2005年3月20日

「みこころのままに」(マルコ14・32〜36)

テーマ:イエスの最後の受難は原罪の克復の場であるが、私たちもその場に招かれている。

時:05.3.21. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

ご存知の方もいると思いますが、この三月から韓国から日本に観光の為に来る場合はビザがいらなくなっております。私は以前から両国間の旅行が自由になって互いが国内を旅行するかのように気軽に行き来出来るようになればと昔から期待していましたので、この事を内心喜んでました。しかし、それも束の間であって、この何日間、日本と韓国が竹島(=独島)の問題で大変揉めています。韓国では蜂の巣が突付かれたように騒がれています。日韓ワールドカップの共催以来、せっかく韓国と日本とに良い交流が始まったいるとところで、このような問題で関係が悪化されそうで極めて残念であります。

一刻も早くこの騒ぎがおさまって、両国の人々の交流がもっと盛んになり、もっと互いが理解し合い、経済的にも文化的にも堅く結び合って行けるのを望んでいます。

更に私の夢を申せば、日本と韓国との関係が深まって、最後にはユーローのように貨幣を一つにして一つの経済圏になって行けば良いと思います。そして、竹島が何処の領土であろうとも最早大きな問題でなくなるところまで発展されればと願っています。何れにし

ても、これから一時的には関係が後退するかも知れませんが、長期的に見れば、互いに共存共生の道を歩まざるを得ないと思います。

もう少しだけこの問題を申しますが、私たちはこの問題を教会の視点から、言い変えれば、神の国に属している者としての視点から見なければなりません。つまり、島根県議会が「竹島の日」を制定したのを見ながら「万歳」と叫ぶような姿勢も、また、今の韓国でのように日の丸に火をつけるような事をしてもいけないと思います。これは極めて国家主義的な、世俗的な視線だけで見ている時、可能であると思います。

私たちにとってこの世は寄留の地であります。私たちの永遠の国籍は神の国であり、その神の国の雛形でもある教会を中心にしながら、実際にこのように生活を営んでおります。世俗国家の国民として国の利益や国の自尊心を守る為に神を求めるのであれば、イエスの十字架での苦しみも復活もただの歴史的な出来事の一つになってしまい、私たちとは関係のない事になります。私たちはこの地上の義を求めるのでなく、先ず、神の国の義を求めるべきであります。イエスがよしとする道、イエスが辿った道は何であるかを語り、それに従うべきであります。

今の騒ぎを見ながら創世記の一つの記事を思い出しました。13章の記事でありますが、アブラハムと彼の甥ロトは飼っていた家畜の数が増えて、共に同じところで住めなくなりました。それでアブラハムはロトに、「あなたが右を選べば、私は左を選びます。もし反対にあなたが左を選べば、私は右を選びます」と提案します。ロトに選択の優先権を与えたのであります。するとロトはヨルダンの低地を悉く選びました。低地は草が多いところであって、家畜を飼うのに有利であるからです。その結果どうなったでしょうか。ロトが豊かになったでしょうか。確かに一時的にはそうなったかも知れません。しかし、聖書が伝えている事実はロトが選んだ低地はソドムとコモラの地でもありました。そこは後にモラルの腐敗のせいで神によって滅ぼされます。そして、ロトは命がらがらにしてそこから逃げるようになります。ここまでがロトについての聖書の記述であります。しかし、アブラハムについての記述と神様の祝福は続きます。

アブラハムがロトに選択の優先権を与える事が出来たのは「先ず、神の国の義を求める」信仰があったからではないでしょうか。要するに問題は「人」であります。「モノ」ではありません。先ず、アブラハムのように神の国の義を求める人となるのか、先ず、ロトのようにこの地上の義、自分が善しとする所を求める人となるのかであります。そこが人間にとって決定的な分かれ道であります。

さて、今日から受難週であります。イエス・キリストがガリラヤからエルサレムに入城した日を受難週の始まりとしていますが、今日がその日であります。

世界中の教会が今日から一週間、イエスの十字架の苦しみを記念としながら、また、それが私たちとどのような関わりのある事であるかなどを聖書から聞きながら過ごすのであります。

ところが、今日の聖書の個所は実はもうすでにイエスがエルサレムに入城して五日も過ぎた個所の話であります。イエスがエルサレムの入城した日の個所をマルコ福音書から選ぼうとすると11章の始めあたりになります。つまり、11章からイエスのエルサレムの入場が始まっています。しかし、今日のメッセージのテーマとの関係上、イエスがエルサレムに入城する際の前後から話を始めたいと思います。

イエスはすでにエルサレムに入城する際に、そこで十字架に掛かって死ぬことを知っていました。それにも関らず、神様の計画に従って自分を生贄の捧げモノとする覚悟で、弟子たちと共にエルサレムへ出発をしました。心中で壮絶な決心をしていたわけであります。

しかし、弟子達はまだイエスの心や言葉を理解していませんでした。師がエルサレムに行って神の国を始めるという話は以前から聞いていたので、共に行けば、何か新しいエルサレムの建設と共に多くの人々の上に君臨することの出来るそのような生活を夢見ていたふしがあります。

弟子達がそのような夢を見るのにもそれなりの根拠と理由がありました。イエスに対してそのような期待をするのも全く荒唐無稽なことではありませんでした。つまり、彼らは今まで見た事のない多くの奇跡をイエスは起こす事が出来るのを見てきました。また、多くの人々を集める力もイエスには備えられていましたので、これによってイスラエル中に革命でも起こして、新しい国を作ってイエスはその国の王となると思っていたようであります。天真爛漫といえば天真爛漫であります。

10章の32節を見ますと「さて一同はエルサレムへと上る途上にあったが」と記されています。つまり、この以下の対話はイエスと弟子達がエルサレムに旅をしている間のものであります。

37節を『すると彼らは言った「栄光をお受けになるとき、一人をあなたの右に、一人を左に座るようにしてください」と言われた』となっています。この願いはヤコブとヨハネがイエスにエルサレムに入城した後、自分達を王の隣に座ることの出来る者としてくださいと頼んでいるところであります。これを見ますと弟子たちはイエスがエルサレムで大きな運動を起し、また多くの人々を集めその勢いでイスラエルの王となると信じていたようであります。

それを聞いてイエスは38節で「あなた方は自分が何を求めているのかわかっていない。あなた方は、私が飲む杯を飲み私が受けるバプテスマを受けることが出来るか」と尋ねます。すると彼らは「出来ます」と自信をもって答えましたが、結果は周知のようにイエスが捉えられると一目散に逃げたのであります。

それだけでなく、ユダは自分の期待のようにイエスがこの地上の国作りには関心がない事を知って、イエスを裏切るのであります。

もう一つエルサレムでのイエスと弟子たちとの対話を確認したいと思いますが、ここはイエスがローマ兵に捕らわれる前日の出来事であります。この話は14章3節から始まっていますが、ライ病人シモンの家でイエスが食事をしている中に一人の女性が非常に高価なナルドの香油をもってきてイエスの頭に注ぎます。これを見ていた弟子達は憤って互いに言いました。マルコ福音書は弟子達と言わないで「ある人々が」となっていますが、マタイ福音書を見ますと「弟子達が」と示されています。この違いに対しての事情は兎に角して、弟子達は憤って300デナリもする香油を売って貧しい人々に施しをするのがより価値のあることではないかと言うのであります。これを見ていたイエスはご自分に良い事をしてくれたのでその女性を困らせるなと弟子達を宥めます。

今二つのイエスと弟子達との対話を紹介しましたが、それは弟子達の視線とイエスの視線との違いを申し上げようとしてであります。つまり、弟子達の視線は非常に人間的であります。イエスがエルサレムに入って、ローマの植民地の状態から解放するのは、イスラエルの民族にとってありがたいことであり、また偽の宗教者達をエルサレムから一掃して、良き信仰共同体を作れれば、またこれも望ましい事であります。その時にはイエスの弟子達がイエスを補佐していかなければならないでしょう。それでイエスの右に左に座らせてくださいと言ったのであります。

香油が注がれた場面も人間的であると言うか、極めて合理的な話であります。つまり、高価な油をイエスの頭に注ぐような形式的な事をしないで、それをもって貧しい人に施すのはより神のみ旨に適うのではないか言いたくなります。信仰のない方々がこのような個所を読むと何の話か理解できずに苦しむと思います。

ところが、今日の個所でのイエスの祈りを見ますとこの人間的な視線を越えています。つまり36節の終りで「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と父なる神にご自分を委ねる祈りを捧げるのであります。

今、イエスは十字架での死や苦しみを前にして極めて恐ろしくなっています。また、悲しみのあまり死ぬほどであると言っています。それで出来れば、この苦しみを取り除いてくだされば善いなとも思ったのであります。勿論、罪のない自分がなぜ罪ある者の手によって苦しみを受け、殺されなければならないのかと言う思いもあったはずであります。しかし、ここは人間イエスの思いであります。この人間イエスの思いを越えて、「みこころのままに」と祈るのであります。

この「みこころのままに」と言う神への委ねは聖書においてとても重要な言葉であります。また、これはアダムとイブが禁じられていた果実を口にする時、その果実が「食べるのに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」と言う言葉の対極にある言葉であります。

パウロはこの事を一人によって全人類に罪が入り込んだので、最後のアダム、つまり、イエスによってこの罪が取り除かれなければならないと言うのであります。イエス・キリストは正に誰の心にもある「自らによる善と悪」と言う罪を取り除くためにこの世に来られたのでありますが、その具体的な業が十字架のでの死であり、その具体的な祈りが今日の個所の「みこころのままに」と言う言葉であります。

人は自分が善しとするところ、回りが善しとするところに従おうとします。勿論、私たちは日頃の生活でこの良し悪しと判断を重ねながら過ごしています。これを抜きにしてすべてを神の御心とは何かを問う事は出来ません。つまり、水一杯飲むのに、私の判断でなく、神様が善しとする時のみ、飲みますというような生活は出来ません。また、そのようなことを申そうとしているのではありません。

それでなく、私たちの日頃の善し悪しと言う判断の多くは私たちの思い込みや、利益、または私たちが経験から学んで結果できたそれぞれの価値観、また、世俗の国よる教育などから来るものであります。このような事を一つに纏めたつもりで「人間的な視線」と言ってきましたが、この人間的な視線だけに留まっていてはいけないのであります。

もし、この視線だけに留まっているのであれば、私たちは「みむねのままに」と祈る事が出来ないのであります。御言葉を聞く事が出来ないのであります。イエスの言葉を知ることが出来ないのであります。

しかし、イエスはそのような人間的な視線、ないし限界を越えました。例え、イエスが人間的な視線をもって「不条理の十字架の死は意味のないことである」と、つまり、アダムと同じく自らの判断によってこれは「悪」であると思いに留まって、十字架の死を避けたのであれば、復活はありません。私たちにも永遠の命への希望もありません。

「みむねのままに」と言う神への委ねは、永遠の命であります。ここに復活があります。私たちもこのイエスの業と祈りの場に招かれているのであります。ですから、わたし達も各々、自らの十字架を背負ってイエスの後を追って行けるのであります。これからも共にこのような歩みをし続ける事が出来ればと祈っています。