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2005年3月13日 |
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「主がヨセフと共に」(創世記39・19〜23) テーマ:絶望の時であっても、神に助けを求める者は幸いである。 時:05.3.13. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
あんまり品のない話から始めますが、この間、中西衆議院議員が強制わいせつ容疑で逮捕されました。間もなく釈放はされましたが、彼は国会議員を辞職せざるを得なくなりました。多くの方々が怒りを覚えただろうと思います。色々考えさせられた事件でありました。彼は政治家としてとても期待されていた人のようでしたが、一瞬の出来事で人生を棒に振ってしまったわけであります。 私はこの事件を見ながら始めは「またか」と言う怒りをもって見ていましたが、後で彼の態度を見ながら少し爽やかさを覚えました。幾つかの理由がありますが、先ず、直ちに被害を蒙った女性と和解をした事であります。怒りや悲しみの最中にいたはずの被害者とそのように早く和解が出来たことから推測すれば、彼は自分の過ちを全面的に認め、心からお詫びをしたのではないかと思います。もう一つ、彼は直ちに議員を辞める意思を表し、「人間として恥ずかしい事をした」と国民に謝りました。 今までの政治家とは少し違うような感じがしました。と言うのは今までの多くの政治家は何か過ちを犯してもそれを認めないで弁明ないし正当化で一貫しようとしたり、責任を転嫁する態度でありました。 例えば、ある政治家は自分の不倫を弁明する為に「人の下半身には人格がない」などと言いました。つまり、皆が同じであるから自分のやった事だけで特別に騒ぐ必要がないという話であります。このような発想は一般論をもって自分の特定の行動を説明しようとすることであって、一人の責任を負うことの出来る人間として人格を自ら否定するようなことでもあります。 しかし、新聞などを見る限り、中西さんの場合は自分の責任として、また酒を飲んだことをもって弁明しようとしませんでした。それで、わたしは彼に対して、破廉恥なことを犯した人であるのにも関らず、潔さを覚え、少し可愛そうだなとも思った訳であります。まだ若い方でありますから、再び政治家になってほしくはありませんが、人間的に成長し立ち直る事を期待しています。 彼だけでなく、殆どの男性はこの問題において失敗をする可能性があります。勿論、女性も同じであります。しかし、私が思うのに男性の方が女性よりこの問題においては弱いのではないかと思いますが、何れにしても自信を持つのでなく自分の弱さに気付き警戒し続けなければならないと思います。 さて、今日の聖書の個所はヨセフがポテパルの妻の誘惑を拒んだ故に投獄された事を伝えているところであります。先ず話の背景を少し申し上げますが、創世記は全体が50章からなっていますが、その中で37章から50章までがヨセフの物語であります。つまり、創世記の4分の1がヨセフ物語でありますが、これはヨセフの物語の占めている位相を示しているとも言えると思います。 また、ヨセフの物語は夢を見るヨセフ、そして苦難のヨセフ、最後に苦難を通して成長した栄光のヨセフと言う順で話が進められていますが、今日の個所はその中、苦難の中のヨセフが画かれています。 ヨセフはヤコブの下から二番目の息子であります。幼い時から特別に親に可愛がられていました。また、神が示したビジョンを良く自慢げに語りました。このような事が原因になって、お兄さんたちによって憎まれて、エジプトに売り飛ばされるようになりますが、辿りついたところが、エジプトの役人のポテパルの家でありました。 ヨセフはポテパルの家でも誠実に仕事をしていたようで、彼は奴隷の身分でありながらもポテパルの家の全てが任されるようになりました。その上に彼はとても姿が良く美男子であったようであります。つまり、仕事においても、顔も良かったのでポテパルの家では羨望の対象となっていたようであります。 ところが、これが禍して、彼をポテパルの妻が共に寝たいと誘惑をします。しかし、彼は何回もそれを拒みますが、これに怒ったポテパルの妻は彼が逆に自分を襲おうとしたと周りの人々や夫に嘘を言ってヨセフは結局投獄されるようになります。全く謂れのない苦しみを受けるようになるのであります。 色々想像を駆り立てる個所でもあります。もし、彼がポテパルの妻の誘惑に応じたのであれば、彼の将来はどうなったのでしょうか。暫くはおそらくポテパルの家でもっと良い待遇を受けていたかも知れません。もっと楽で楽しい時間を過ごすことが出来たかも知れません。しかし、それは神様が良しとしていた道ではありませでした。彼はポテパルの信頼を裏切る事をしないで、また神様が望んでいて道から逸脱しないで、その誘惑から逃げたのであります。しかし、待っていたのは投獄されることであります。 このメッセージを準備しながら、神学部の小林先生の話を思い出しました。授業中に何かの話の中で「自分は寒がりでありますので、投獄されることだけは出来れば避けたい」と言っていました。その時その話が少し異様に聞こえたので覚えています。つまり、私の目にはとても彼はモラルにおいても、人徳の面においても優れた先生でありましたが、そのような先生が投獄されることをもありうるとそのような覚悟が出来ているように聞こえたのであります。 この世には間違いを犯して投獄される人が遥かに多いとは思いますが、必ずしも間違いをして投獄される事でもないようであります。正しい事をしてそれが禍して投獄されることもあります。その事は昔も今も同じであるようで、今日の箇所のヨセフがそうでありますし、新約聖書においては、パウロがそうでありました。神のみ旨にそって正しく生きようとする時もそのような苦しみが訪れるのであります。 もう一つ神に従った故に投獄された実例を紹介します。韓国の有名な牧師でありますが、金ジンホン牧師であります。彼は昔、独裁政権に対して反対意見を良く述べた人でありました。火炎瓶を作って投げたわけでもなく、積極的にデモをしたわけでもありませんでした。ただ政府の独裁政権であることに反対をしていたのでありました。それで投獄され大変な苦労をした人でありました。 彼の話によりますと、始めは大変悔しいし、食事が悪くて健康をも害していたので、一刻も早く出してもらいたいと言う願いや祈りしかなかったそうです。そうこうしている内に心に落ち着きを戻して、聖書を読み始めたそうです。聖書を精読するチャンスだと思うようになったわけであります。 そこで彼は聖書の深さを知るようになり、また聖書がどれ程慰めて、どれ程自分に喜びを与えてくれるのかを知るようになったそうです。それで賛美と涙が溢れることを何回も経験するようになって、最後には釈放されるのが心配になるまでなったそうです。 彼のその時の気持ちを推測できるような彼の言葉でありますが、神様が自分に聖書を学ぶ機会を与える為に刑務所大学院に入学させ、国の奨学金をもって学ばせてくれていると感謝するようになったと言っていました。パウロが投獄された時の出来事を思わせるような証であります。使徒行伝を見ますと、パウロは牢屋で賛美と祈りをしている内に牢屋の塀が崩れ落ちたと言う証言がありますが、正にその牧師にも魂に神の言葉が届くようになっては、最早刑務所の壁が心の自由と喜びを奪うことが出来なくなったのであります。 と言っても私は自ら進んで刑務所大学院に入れくれるように言いたくありませんが、でも何処かでそのような事もありうると覚悟が出来ていなければ、言うべき時に言えないのではないかと思います。要するに、信仰者は神に従うためには謂れのない苦しみをも覚悟していなければならないと思います。 今月は苦難をキーワードにして共に聖書から聞いておりますが、苦難はただ避けるべきことではありません。時には真正面から受け止めていくべきであろうと思います。自ら苦しみを選んで行く事は出来ないとしても、予測される苦難をただ憎んで、無闇に避けようとすると結局は不本意にも神様が見るに良き道からはずれてしまうのではないでしょうか。 生きる間、何の苦しみも経験しない人はいませんが、それをどのように受け止めるのかは色々あろうと思います。ある方は自分の不幸を嘆きます。ある方は怒りを燃やします。ある方を絶望します。ある方は人間不信に落ちいます。ある方は信仰を失います。しかし、ある方はチャンスととして捕らえるのであります。チャンスとして捉えると言えばとても格好言い言葉でありますが、勿論、実際にそのように肯定的に捉えることは容易いことではありません。 私の個人的な好みを少し申しますが、苦労を知らない人より苦労を知っている人が好きです。人がらから深みや幅を覚える事が出来るからであります。 ゲーテの言葉でありますが、彼は「涙ながらにパンを食べたことのない者、苦難に満ちた幾夜をベッドの上に泣きながら座ったことのない者よ、その人は天の力を知らない」と言いました。また名前を覚えていませんが、こう言った人もいました「涙にぬれたパンを食べた事のない人は人生を語るな」と。苦しみや苦難は人生を貧弱に、みすぼらしくするのでなく、逆に豊かにするものであり、人生を成長させるモノでもあります。ただ憎むべきものではありません。 話を纏めて終わらせたいですが、神様は始めにはヨセフを投獄されるままにして置きました。何の恵みも、守りもなかったかのように見えます。ただ沈黙をする方であるかのようにも思われるところであります。 しかし、そうではありません。今日の個所のように短いところでありながら、実は「主が彼と共にした、主が彼を祝福した」と言う趣旨の話が三回も繰り返されています。人間的な思惑から見れば、不思議であります。つまり、人間的な思いであれば、何の過ちのないヨセフを神様は恵みと守りを施して投獄されないようにしてほしいところであります。そして、ポテパルの妻に何か禍を与えれば、私たちは「メデタシメデタシ」と喜ぶ事が出来ますが、神様は彼が投獄されるのを許し、投獄された後になっても神様が彼と共にしていた、彼に恵みを与えたと語っているのであります。 この個所を読みながら信仰とは何かを少し考えてみました。様々な角度の信仰とは何かを語る事が出来ますが、先ず、信仰とは神を無条件に讃える事であります。私の思いに適う時のみ神の名を賛美するのでなく、私の状況が如何であれ無条件に神さまを信頼し、神様を褒め称えることであります。これによって信仰者に揺れ動かない「志」が与えられるのであります。状況にしたがって変わってしまうモノでなく、状況は如何であれ、それに影響されないで、逆に状況を変えていくことの出来るような「志」ないし「希望」を与えてくれるのであります。言い変えれば、神の御旨にしたがって生きようとする「信仰」を与えてくれるのであります。 神さまと共に生きる者は幸いであります。その者は状況に流されてしまう事がないからであります。 ヨセフは信仰の故にポテパルの妻の誘惑と言う状況に流されないで、神様がよしとするところに従う事が出来ました。自分を守る事が出来ました。これによって投獄と言う大変な苦しみは受けましたが、そのような中でも彼を神様は祝福し人間的に成長させたのであります。 創世記の中で最も優れた信仰の告白の一つは50章19節ではないかと思います。ヨセフは多くの苦難と成功の末に、彼をエジプトに売り飛ばした彼の兄弟たちに会いますが、兄弟達は昔の事を覚え恐れます。するとヨセフは「恐れる事はいりません。私が神に代わる事が出来ましょうか。あなた方が私に対して悪を企んだが、神はそれを良きに変えらせ、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました」と言うのであります。多くの苦難を通して、神様の働きを知り、そして人生に深みを知るようになった人の告白ではないではないかと思います。出来れば、皆さんと共にこのような信仰者として成長させられたいものであります。 |