2005年3月6日

「不当な苦しみを受けても」(第一ペテロ2・18〜21)

テーマ:キリストの僕であることはこの世の制度から自由にさせる。

時:05.3.6. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

先週もこの世には様々な事件や事故を伝えるニュースがありました。その中で最も世間を騒がせたのはやはりコクドの会長堤氏の逮捕であっでと思います。私はこの騒動になるまでは堤氏について殆ど何も知りませんでした。しかし、マスコミがこの事件を切っ掛けにして彼のプライベートのところまで取り上げていますので、色々彼についても知るようになりました。マスコミが言うように彼は西武グループの総帥として君臨して来た人であります。また、彼の事を「総帥」と称しているだけでなく、西武王国の王とも皮肉っているマスコミもありました。

彼が西武鉄道に乗って何処かを視察に出かけた時、駅で勤務している人や線路で工事をしていた人々が通っている列車に向かって一列に並んで敬礼をしているのをテレビで見ながら、まさに王のような存在であったなと知りました。

そのような映像を見ながら、ふと、西武グループの従業員の一人一人は堤さんを個人的に知っているわけでもなく、また、その中には心から尊敬していない人もいただろうと思いました。でも、彼らは組織のボースとして堤氏に敬礼をせざるを得なかっただろうと思いました。つまり、強制された「礼」であり、強制された「服従」であります。このように思うと少し寂しくなります。

今は言うまでもなく、資本主義の時代であります。お金がものを言う時代であります。お金があらゆる動きの原動力であって、他人を支配するのに必要な権威もお金から出てきます。人間の価値もお金で評価します。それが資本主義であります。私たちも否応なくそれを認めざるを得ない社会の一員となっています。このような資本主義に取って代る経済システムはないかも知れません。

因みに申しますが、皆さん「新自由主義」と言う言葉を時々耳にすると思いますが、これは更に経済的な論理を進めようとする考え方であります。つまり、徹底的にあらゆる制約から自由になって競争できるようにしようではないかと言う考え方であります。例えば、勤労基準法を守る事によって色々経営側に制約が課せられますが、そのような制約をも会社が競争力を極大化させる為に自主的に決定できるようにしようという思想であります。これは言い変えれば、この世を経済的な論理だけで勝ち組、負け組みと分けて行こうと恐ろしい主張でもあります。

おそらく、このような価値観がこれから益々説得力を得ていくであろうと思いますが、皆さんは「それで良い」と思うでしょうか。

間違いなく競争力や経済力だけが重んじられるところは最も殺伐な社会になり、治安は更に不安定になっていくと思います。私は決してテロを容認するわけではありませんが、世界的に騒がれているテロの頻発の背景にはこの貧富の格差、つまり南北問題があります。

考えて見たら分かる事であります。つまり、正当な方法では如何しても貧富の差を縮める事が出来ないと思うようになれば、テロと言う形でもってでも反発したくなるのは全ての人に潜んでいる意識であります。

今はこのようなこの世に向けてキリスト者である私たちが、教会が何を語っていくべきかが問われる時代でもあります。つまり、私たちは「神様!私を勝ち組に加えてください」と祈るのでなく、この世に対してイエス・キリストの教えに基づいた言葉を発して行かなければならないと思います。

繰り返しになりますが、今の時代は経済的な力によって人間関係が支配と被支配と言う関係に組み込まれています。しかし、昔は経済的な力によってだけでなく、身分によってもその人の社会的な地位が定まっていた時代でありました。勿論、インドのように未だに身分によって人の地位が定まっている国もあります。極めて不当は苦しみが社会制度によって一部の人々に強いられているのであります。

私の幼い時の記憶にもそのようなモノがありました。誰々の家は「両班」(=良い出身)であって、あるある家は「サンノム」(=賎民)の家であるとかを常に耳にする事が出来たわけであります。

高校の友人に肉屋さんの息子がいました。これは当時までの韓国社会では最も蔑視されていた「サンノム」の仕事でありまして、結婚の相手を見つけるのも大変であると言われていました。高校の友人の家は肉屋が繁盛して経済的には豊かでありましたが、自分の家柄をとても恥っていました。これは身分制度による人の上下関係が定まっていた時代の名残でもありますが、これに似たような問題として日本にも部落問題として残っています。

家柄や出身、民族、性の違いなどによっての様々な差別から近代国家は自由になろうととして制度を整えて来ました。また、それがある程度までは達成できました。しかしながら今は経済的な力によって支配、被支配関係が確立されたのであります。

人類の歴史の中で、平等で、互いが尊敬しあった時代が果たしてあったでしょうか。殆どなかったと思います。これからもこの事は変わらないと思います。必ず、人の間には何かによる上下関係があってその力のバランスが秩序として働くのであります。

私たちの社会はこのようにある意味で不安定であります。また、歴史を通して制度やシステムだけでこの不安定を解決できないという事も知っています。

今月は「苦難」をキーワードにして共に聖書から聞こうとしますが、生きている限り、私たちにはこの世の制度による様々な苦しみに会います。様々な苦しみの中でも、例え、小さい苦難であろうとも身に覚えのない理由で苦しみを受ける時、最も悔しくなるのではないかと思います。

全ての知っている神様に委ね耐え忍び、柔和な人間関係を失わない者は幸いであります。神様が必ず報いで下さるからであります。

さて、今日の聖書の個所は「しもべたちよ、心から恐れをもって主人に仕えなさい」と語りから始まっています。ここの「僕」とはギリシャ語聖書を見ますと「家庭の中で仕える僕」と言う言葉でありますが、これを「奴隷たちよ」と言う言葉に置き換えても差し支えないと思います。

こう考えますと聖書は身分による差別をあるがまま認め、それを改善しようとしないでいるように見受けられます。これだけでなく聖書の他の個所では女性は男性に仕えるべきであると趣旨の語りもあります。このような事は人は神によって等しく造られているはずでありながら、人間の制度によっての不平等に従うべきであるという矛盾を語るようにも見受けられます。

現にこのような言葉を表面的に理解して教会が人種によって席を別に設けたり、教会の中での女性の働きを制限したりしてきた面もあります。これは社会の制度に教会が同調してしまった過ちであると言わざるを得ません。教会がこの世に同調するのでなく、教会がこの世に呼びかけて行かなければならないという使命を忘れてはそのような過ちを繰り返すことになると思います。

話が逸れていましたが、今日の聖書の個所は、気難しい主人であろうとも、またそのような主人から不当な苦しみを受けても耐え忍びなさいと言うのであります。

これより、私たちにとって望ましくない制度があれば、それを廃止するように努力しなさいというメッセージがより説得力があるのではないでしょうか。不当な苦しみを受けたのであれば、それに負けずに戦うのが正義に適うことであるとそのように思いたくないでしょうか。しかし、今日の聖書の個所は私たちにそのような制度や不条理をあるがままを受け入れて忍耐するように勧めています。その根拠は何処にあるでしょうか。

その答えは今日の個所の少し前の16節の後半に示されています。つまり「私たちは神の僕であります」この世において、人間の制度によって差別を受けていても、不当な苦しみを受けていても私たちは「神の僕であります」。つまり、人間の僕でもなく、武力による僕でもなく、さらにはお金の僕でもなく、全てを知っている神様の僕であります。神の僕であるが故にこの世の秩序を自ら乱してはならないと言う勧めでもあります。

時々教会の礼拝を通して多くの慰めのメッセージを期待する方がいます。勿論、礼拝はこの世においての疲れに対して慰めてくれます。しかし、その慰めのもっとも根本的な根拠は何処にありましょうか。

「お疲れ様でした」。または「不当な苦しみがあっても神様がご存知ですから、忍耐してください」ではなく、私たち一人一人が神の僕として呼び出された事を感謝し、また確認する時、最も大いなる慰めが与えられるのではないでしょうか。

あるサラリーマンを対象としたアンケートによりますと「職場で最も人間的に悩む時はいつか」と言う設問に「部下が自分の気持ちを分かってくれない時」と答えた人々が多くいたという記事を読んだ事があります。正確な数字は覚えていませんが、かなりの人がそのように答えていました。勿論「上司が自分を認めてくれない時」と答えた人も多くいました。

このアンケートはサラリーマンだけに当てはまるものではないと思います。つまり、私たちは誰であってもこの世の制度ないしシステムによる人間関係の上下の中でに苦しんでいます。板ばさみになっています。その中で不当な苦しみと思われるモノも必ずあるはずであります。そのような不当な苦しみを受ける度にシステムや制度を引っ繰り返そうとしたり、上司に戦いを挑むとその社会ないし、人間関係がうまく機能するはずがありません。

私たちはイエス・キリストの僕であるが故にイエスの足跡についていくのであります。イエスは全く理由もないのに、父なる神様計画に従って十字架を背負いその上で亡くなったのであります。神様の愛と赦しが示される為であります。

聖書の中でイエスの以外に最も不当な苦しみを受けて人と言えば、ヨブではないかと思います。彼は全く正しい人であると言われていました。彼の正しさに嫉妬を覚えたサタンが神様に申し出るのであります。つまり、ヨブがあなたの僕としてあなたに従っているのは、今、物質的に祝福されているからであると神様に言います。もしそのようなモノが取り除かれたら直ちにあなたを呪うでしょうと付け加えます。

それで神様はヨブを試して見るつもりで彼の家族や財産を奪います。全く不当な苦しみであります。神様も不当な苦しみであることを知りながらその業をサタンに赦しました。しかし、サタンの予測とは反対にヨブはそのような苦しみの中でも神を呪わないで、依然として神を信頼します。この事はヨブが財産や人の僕でなく神のしもべであったという証明でもあります。この事で神様は彼を更に後で祝福します。

私たちは何か不当な苦しみが私たちを襲うと、この世に正義などはないと思ったり、神様が本当にいるのかなどと疑問を抱き、絶望をします。そして時にはそれに自ら激しく反発をしたりします。しかし、神様は私たちにそのような時であろうとも先ず平和と秩序を保ちながら、神の僕であるが故にそのような不当な苦しみに耐え忍ぶように命じます。

先ほどサラリーマンの意識調査のアンケートを紹介しましたが、その中に会社の中で異性の目を意識して仕事を一生懸命にした事があるかと言う項目もありましたが、男女共にそのような事があるとほぼ半分くらいの人が答えました。その割合は確かに男性がやや多かったですが、何れにしても、異性の注目を引きたい、有能な人に見られたいと言う願いが仕事を一生懸命にさせたわけであります。これは厳しい言い方で言えば、不当な動機による熱心であります。

私たちが自分の利益だけが動機になって仕事したり、他人に仕えたりするのであれば、余りにも悲しい事であります。そのような人こそこの世の制度によって金や利益のための奴隷になっていると言えるのではないでしょうか。

私たちはこの世の制度からは自由になっている神の僕であります。最終的には神のみに従うのであります。神に従うが故にすべの仕事においても、人間関係においても神の栄光が神の平和が示されることを願うのであります。決してお金、武力などの神以外の権威を恐れてでありません。神様の栄光と愛の故にシステム中での秩序にも従うのであります。不当な苦しみを受ける時であっても神を信頼し耐え忍ぶのであります。