2005年4月10日

「聖霊を受けて」(使徒行伝1・6〜8)

テーマ:聖霊は私をキリストの証人とさせる。

時:05.4.10. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

一昨日にはローマ法王ヨハネ・パウロ2世の葬儀がありましたが、世界中から400万人ほどの信者がローマに集まって別れを惜しんだそうです。新聞の表現によりますと「史上最大の葬儀」であります。色々考えさせられました。国と人種を超えて、宗教をも越えて、地球の果から人々が集まったわけであります。

世界中の10億の人々が彼を大きな精神的な柱としながら、また影響されながら過ごしてきたわけでありますが、法王は生前、世界中を飛び回りながら福音を伝えたそうです。それで、それほど多くの人々が葬儀に参列し、彼の業績を讃えただろうと思います。

法王の葬儀がある前前日だと思いますが、京都では「聖神中央教会」と言う新興宗教の牧師が少女に性的な乱暴をしたということで逮捕されました。礼拝堂に十字架を掲げて、イエス・キリストの名を呼び求めながら、自分達がキリスト教だと名乗っているが故に更に私たちにとって不愉快なニュースでもあります。

しかし、良くニュースを良く聞きますと自分が教会の創設者だと言ったり、自分が神の代弁者だと言ったりしていましたが、それは正当な教会の牧師の話ではありません。教会の創設者を敢えて言えば、「聖霊」であります。言い変えれば、イエス・キリストを主と告白させる神の力によって集められた人々が教会を形成し始めたのであります。また、牧師も一人の信仰者であります。神の代弁者だと言いながら、自分を絶対化したり、神のようになって行くのは決して赦されません。原始教会以来教会の周辺には常に異端や邪悪な類似教団が付きまとっていると言えますが、この京都の事件を見ながら、そのような典型的なものの一つだなと思いました。

これ以上コメントもしたくない事件でありますが、今日のメッセージのテーマとも関連がありますのでもう少し共に考えて見たいと思います。この事件のニュースの画面を見ますと教祖は大声で連続して「聖霊が臨むように」と人々に呼びかけると、その周辺にいる少女らしい人々がはねったりしながら、我を失っていくような様子が映っていました。言わば、トランス状態であります。

確かに、正当な教会の中でも聖霊の働きをそのように語ったり、そのならなければ、聖霊を受けていない者であるかのような目で見たりする教会もあります。しかし、私はそのように聖霊を理解していません。何しろ、私自身がそのような経験がありませんから、そのように語る事が出来ません。つまり、私自身が聖霊によって催眠でもかかったかのような状態にさせられた事がありません。

先週のメッセージでも申しましたが、聖霊を難しく思う必要はありません。聖霊は私たちにしてイエス・キリストを主と告白させる神の働きないし力だと理解すればよいのであります。私たちは立って歌わなくとも、立って手を振らなくともすでに聖霊の働きによって復活のキリストを主と告白し、主に従いたいと願っているのであります。

さて、今日の聖書の個所は1章の6節から8節でありますが、実は先週の週報には今日の個所を「6節から11節」としましたが、この一週間、前後の聖書を読んだり、参考書を見たりすると、如何しても6節から8節までと9節から11節までを別々のテーマとして語るべきであると思いましたので、少し予定を変更させて頂きました。

今日の個所だけでなく福音書の全般において同じでありますが、イエスと弟子達の対話には良くズレがあります。つまり、イエスの言葉を正しく理解していない弟子たちの様子が度々浮き彫りにされます。正に今日の個所の6節がそうであります。

先週の個所であった3節を見ますと復活のイエスは弟子達に生前と変わらず、「神の国」を語られたと示されています。そのような話をずっと聞いていたはずの弟子たちでありますが、弟子達は今日の個所の6節で、またもや、「イスラエルの為に国を復興なさる時はこの時ですか」と訪ねています。弟子達はイエスの語る「神の国」を「世俗の国家イスラエル」に置き換えて聞いていたのであります。

これには事情がありまして、イスラエルの人々は何時も自分達が神に選ばれた民であると言う意識をもっていました。そして、自分達は神から特別な名誉と資格が与えられていて、全世界を支配するように初めから定められていると信じていました。しかし、今の自分たちを考えれば、ローマの属国になっていて、全くそのような誉れのあるイスラエルの状態であると言えないのであります。それで、当然、イスラエルが先ずローマから解放されなければならないと寝ても覚めて願っていたわけであります。その結果、イエスが「神の国」を語っていても「イスラエルの復興」の為の話として聞こえたのであろうと思います。

復活のイエスはこの弟子による問に対しては直接的な答えはしません。つまり、あなた達は私が言う神の国に対して履き違いをしていると言わないで、「時期や場合は父の権威によって定めておられるのであって、あなたたちの知るかぎりではない」と答えるのであります。

このイエスの答えは神の国の完成の時であろうとも、世俗の国家イスラエルの復興の時であろうとも、更には、あなたたちの祈りの内容であろうとも「時と場合」は神が定めることであるという答えであります。言い変えれば、弟子達の問に対してだけの答えとしてでなく、一般論としての答えたのであります。良く考えて見ますととても面白い答えであります。また、多くのモノを示唆する答えでもあろうと思います。

このイエスの答えの仕方を喩えで言えば、ある若い男女が出会って間もなく、いきなり親の何処ろに来て、二人は結婚したいが、何時結婚させてくれるかと尋ねるような事であります。すると親は先ず二人が真に愛し合うのが大事ではないか、もし本当に愛し合うようになれば、日取りは自ずと定まってくるのではないかと答えたようなモノであります。

これと同じく、世俗の国家の建設であろうとも、復興であろうとも、その時期より、どれ程良い共同体を作ろうとしているのかと言うプロセスが大事であって、そのように努力すれば、その時期は神様が定めて下さるというイエスの答えであります。

誤解がないように申しますが、イエスは決して弟子達が願っていた世俗国家としてイスラエルの復興に対して反対をしていません。イエスは無政府主義的な事は言いませんでした。また、サムエル記などを見ても分かりますが、聖書は決して世俗の国家を否定していません。しかし、それより、神の愛が、神の秩序がこの地に現われるのが先だと語っているのであります。

このようにイエスは弟子達の問に対して直接的な答えは回避し、8節で「ただ聖霊があなた方に下る時エルサレムから始まって全土に出て行ってご自分の証人となるであろう」語ります。

ここの8節の「エルサレム、ユダ、サマリヤ、そして全土」と言う順番にも大事なメッセージがあろうと思います。つまり、エルサレムで先ず聖霊が下るのを待ってそれを受けてから全土に出て行くように命じています。ここのエルサレムは先週にも申しましたが、教会として理解して良いと思います。

教会とは隣人に出会うところでもあります。教会はこの世のように共通の利益や理念、または趣味を同じくする隣人に会うためのところでなく、ただイエス・キリストを主と告白し、イエス・キリストに共に従おうというところにおいてのみ一致を求めつつ、その場において隣人に出会うところであります。

しかし、時々、「聖書やイエスの教えは良いけど、教会に行けば、人間関係が余計に煩わしくなるから嫌だ」という人に出会います。如何でしょうか、教会で人間関係を築く事ができないながら、他のところで人間関係を築く事ができましょうか。教会の中で隣人に出会うことが出来ないながら、人種や国籍を超えての人々と隣人になる事ができるでしょうか。

私たちは先ず教会の中で聖霊を受けて最も近くにいながら最も遠くにいる人と和解をし隣人にならなければならないと思います。これは小さい業のように見えるかも知れませんが、決して小さい業ではありません。何の意味もない業のように見えるかも知れませんが、決してそうではありません。教会が飾り気のない生の人間に出会う場であります。そこから全ての人との出会いがスタートしなければならないのであります。

この事をマタイ福音書の有名な話を通してもう少し共に考えて見たいと思います。マタイ25章14節以下に出て来るタラントの話であります。主人は旅行に出かける時三人の僕を呼んでお金を預けながら、自分が返ってくるまで管理するように命じて出かけます。すると5タラントを受け取ったものはそれを利用して5タラント儲けて主人に返します。もう一人は2タラントを受け取って同様にして主人に返します。すると主人は二人を褒めながら「良い忠実な僕よ、良くやった、あなたは僅かなものに忠実であったから、より多くのものを管理させよう」と約束をするのであります。ここの「わずかなモノに忠実であった」と言う言葉が大事であります。小さいモノに忠実でない人は大きなものにも忠実にならないという事は私たちは経験から知っています。

三名の中で最後の一タラントを預かった僕は主人はまかないところから刈り、散らさないところから集める酷な人であることを知っていたのでその一タラントを土に埋めておいたと言いながら、そのまま返します。小さいことを軽んじた自分の過ちを今度は主人のせいにしたのであります。それで彼は主人の所から追い出されるようなったのであります。

最も身近にいる人を粗末にしながら最も遠くにいる人は大事に出来る事は出来ません。家族を粗末にしながら他人を大事する事はある意味では偽善であります。また、そのような偽善はすぐに地金が出るものであります。

今日の個所のところに話を戻しますが、先ず聖霊を受けて最も近いエルサレムからユダへ、そしてサマリヤと言う具合にその範囲が広がっているのであります。身近なものから遠くへ、小さいものから大きなものへと拡張されて行くのであります。

イスラエルの人々にとってユダは身近な人々でありましたが、サマリヤの人々とは精神的に遠い存在でありました。なぜなら、サマリヤ人は同じくユダヤ人でありながら、ユダヤの純粋な血を受け継ぐことが出来ずに、異邦人の血が混ざっていたからであります。

しかし、復活のイエスは、喩え、サマリヤ人であろうとも聖霊を受けてからはそのような感情を乗り越えて共に主の名の下で隣人になるのだと言うのである。そして更に全土に出て行ってご自分の証人となるのだと言うのであります。

今日の個所は聖霊を受けると他人との関係がどのように発展しくのかを示す個所でもあります。つまり、ただ熱狂的になってトランス状態になるのでなく、聖霊の受けるとイエス・キリストの証人となって全世界でイエス・キリストを明かすようになると言うのであります。

証人とは自分の経験により認識することの出来た事実を供述する事であります。自分の経験がないのに、ただ頭のなかでイメージして語るのが証人ではありません。もしそうであればそれは偽証であります。自分が経験してそれはまた認識し、言葉に言い表すのが証人であります。

私たちは先ず教会で聖霊の助けによって私と違う人の群の中で、先ず復活のイエスに出会う経験が求められます。私たちはイエスに出会って初めて自分がどれ程罪人であるかが示され、それによってまたイエスに罪の許しを求め、それによって赦され、解放されるのであります。これが私たちのイエス・キリストを経験するという事であり、この経験から与えられる喜びと価値とを地の果まで伝えるのが伝道であります。

勿論、私たちはクリスチャンになれば、直ちに、皆が一斉に出て行って伝度をしなければとは思いません。今は、聖霊を受けて心の安らぎを受けながら、回復を待たなければならない兄弟姉妹もあろうと思います。しかし、回復された後は私たちは積極的に他人と関係をも築いていかなければならないと思います。これからもこのような教会で共に信仰生活を送りたいと祈っています。