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2005年4月3日 |
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「教会で待とう」(使徒行伝1・1〜5) テーマ:使徒行伝は聖霊によって新たにされ、この世に遣わされた教会の歴史である。 時:05.4.3. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
今日は新しい年度が始まって始めての日曜日であります。また、新しい決心と覚悟をもって共に信仰生活をしていきたいと願います。 一ヶ月ほど前に申した事でありますが、今日からは使徒行伝の1章1節から連続してメッセージをして行こうと思っています。全部終わるまでは2年半は掛かるのではないかと推測していますが、特別な理由がない限り、中断することなく、続けたいと思います。しかし、皆さんの中で「もう使徒行伝は嫌だ」と言う方がいれば、改めて考えますので、何方でもそのような気持ちになれば、その旨を教えて頂ければと思います。 実はこのように使徒行伝を連続してメッセージしようとしたのはかなり前からの計画でありましたが、二つの選択肢をおいて悩みました。つまり、創世記1章から皆さんと共に一日一章運動をしながら、その中でメッセージの個所を決めていくのも考えましたが、やはり、先ず使徒行伝を通して教会の歴史から共に聞こうと思った訳であります。そして、2年半後は出来れば皆さんと共に一日一章運動をして行きたいと願います。 このように使徒行伝を先に選択したのには私の個人的な信仰体験ないし神学がその背景にあります。この事を少しだけ申し上げます。 私は機会ある度に、私の信仰は教会から始まっていると言っています。教会と言う実体を見て私は信仰者として、イエス・キリストの体なる教会の一部として一生を送りたいと決心したわけであります。私が教会に行くまでは主に一人で聖書を読んでいました。そして、大いに慰められました。それで、初めて教会に行ってみようと思うようになりました。実際に教会に足を運んでみるとその時まで味わったことのない雰囲気に出会ったわけであります。心底から安らぐような何とも言えない心地よさを覚えました。その時、わたしは聖書の言葉が言葉だけに止まるのでなく、教会の中で具体化されるものだと信じるようなったわけであります。もし、また聖書の言葉が具体化されない教会であればそうなるために祈るべきだとも思いました。 私は教会に始めていった以来全く私にとっての全てが変わりました。生活の中心に教会があって、人間関係も教会を中心にして新たになってきました。つまり、教会の栄が私の喜びであり、教会の中にいる時、自分の存在価値も確認できる時でもありました。今もこの心は変わっていません。また、変わってはならないモノであります。私のような者を「教会主義者」だと批判する人がいるかも知れませんが、そのような批判さえも私は喜ぶつもりであります。このような私の信仰体験ないし神学があって先に使徒行伝を通して教会の歴史を学ぼうと思うようになっただろうと思います。 今このように牧師として立たされていますが、今日のメッセージを準備しながら、牧師とは教会においてどのような者かを改めて考えて見ました。教会を「聖霊」と言うエンジンが据えられた列車のようなモノだと喩えると、牧師とは毎週日曜日に止まって、プラットホームで待っていた信徒や一般の人々を乗せてまた走り出す神の国行きの列車の車掌のような者かなと思いました。今もこの列車は原始教会を出発して、歴史と言うレールの上を走り続けていますが、使徒行伝は原始教会が走った歴史の一部を語っています。 ところが、歴史とは全く客観的な事の記述ではありません。人が歴史を記録する時であろうとも、歴史から読み取ろうとする時であろうとも、必ず、視点ないし史観が働きます。平たく言えば、ある立場から、周りの事件の中で歴史的な事件だと思われるのを選び、それをまた史観にしたがってそれを組み立て、表現していくのであります。ですから、如何なる歴史であろうとも全く客観的なモノだとは言えないものであります。 では、この使徒行伝はどのような視点で教会の歴史を記述したのでありましょうか。 結論から言いますと「聖霊」であります。この事は今日の箇所5節において早速、暗示されています。読みますと「すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなた方は間もなく、聖霊によってバプテスマをうけられるであろう」と記されていますが、これはこの使徒行伝は聖霊に導かれた使徒や教会の組織員の活動を画こうとしているという宣言でもあると言っても良いと思います。 このように理解したある者はこの書物の呼び名を使徒行と言うより「聖霊行伝」か「聖霊言行録」と言った方が良いのではないかと言いました。つまり、これは使徒たちによる教会組織や伝道の記録でなく、「聖霊によって導かれた使徒の働きの記録」ではないかと言う事であります。 因みに言いますが、皆さんは歴史を「線」に喩えれば、どのようなイメージを抱くでしょうか、時間の流れに従っての事件の記録であって、「直線」のようなモノだと思うでしょうか。それとも歴史はただ同じ事の繰り返しであるから「円」のようにイメージするでしょうか。 この事は難しそうな言い方で言えば、円のようにイメージする史観を循環史観、直線のようにイメージすることを直線史観と言います。この循環史観は古代ギリシシアの思想ないし哲学のようなモノであります。つまり、彼らは基本的には世界は変わらぬ永遠なモノと見ていました。したがって、物事をも変わらぬ本質を重視し、変わらぬ本質を発見しようと必死になって哲学をしました。その結果、移り変わるものを軽視するようにもなり、物事や歴史は循環の輪を果てしなく回るようなものだと思うようになったのであります。 仏教の輪廻もこれに似たような教えをもっています。つまり、人の業によって死の後は牛にもなり、昆虫にもなり、人にも生まれ変わりながら回るものだという教えるのであります。それで修行が大事なってきます。そしてただ回るだけでなく、人がこの世にいる間、目標とすべき事は皆の心に備えられている仏性を見つけること、つまり、悟りを開く事が大事だと教えるのであります。 聖書の史観は如何でしょうか。直線史観であります。始まりがあって終りに進んでいくのであります。聖書は「初めに」と言う言葉から始まって黙示録に進んで行きます。言い変えれば、聖書の歴史は神の創造から始まって、イエス・キリストの再臨ないし神の国と言う終着駅に向かっていくのであります。 伝道の書に「物事には時があるのみ」と言う趣旨の言葉が記されたり、他の書には「悟りはない」などと言う言葉ありますが、これは正に先ほど循環史観に全く対置している言葉でありますが、日々全てが新しくされていくものだという信仰告白の詩的な表現であると言えます。 使徒行伝だけを取ってみてもキリスト教は直線史観からなっていると言う事が分かります。この使徒行伝は大きく分けて二部となっています。つまり、第一部は1章から12章まででありますが、エルサレムを中心とした原始教会の成立は発展がが主な内容となっています。第二部はパウロの伝道がローマまでありますが、この一部と二部をあわせて考えますと、エルサレムからローマに至ると言う発展的な展開がその主な内容となっているのであります。 このように聖書は、キリスト教は直線史観をもっていますので、教会やキリスト者は自らの改革を弛まないのであります。すなわち、悟りの境地にたち止まらないで、毎日新しくなっていく者であります。言い変えれば、毎日に新しく生まれ変わりながら、神の国へと旅を続けるのであります。 前置きが長くなりましたが、今日の聖書の個所を理解するのに直接必要な言葉や背景をもう少し申し上げてから後、話を纏めて終わりたいと思います。1節を見ますと「テオピロ」と言う言葉から始まっていますが、これは「神を愛する者」と言う意味でありますが、実際、誰であるかは分かりません。それで色々推測されている所でもありますが、神を愛する人一般に向けられた書物と言う宣言的な意味ではないかとも言われています。何れにしても推測を領域であります。 「テオピロ」と言う呼びかけの後に「わたしは先に第一巻を著して」となっていますが、ここでいう「第一巻」とは「ルカによる福音書」の事であります。つまり、ルカはこの使徒行伝を福音書の続編として書くつもりであったようであります。しかし、この使徒行伝全体がルカに書かれたのではありません。後半は他の人によって書かれたのは明らかであります。それで今の使徒行伝の形のなかで一つの教会の歴史として纏められているのであります。 今日の個所の話の背景はイエスが十字架に掛かって亡くなった後、復活をし40日間この世に止まって弟子たちと食事を共にしたりしていましたが、その時、復活のイエスは弟子達に良く命じた事の一つとして、エルサレムに止まって聖霊が注がれるのを待っているように命じていたようであります。水によるバプテスマだけでなく、聖霊によってバプテスマを受けるように言ったのであります。 ここのエルサレムとは言うまでもありませんが、今のイスラエルの首都であります。今もユダヤ教の神殿があり、イスラム教の神殿などがありますが、聖書ではエルサレムを「ダビデの町」「聖なる都」とも呼んでいます。アイロニカルにも紛争が絶えないところとなっていますが、このエルサレムのヘブライ語の意味は「平和の所有」あるいは「平和の基礎」と言う意味であります。 兎に角、イエスは復活の後、弟子たちにエルサレムで聖霊に注がれるのを待つように言いましたが、これはおそらく弟子達がイエスが昇天して見えなくなるとイスラエルの全土に散ってしまうと思ってそのように予め命じたと思います。全国、全世界に出て行くのは聖霊が注がれた後だと言う話でもあります。 今日のように短い文の中でも「聖霊」と言う言葉が二回使われましたが、聖書の中で最も多く使われる言葉でもあり、もっとも重要な言葉でもありますが、多くの方が何だろうと思う言葉でもあります。これはアウグスティヌスよって「三位一体」と言う教理が確立して特に聖霊という御言葉が重要になって来たと思います。つまり、三位一体の教理によれば、聖霊は創造の神様、御子イエス・キリストと位を同じくする神様であります。このように言いますと益々分かりにくくなります。 しかし、難しく思う必要はないと思います。聖霊は自分に私たちを向けさせるという神でなく、私たちにして、イエス・キリストを主と告白させる働きをする神、ないし力であると言って良いと思います。 先週のメッセージを少し思い出して頂きたいですが、復活のイエス・キリストを私たちは自らの力で理解することは出来ないので、神様の助け、ないし、導きが必要であると申しました。その際に、働いてくれる神様が聖霊であると思えば、それほど大いに戸惑わなくと良いと思います。聖霊が私たちをイエス・キリストに繋がせてくれるのであります。これによって私たちは神様と和解をし、また他人共に生きる者となって、また自然との関係をも回復することを願う者となったのであります。 この聖霊の働きによってイエス・キリストに繋がれる事がなかった時代は如何であったかと言えば、人々は律法に繋がれていました。命のないルールに雁字搦めになって縛られていたようなものであります。しかし。今は生きているイエス・キリストに繋がっているのであります。そして、イエス・キリストの体としての教会にこのように止まっているのであります。 教会と言う神の国行き列車には善良なる人間だけが乗っていません。もし罪のない者だけに乗車のチケットが渡されるのであれば、私は今もフラットホームで待ち続けるしかない者であります。 教会は罪人の群でもあります。ですから、互いが赦しあうべきであります。時には込み合っている列車の中のように肩がぶつかり合う事もあります。しかし、生きているキリストは私たちに教会に止まって更なる聖霊の働きを待つように命じています。私たちが時には隣人と全く違うものであることを知っていながらも、教会と言う列車から降りてしまいたい時があっても、イエスの教会で待ちなさいという戒めが、教会に踏み止まる根拠となる言葉ではないでしょうか。 人は決して一人で生きる者として創造されていません。家族だけに生きる者として造られてもいません。更には人間が作った共同体の中でだけで生きるようにも造られていません。神の言葉が神様の赦しと愛が私と他人との間を律するところでなければ、そこには平和がありません。これからも神様の言葉が支配する神の国の雛形としての教会の中で共に聖霊の働きを待とうではありませんか。 |