでしまうからであります。しかし、如何なる場合においても忘れてはならないことがあります。守るべき事があります。

これは実際にあった事でありますが、30年くらい前に韓国のソウルで大きなビルに火事がありました。多くの人々が犠牲になりましたが、その中で、助かった人の話であります。火事の中で何十人は屋上に逃げる事が出来ました。そこにヘリコプターが来ましたが、少しでも早く乗ろうとしたした人がいた訳で、彼は角材をもって他人を追い払いながらヘリコプターから吊り降ろされた籠に乗ったわけでありました。追い払われた人の中には老人もいたはずでありますし、女性も幼い子供もいたはずでありますが、その人はなりふりかまわず、そのような人々を振り切って先に載ったわけであります。

おそらく、彼も普段の生活の中では普通の振る舞いが出来た人であったかもしれません。例えば、バースや電車の中で老人や妊婦に席を譲る事の出来た人だったかも知れません。しかし、恐怖がそのように彼を豹変させただろうと思います。結果的には屋上に上っていた人は皆が助かりましたが、その角材で他人を追い払った人はどのような心境になったでしょうか。想像するだけでも恥ずかしくなるような話であります。

如何なる場合においても、例え、死が迫ってくる時であろうともその恐怖に飲み込まれないで、生死を司る神に全てを委ねつつ自分らしさを守る事が大事であって、それが美しい生き方であろうと思います。そのような美しい命が私たちに与えられているのではないでしょうか。そのためにはそのような場において神が如何振舞うように命じるかを聴かなければならないと思います。そうでなく、恐怖や不安に聞く者は必ず失敗をするだろと思います。だから、神様は私たちに不安や恐怖に囚われないように聖書を通して語るのであろうと思います。

キリスト教信仰をある信仰者は「インマヌエル信仰」と言いました。この言葉は聖書にも出て来る言葉でありますが、これは「神が私と共にして下さる」と言う意味であります。それで、信仰者は度々、「いつでも何処においても神が見ているから」「神が守ってくださるから」と告白をしています。

しかしながら、一旦何かの事件が目の前に迫ってくると、この告白を忘れてしまい不安や恐怖に陥ったり、そして、その場を凌ぐために適当な振る舞いをしてしまうのであります。

今日の個所ではそのような弟子達がイエスによって叱られました。でも、まだ弟子たちには希望がありました。と言うのはそのような恐怖をイエスに訴えたからであります。彼らは「主よ、わたしたちは今死にそうです」とイエスにその不満や恐怖をぶつけたのであります。

先月の初めのメッセージの中で取り上げた事でありますが、サムエル記の中でダビデは成功した王として、サウルは失敗した王として語られています。ご存知のようにダビデは失敗をしたり、何かを過ちを犯したりすると神の前にそれをもって言ったひとでありました。それで彼は成功と言うか、神が見るに正しく生きたわけであります。

サウル王の恥ずかしい失敗を紹介しなが話を纏めたいと思います。サムエル記上28章以下に記されていますが、サウルはペリシテ人々が攻めてくるのを見て恐怖に陥ってしまいました。ここまでは今日の個所でのイエスの弟子達と同じであります。しかし、サウルは弟子達と違ってある女性の占い師を尋ねます。如何すべきかを彼女に聞くためでありました。

その時までは彼は王として、御言葉に従って、占いをする者は殺されるべきであると言いながら厳しくそれを禁じていました。しかし、自分が恐怖に囚われると変装をして占い師を尋ねたわけであります。変装をしたと言うのは王と言う今の立場を忘れ、また自分らしさを忘れたという象徴であろうと思いますが、彼は形振りかまわず、そのような格好で占い師に助けを求めたのであります。これはサウルの決定的な失敗であります。それで結局彼は失敗した王になっていくのであります。

誰でも知らない未来に対して時には不安になったり、目に迫ってくる危険を見て恐怖を覚えたりします。しかし、それに囚われて自分を、神を見失ってはならないと思います。また、自分だけの力で克服できるとと言うような過信もしてはならないと思います。それもまた決して美しくもないし、また、それを神様が私たちに望んでもいないのであります。人生に成功する為に、と言うより、美しく生きるためには、神の言葉を聴かなければならないと思います。

普通の生活の中で誰でもそれなりに見えますが、何かの危機や試練が訪れた時、その人の真価が現われるものであります。そのような時の為にも私たちは時には信仰においての準備をしておく必要があろうと思います。つまり、信仰者は「備えあるところに憂いなし」と言うだけでなく、「信仰のあるところに憂い無し」と言う信仰をも時には確かめて置きたいのであります。