2005年3月27日

「もし復活がなかったら」(コリント第一15・12〜19)

テーマ:キリスト者は復活と言う望みを抱くだけでなく、復活による永遠の命を生きる。

時:05.3.27. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

イースターおめでとうございます。今日はイエス・キリストが死に勝利をして復活をなさった事を記念して礼拝を捧げる日であります。

世間ではイースターよりクリスマスが良く知られています。しかし、教会にとってはクリスマスよりイースターがもっと意味深い日ではないかと思います。また、クリスマスの日は確かにイエスが生まれた日であるか如何か定かではないが、でも何処かでイエスの誕生を祝いましょうという趣旨から始まっています。しかし、このイースターは史実的な根拠うによって定められています。計算の仕方によって少しのズレはあるかも知れませんが、ほぼ一致しているのであります。

世間では祭日となりますと、「休む」事に趣が置かれますが、教会の祭日となりますと「休む」というより、わざわざ教会に来て礼拝を捧げ、神さまと自分との関係を回復し、神様と自分との関係を確認するところにその意味を置くのであります。ここが世間の祭日との違いでもありますが、今日、イースターを迎えて、共に神様によって癒され、また新たなる希望を抱くことが出来ればと願います。

先週は礼拝を直前にして大きな地震がありました。幸いに私たちの教会には大きな被害はありませんでした。また、教会の皆さんの家にも大きな被害はなかったようでありますが、玄海島を中心として彼方此方で被害がありました。博多教会にはかなりの被害があったそうです。そして、香住が丘教会も壁の一部が崩れ落ちたと聞いております。一日でも早くこの地震の傷跡が癒されるのを願っています

私はこれほど強い揺れを経験したのは初めてであります。たった2〜30秒であるはずでありますが、二度と味わいたくない恐怖でありました。

今度の地震で、教会の二階にあるピアノが15cm程動いたのをその跡を見て分かりました。それを見ながら近くにある立花山もおそらくその位は揺れただろうと思うと人間の力は到底自然の力には及ばないことを思い知らされたような気がしました。勿論、立花山に比較にならないほどの九州全体が揺れたわけですが、九州全体が揺れたと言っても逆にその自然の力の強大さが伝わりにくいと言うか、想像がつかないわけであります。それより、私たちの目に見える立花山が15cmぐらい横にゆれたと言えば、なるほどと言う感じがするのであります。

同じく子供たちに今度の地震の大きさを言う時、立花山が揺れたと言うより、この礼拝堂が揺れたと言うのが子供たちには地震の大きさが実感として湧いて来るのではないでしょうか。こう考えますと、人は自分の理解や経験の範囲で物事を感じ取ったり理解したりするものである事を知る事が出来ます。つまり、自分の理解や経験を超えた話は受け入れようとしません。しかし、例え、私たちには想像しにくくとも、子供は理解できなくとも九州全体が揺れ動くほど地震が先週の日曜日にあったのは歴史的な事実であります。

さて、今日のメッセージのキーワードは「復活」でありますが、復活は私たちの人間の理解を超えているところであります。しかし、聖書はイエス・キリストの復活を歴史的な事実として伝えています。勿論、私もそれを自分の力で理解する事はできません。これは皆同じあろうと思いますが、理解するより神様の導きによって受け取るしかない話でもあります。

イエスの十字架の死と復活そして聖書は「神の啓示」の典型的なモノであります。つまり、復活と聖書は神様が人間の歴史の中に自分の業として示したのであります。特に復活を比喩で言えば、神様は自分の業として死の向こう側から人間側にボールを投げかけたようなものであります。それなのにそれを人間が理解できないのでと言う理由で拒否するのであれば、神様によって投げられたボールを受け取らないと事と同じであります。

神様が私たちに示してくれた最も優れた啓示である復活と聖書の言葉を受け取る者は幸いであります。その時から永遠の命を生きることが赦されるからであります。

今日の個所を記していた時のパウロはまだ福音書を見ていません。このコリント人への手紙は福音書より早めに書かれた書物であります。つまり、パウロは福音書を読んで復活を信じて語っているのでなく、旧約聖書に預言されていた事を思い出しながら、また復活のイエスに出会った人々から始まった復活の言伝えを聞いてそれを更に、他人に伝えているのであります。教会の出発は復活からであります。全ての語りの根本にはこの復活があると言っても過言ではないと思います。

ご存知のように、バプテスマを受けるのを希望する方は原則的に皆さんの前で「信仰告白」をするように求められています。その際、私は予めそれを見せてくれるようにお願いをしています。私はその内容については殆ど何も言いませんが、何処かで「復活」と言う言葉を入れるように申しています。例え、死んだイエスが蘇えった事実を事実として理解出来なくとも入れてくださいと言います。その時、付け加える言葉として、「復活」は理解するのでなく、受け入れることであるという趣旨の話をも申しています。

この復活はキリスト教以外に語る事はできません。しかし、他の宗教も様々形で死の後の世界を語ります。例えば、神道の場合、人間が死んだ後、人間自身が神となると語ります。正に人間と神との境目のない話であります。これは人間が作りあげた典型的な神、偶像であります。日本にはそのような文化がどこかにあるのではないかと思います。

例えば、人が亡くなると「仏」になったと言ってそれに手を合わせたりします。このメッセージを準備しながら、少し空想をして見ましたが、私が死んだ後、「神」となるのであれば、間違いなく罪のそのままを人々に強いる神となると思います。私は神となってはならない者であることは誰よりも自分が良く知っているつもりであります。やはり、私は生きている間も、死んだ後も神の前に立たされるべきであって、神の前で赦しを求めるべきものであります。決して自ら神となってはならない者であります。

今月中に更に申し上げよと思いますが、キリスト教の葬儀は死者を褒め称えるものではありません。それより生きている者も亡くなっている者をも共に支配する神への賛美が葬儀であります。

話が逸れていましたが、聖書が伝えているし、イエス・キリストも自ら復活を約束しているのにもかかわらず、単純に理解出来ないからと言って、復活はないと言うのでれば、死んで見た事がないから死のあとの世界はないと言うのと同じではないでしょうか。

復活はないと言うのは科学が発達した今の時代だけの話ではありません。イエスが活動をしていた時代の以前からあった話であります。例えば、ユダヤ教の一派であるサドカイ派の人々は復活はありえないといっていたわけであります。しかし、イエス本人は復活はあると語っていました。それだけでなく、自ら死んだ人を墓から呼び出したこともあります。これは神の子として、メシヤとしてこの世に来られたという自らの証明でもありました。また、ご自分は亡くなって三日後に死から復活をすると預言をし、その預言通り復活なさって、死の向こうからこの世に来られたのであります。死の向こうの世界があることを証明してくださったわけであります。

ところが、イエスがこの世の歩みをしている間、復活をどのように理解していたのかを少しだけ推測できる個所があります。マルコによる福音書12章24節以下に記されていますが、先ほど申し上げたサドカイの人々を前にして「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか、彼らは死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使いのようなものである」と言いました。ここを見ますとイエスの復活理解は全く人間と同じ姿で復活して、結婚をしたりするのでなく、霊の体として復活をし、天使のようになるとい言う理解でありました。

また、イエスが自ら復活をした後の様子を伝えるところを見ますと、しまっていたドアを通って入ってきたり、復活したイエスを弟子達が見極める事が出来なかったりしていましたから、肉のまま復活をしたとは思われません。霊の姿で復活をし、また昇天されたのであります。

今日の聖書の個所を見れば、教会の中でも復活はないと言う人々がいたようで、それをパウロが戒めています。キリスト教は復活信仰であります。つまり、教会は復活を伝えながら、再臨を待っている群であります。しかし、教会の中で復活を否定している人々がいたのでありますが、これは自分の理解の範囲で神の力を限定し、死によって人間に対しての神の働きも終わると言う考え方であります。これを言い変えると、人は神によって造られたのでなく、人は自分のイメージに基づいて神を作ってその中で神を語る事と同じであります。

約100年前に活動をしていたドイツのブルトマンと言う神学者がいました。彼について少し紹介します。私は彼について深く学んだわけではありませんが、一般的な神学書に紹介されている程度の話であります。彼は信仰者であると自負をしていましたが、イエス・キリストの復活を歴史的な事実としては認めていませんでした。そして、このような論理展開をしていました。つまり、聖書には多くの神話があるが「復活」もそのひとつであると言うのであります。それで神話が語ろうとする意義を整理し、思想として理解し、その思想にしたがって生きる事が出来るのであれば、それで良いのではないかという話となって行きます。この事を「神話の非神話化」と言いますが、これはとても有名な言葉でありますが、つまるところ、キリスト者に問われるのは聖書の神話を生活の中で具体的に適用する事が出来るか、そうでないかと言う問題であると言うのであります。

これは今日の個所の19節に真正面から対置する考え方であります。つまり、彼によるとイエスの復活と言う神話に基づいて私たちは「望みを抱くことが出来ればそれでいいのではないか」と言う事になります。

極めてブルトマンの論理展開を単純化して言いましたが、実際はもっと複雑で巧みであります。彼はハイデカやキルケゴールなどに影響をうけました。兎に角、私のような者には返って分かり難い話であります。単純にイエスの復活を「アーメン」と受け取って、それに相応しい生き方をすればよっぽと良いように思われるのであります。

彼はこのような趣旨の論文を発表して多くの教会と神学者にショックを与えましたが、彼についての批判は色々出来ると思いますが、主なモノとして信仰を主観的な問題として、つまり、信仰を心理の問題としてしか捉えていないと批判されています。

もし、死人の復活がないならば、教会の宣教は虚しいモノであります。中身のないモノであります。それだけでなく、教会は嘘を言う者となってしまい、聖書もまた嘘を言うモノとなります。そして、私たちは最も哀れむべきものなるのであります。

もし、死人の復活がないならば、イエス・キリストは敗北者であって、神に呪われた者となります。それで私たちも死の後は何も望む事ができない者となるのであります。そうなるとこの世だけを楽しむ者となればいい筈であります。

しかし、私たちは聖霊の助けによって復活を事実として受け取って、この世だけでなく、あの世に対しても具体的な希望を抱くようになったのであります。これを永遠の命と良いと思います。これからもこの信仰の中で共に歩むことを願っています。