2005年2月27日

「キリストの言葉から聞こう」(ローマ書10・14〜17)

テーマ:信仰は伝えらる事を聞き、また、それを伝える時、具体化される。

時:05.2.27. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

時が経つのは早くて今週から三月が始まりますが、三月にはキリスト者にとって最も大事な日の一つである復活祭があります。キリスト教とは直接関係はありませんが、その前の三月三日はひな祭りであります。ところが、殆どのカレンダには記されていないと思いますが、この日は「耳の日」でもあります。

この日がなぜ「耳の日」として定められたかは語呂合わせからであろうと見当が付きます。また、更に、都合よく3と言うアラビア数字の形が耳に良く似てもいます。しかし、それ以上のことについては分かりませんでした。それで、インタネットで調べて見ますと、「耳の日」は日本耳鼻喉科学会が1956年定めたそうです。その語呂合わせの以外の理由としてはサリバンさんがヘレンケラーの指導を始めた日が3月3日であり、また、電話の発明者グラム・ベルの誕生日が3月3日であるからそうです。

電話を発明したグラム・ベルの話はさておいて、もう少しサリバンさんとヘレンケラーの話をしたいと思います。ヘレンケラーはご存知のように耳が聞こえないで、更に目も見えない人でありました。彼女は1歳半の時、高熱によって耳と目を同時に失ってしまいます。見えないで聞こえないと如何生きる事が出来るだろうと想像をするだけでも苦しくなりそうな状態あります。昔からそのような障害をもっていた子供もいたようでありますが、多くの場合、家族によって殺されてしまい、その存在が表面化されなかったようであります。タルムードにはそのような二重の障害をもっている人は生きている死骸とも表現されているようであります。

耳の聞こえない方には文字をもって言葉を教えます。逆に目の見えない方には声をもって言葉を教える事が出来ます。しかし、ヘレンケラーのように、幼い時から、耳も目も機能しない人には言葉を教える方法が先ずないように思われます。そのような方に言葉を教えようとすることを例えて言えば、全く密閉されている箱の中に何かの物体を入れようとする事と同じであろうと思います。理論的には不可能であります。

サリバンさんとヘレンケラーについての映画がありますが、そのタイトルも「奇跡の人」であります。理論的に不可能な奇跡が、つまり、ヘレンケラーが言葉を知るようになったのであります。言葉を聞く事が出来るようになったのであります。今まで全く閉ざされていた彼女に外部から概念が、言葉が入るようになり、それをまた自ら他人に伝えるようになったのであります。

彼女は言葉を聞き、語るようになって弱冠22歳の時、自伝を書きますが、そこには言葉を知らなかった時の彼女の心も記されています。彼女が言葉を持つまでは自分の周りにある全てを「快適か」、「不快か」としてしか受け止める事が出来なかったそうです。

例えば、何時も易しく抱いてくれるお母さんは「快適」であって、それ以上の何ものでもなかったわけであります。美味しいものが口に運ばれれば快適でありました。食事中、誰のサラからであろうとも鷲づかみをして食べれれば快適でありました。しかし、それを留める人がいれば不快でありました。これは私の想像でありますが、恐らく、いつでも何処でもオシッコをしたい時、それが出来れば快適であって、それを止める人がいれば、不快であったと思います。家族にとっても地獄であります。

そのような状態が7歳になる直前まで続きます。7歳になろうとする時、サリバンと言う人が彼女の所に来て指をもって言葉を教え始めます。はじめは色々教え込もうとするサリバンはただ強烈に不快な存在でありました。それで彼女に対して暴れます。その様子は映画にも良く現われていますが、そのような格闘の末にヘレンケラーが「水」と言う言葉を理解するようになります。そこから始まって、水とマグを区別し、水とミルクを区別し、お母さんやお父さんと言う言葉を分かるようになります。言葉によって初めてお母さんやお父さんと娘との出会いが可能になったのであります。その映画は親子が抱きしめる感動的な場面が最後のシーンの一つとなっています。

ヘレンケラーは自伝の中でサリバンさんとの出会った日を自分の「魂の誕生日」と語っています。サリバンによって与えられた言葉が心や魂に命を吹き込んだという意味であろうと思います。

ところが、サリバンさんが最後まで忍耐しながら彼女に言葉を教える事が出来たのは、サリバンさん自身が弱視であって、それによって苦しんでいたからではないかと思います。つまり、人の肉体的な弱さの苦しみを知っていたから最後までやり遂げることが出来たと思います。

さて、今月は「信仰」と言う言葉をキーワードにして共に聖書から聞いていますが、今日の個所の14節は「聞いた事のない者をどうして信じる事があろうか」と記されています。少し難しい言い回しになっていますが、簡単に言いますと「聞いた事のない者が、どのようにして信じることが出来るか」と言う意味でもあります。私たちははじめに聞いてから言葉を理解出来るように、信仰も聞く所から始まります。

しかし、物理的に声を聞いてとしても、それが心に、魂に響いていないのであればそれは聞いた事ではないと言わざるを得ないと思います。例えば、この世の人々はイエス・キリストと言う名を知らない人はいません。また、聖書と言う言葉を知らない人はいないし、有名な聖句を一つ二つは誰でも覚え、時には何処かで引用をもしたりします。すなわち、殆ど人々は物理的には御言葉を聞いていますが、心や魂で聞いているとは言えないのであります。

余談でありますが、私の耳は小さいです。東洋では耳が大きいのが好まれますが、西洋では小さいのを美しいと言うようであります。兎に角、耳の小さいのは家系のようでありまして、私の従妹達にも小さい人がいました。ある日、私の妹が従妹の耳を見て「お兄さん耳が小さいね」と言ったら、彼は「ウン、良く聞こえるよ!」と言って周りの人々を笑わせましたが、まさに、耳は聞くためにあります。

しかし、人はなかなか人の言葉を聞こうとしません。神様の言葉となりますと特にそうではないかと思います。なぜ、人は神様の言葉を聞く事が出来ないでしょうか。答えは一つであります。つまり、「善と悪」と言う図式でしか、人々は聞こうとしないからであります。内心、高尚な理由をもって神様の言葉を拒みますが、結局はこの善悪と言うに二元論的な考え方に人々は支配されているから神様の言葉を聞く事が出来ないと言って良いと思います。つまり、利益なる事を善とします。強いものを善とします。自分の理性に副うことを善とします。自分の文化や生活の習慣に適う事を善とします。しかし、それ以外のモノは悪とします。自分に合わないモノであって、異質的なモノとして拒みます。それで聞くことが出来ないのであります。

言いすぎだと言われるのを恐れずに言えば、これはヘレンケラーにまだ言葉が与えられていない時の「快適か」、「不快か」と言う感覚のようなものであります。それ以外の言葉をもっていない渾沌とした状態であると言えると思います。人類の歴史はそのような渾沌とした状態の中で、奪い合い、殺しあって来たのではないでしょうか。そのような歴史は今も続いています。イエス・キリストが終りの時だと言った所以あります。

イエス・キリストはそのような人類を救う為に来られました。彼は「絶対悪」とされている十字架の上で死に葬られました。しかし、復活をなさったのであります。神に呪われて死んでしまったはずのイエス・キリストが神の祝福によって生き返られたのであります。神の言葉に聞き従うことによって悪の極端である死と言う壁が破られたのであります。

それを目撃した弟子達は永遠の命を信じ語る事が出来るようになったのであります。私たちもその言い伝えられている復活を聞いて信じ、このようにキリスト者となったのであります。聞いて信じる者は幸いであります。今まで持っていなかった言葉が語られ、新しい道が示されるからであります。

今日の個所は「キリストの言葉から聞く」と言うテーマだけでなく、もう一つのテーマがあります。15節を見ますと「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と記されています。これはイザヤ書からの引用でありますが、良きおとずれを伝えるの者の足を麗しいと讃えています。注目したいのは良きおとずれを告げるものの口でなく、足を褒めているところであります。多くの事を示唆していると思います。

これに関連する話でありますが、ラジオが発明された時、もう教会に行かなくとも良いと言う人がいたようであります。教会に行かずにラジオでメッセージを聞く事で十分ではないかと思ったようであります。今も時々似たような発想をする人がいます。すなわち、パソコンで繋げて礼拝が出来ると言うのであります。全くナンセンスであります。

人間の口は物理的な空気の波動を伝えるスピーカではありません。人間の耳は空気の波動を機械的に集めるマイクではありません。私たちが読んでいる文字はただの記号ではありません。もしそのようなモノであれば、私たちはそこからただの生活の為の助けになる情報以外に何も得る事は出来ません。そこには感動がありません。そこには命がありません。

私たちに伝えられた信仰の喜びを、感謝を他人に伝える為にはやはり足が必要であります。ここでの「足」とは象徴的な意味でありますが、つまり、行動や感動や命のない言葉は物理的な波動に過ぎないものであります。

サリバンさんがヘレンケラーンに言葉を伝える為に、手を握り合っい、抱きしめたように言葉を伝えるのにはこのように人間の温もりがなければならないと思います。私たちが聞いて信じている復活や生活の中で体験する信仰の喜びを伝える為にはやはり足を運ばなければならないのであります。ただ概念や救いの法則だけを伝える事は出来ないのであります。

信仰とは言葉と人間の温もりの継承でもあります。つまり、伝えられ、また伝えるのであります。生きている運動体でもあります。その使命を私たちが担っているのであります。

子供立ちのための伝言ゲームがあります。私たちの教会でも子供クリスマスの際に毎年のようにやっています。教会はこの世に福音を伝える使命を担っている事を考えれば、教会に相応しいゲームかも知れません。

このゲームのやりかたはご存知であろうと思いますが、問題提出者が始めの人に外国語か、聞き間違いやすい言葉を言って、それを隣の人に自分が聞いたとおり伝えるようにして、それが最後の人にはどのように変わったかを確かめながら楽しむゲームであります。

繰り返しになりますが、私たちの信仰もこのゲームに似ているところがあります。私たちが直接イエスの言葉を聞いたわけでもなく、復活を確認したわけでもありません。しかし、伝えられている言葉を信じ、喜び、またそれを隣の人に伝えているのであります。教会はその使命を2000年も担ってきてきているのであります。

その途中には色んな困難もありました。先週、申し上げたように異端との戦いもありました。つまり、正しくない伝えをしている集団や間違った教えに対して教会は否を唱えてきたわけであります。

正しく伝える為には自ら正しく聞かなければならないことであります。思い込みで聞いてはならないと思います。心を虚しくして聞かなければ、私たちは気付かない中に、間違ったものを伝える者になっていくのであります。ですから、私たちはイエス・キリストの言葉に常に耳を傾けならが歩むべきであります。そして、今の自分の信仰をも時には点検し、また人から聞いている言葉をもキリストの言葉に沿うのか如何かをも点検しながら、人にも伝えるべきであろうと思います。そこから正しい信仰が生まれるのであります。

そして、正しく聞いた言葉を機械的に伝えるのでなく、また、無味乾燥な教理として伝えるのでなく、足を運んで伝え、手を握り合って温もりと共に伝えるような役割を担う事が出来ればと願っています。