2005年4月17日

「再臨を待とう」(使徒行伝1・9〜11)

テーマ:キリストの再臨は人間歴史への最終の神の介入

時:05.4.17. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

今日は私たちの教会の会員であったり、家族を介して関わりをもっていながら亡くなった方々を覚えつつ、礼拝を捧げる日であります。

先ず亡くなった日日の順に従って名簿を確認したいと思います。拓哉君1997.7.14.(享年3ヶ月)、菰田正郎 1998.5.20.(享年84)、岩崎邦夫 1998.12.8.(享年43)、上田愛子2000.1.29.(享年82)、岩切 健 2000.2.1.(享年68)、菰田キク2002.8.5.(享年84)渡邊一成2004.7.9(享年69)、江頭 茂 2004.6.4.(享年90)です。

この中には生前イエス・キリストに直接繋がっていた方もいますし、そうでない方もいます。しかし、何らかの形で皆がイエス・キリストに繋がっていました。例えば、告別式は教会でするように家族に頼んだり、本人がその旨を書いて置いたりして、永遠に生きるイエス・キリストに死後を委ねた方々であります。

名簿にはありませんが、私たちは佐藤正二兄弟の夫妻、渡邊晃一兄弟をも覚えています。また、篠崎さんのご主人をも紹介したいと思いますが、康子さんはバプテスマを受けてからは、ご主人の為に仏壇の前で祈るのでなく、ご自分の信仰にしたがってイエス・キリストの名において、主人の為にを祈っておられます。このような本人の信仰と希望や私たちの祈りは決して虚しくならない事を信じています。

死者を弔うのには様々な形があります。また、葬儀に際しては様々な神々の名が呼ばれますが、これらはそれぞれの考え方、信仰や文化の反映していると言えます。

私たちは生ける神、イエス・キリストの名に基づいて葬儀をし、その後をも委ねますが、これはイエス・キリストが死から復活をしたことによって成立したキリスト教の最も優れた特徴の一つであります。

イエス・キリストがこの世に来る前、つまり、旧約時代は葬儀に関してどのような信仰告白があったかを示す個所を紹介します。創世記15章15節に示されていますが、ユダヤ教やキリスト教が共に信仰の始祖であると言うのアブラハムが亡くなる時、彼は「あなたは安らかに先祖のもとに行く」と言う声を聞きます。私たちの今の信仰から考えれば、かなり違うところがあります。私たちは人が亡くなると「神のもとに行く」と言う明確な告白をしますが、ここでは「先祖のもとに行く」と記されています。ここだけでなく旧約聖書には誰々が亡くなって、「先祖に加えられた」と言う言葉は随所に現れます。

これとはまた違う言葉が記されている所をもう一箇所だけ紹介しますが、神を愛し、また神に愛されていたエノクが亡くなったことを「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたのでいなくなった」と創世記5章24節は記しています。

このように、イエスの復活によって永遠の命が示されるまでは、人が亡くなると先祖に加えられたり、いなくなったというようなある意味では曖昧な告白しか出来なかったのであります。しかし、私たちはイエス・キリストが死に対して勝利をした後からは、復活を信じ、永遠の命を信じ、また彼を信じることによって私たちもまたそのような栄光に預かる希望と抱いているのであります。これが、キリストの信仰による「人間の死」に対する基本的なの理解であります。

このような死の理解の上で私たちは人が亡くなるとその方の為に告別式を行ないますが、それで、私たちの信仰の故に自ずと世間での葬儀の形とは違ってきます。例えば、私たちは死者に向かって礼儀を現すより、死者を前にして神に委ねる祈りを捧げます。このような事で私たちが他の葬儀に出た時、そこでは死者に向かってお辞儀をしますので、戸惑ったり、心の抵抗を覚えたりすることがあります。

この間、ある姉妹が教えてくださったことでありますが、大事なことだと思われました。また、キリスト教の死の理解に基づいての葬儀の形だなと思いました。その姉妹が属していた教会の葬儀の場合、棺を横方向に置かないで、頭の方をやや高くして、縦方向に置いたそうです。そして、司式者の位置も棺のより後ろに立ってメッセージをしていたそうです。この形には多くの内容が含まれています。つまり、死者が礼拝の対象でなく、生きている者も死者も共に神の前に立つものであるというメッセージが込められているのであります。

私たちの神様は生きているものだけの神でなく、死んでいるものだけの神でもありません。イエス・キリストの死と復活は死んでいる者も、生きている者も、共に彼のもとに置かれているという神様からのメッセージでもあります。

こういう訳で、イエス・キリストの死と復活によって書かれた新約の時代になりますと、死ぬことより生きる事、生まれる事が主な言葉となってきます。例えば、新約の始めを開く途端、誰々は誰々を生み、誰々は誰々を生みと言う言葉が途絶えることなく続きます。ここは旧約の時代から新約の時代への移行の意味を象徴しているようなところであろうと思います。

さて、今日の聖書の個所はイエスの昇天と再臨の約束が語られている所であります。理解するのにとても難しい個所であります。イエスの昇天の様子が語られている所はここしかありませんが、今日の個所はイエスが雲に包まれて天に昇られたと記されています。

如何でしょうか。私たちはここをなるほどと素直に読める事が出来るでしょうか。つまり、イエスは天の上にあるもう一つの神の国と言う空間に移されたと読むことが出来るでしょうか。出来ないと思います。

それより、イエスは復活の後40日間、度々弟子たちに度々現われましたが、その以降はその時までの姿では現われませんでしたが、それをルカはこのような形で告白したと読むのが自然ではないかと思います。

もう少し申し上げますと、その当時の人々はこの地球は四角のモノであって、天の上にはまた別の空間が存在していると考えていました。このような考え方は、ご存知のように人類の歴史において長く続きました。今の私たちは簡単に地球は丸いものであって、地球が太陽の周りを回っているなどと言えますが、昔の人々はそのように思うことは到底出来ませんでした。どんなに知識を積んでも、知恵を働かしてもそれは全く想像することも、仮定することも不可能であったわけであります。要するにそのような言葉を持っていませんでした。

なぜ、今日の個所のような記述になったかを考える時、もう一つ考慮すべき事でありますが、今日の個所はルカによって記されていますが、彼は医者でありました。また、論理的な人であったと思われますが、医者のルカにとって死者の復活なんてあり得なかったはずであります。にも関らず、復活をしたイエスが実際に度々弟子たちや多くの人々に現われたと証言されていました。そして、イエスが復活をした事の消極的な証拠として遺体がなかったのであります。このような事件を一つ一つずつ辿って行きますと、復活のイエスは何処に行かれて、いなくなったか、と言う疑問が起されるのであります。それで、当時の自分たちが持っていた言葉をもって記そうとしたのが今日の個所であろうと思います。

しかし、ルカによる想像だけによる記述ではありません。イエス自身も復活の後は神のもとに行かれると言ったし、聖書にもすでに預言されていたことでもあります。ですから、今日の個所を私たちの理性では理解できないと言う理由だけ跳ね除けないで、その当時の事情やルカの性格などを考慮しながら、読むことによって完全には理解できなくとも理解を深めるの出来るのであります。

今の私たちの理性は完全ではありません。全く小さい力しかもっていません。また、今、私たちがもっている言葉も全く不十分であります。つまり、神様の御旨や業の全てを私たちの言葉をもって書き記すことは不可能であります。それで、私たち理性や言葉をもって神様の業や御旨に一歩一歩近づく中に何処かで断絶が必ず生じて来るのであります。

今日の個所を読むとルカがイエスの復活と昇天を論理的に考えていく中に、正にその断絶が生じていて、今日の個所のように神秘的な様子をもってイエスの昇天を書き記すしかなかっただろうと思います。

表現の方法はともあれ、イエスはこのようにして神のみもとに行かれて、今も生きていて人類の歴史を支配されていますが、何れかは、必ず昇天された時のような神秘的な方法で再臨なさると約束をしてくださいました。信仰者はこの再臨を最後の望みとしながら、今を生きるのであります。例え、私たちが再臨を見る前に亡くなって、肉は土に帰るとしても、イエスの再臨の時は皆の魂が眠りから起されると約束されていますので、死をも恐れずに生きるのであります。

少し話が変わりますが、私が子供の時、聞いた話を一つ申し上げます。と言っても別に変わった話でなく、何処でも聞くことの出来る話でもあります。私の叔父さんが我が家に何かの事で泊まりにきましたが、その時、大人たちが話をしているのを子供の私が聞いていたわけであります。その叔父さんは何かの話の弾みで「人は毎日その一歩一歩自分の墓に近づいていくようなモノだ」と言っていました。当時は、勿論、それが何の意味かさっぱり分からないで、ただその時まで聞きなれていなかった言葉であったから、覚えたわけであります。後になってから似たような言葉を聞くたびに、その時、聞いて覚えていたその叔父さんの話を思い出しました。

ところが、今のこの年になってはその言葉がかなりの重みのあるモノとなってきました。自分の経験から言いますが、おそらく30歳前後までの方には自分の死などについて実感としては湧いて来ないと思います。しかし、40を過ぎるとさすがに残りの時間が少なくなってきたと思うようになり、同時に、自分の死をも現実のものだと思うようになるのであります。それで、人々は時々如何生きるんだ、また、如何死ぬんだという事を真剣に考えるようになるのであります。

それで、人は「死から今を生きる」などとも言うようになります。つまり、毎日、一歩一歩自分の墓に近づいて行くのでなく。人は何れ、皆死ぬんだから、もうすでに死んだという視点から、今は余計に与えられた時間として感謝の気持ち気持ちで今を生きようとするのであります。

私も自分の死を考えるようになった時、この言葉がすきでした。正にそのような姿勢で思い切って後悔のない人生を送ろうと決心してみたりしていた時期もありました。しかし、信仰が与えられた今はそう思いません。やはり、イエスの再臨を待ちながら生きること、また、イエスの再臨の際に自分がどのような姿でイエスの前に立たされるのであろうかを考えながら最後の時を迎えようと思うようになったのであります。

今の私は毎日、自分の墓に近づく者でもなく、また、死から生きる者でもなく、再臨から生きるのが許されている信仰者として感謝しながら日々を過ごしています。これは勿論私だけでなく、全ての信仰者に許されています。このような信仰に基づいて、例え、バプテスマを受けていない家族であろうとも、イエス・キリストに委ねようと願いから教会で葬儀を行なうのであります。

最後にイエスの再臨が主なテーマであるヨハネの黙示録の一箇所を共に確認して話をおわらせます。黙示録の最後でありますが、22章18節以下にこのように記されています。「もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災いを加えられる。また、もしこの預言の書の言葉を取り除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書の書かれているいのち木と聖なる都から取り除く」と。

厳しい警告でありますが、これは人々が勝手に自分の都合に合わせて再臨の約束を利用する事がないようにと言う警告であります。しかし、あるモノは自分が再臨主だと言います。また、人はその時は知る事ができないとイエス・キリストが言ったのに、その時を勝手に決めて人々の財産をむさぼる者もいます。正にここ示しているように、書き加えた者であります。

ここの黙示録の個所は勝手に書き加える者だけに対しての警告ではありません。つまり、再臨なんかあるもんか笑う者もいますが、これは再臨の言葉を取り除く者であります。また、ある者は信仰者であると言いながらも、再臨とは理解出来ないことであって現実的にありえないことであるから、ただ信仰者にとって精神的な働き、ないし希望と警告の意味として理解すれば良いと言う者います。これも言葉を取り除く行為でありますが、再臨について勝手に付け加えても、また取り除いてもならないモノであります

再臨とは人類の歴史へ、決定的な時になると神様が具体的に介入するという約束であります。その再臨を待つ者は幸いであります。