2005年4月24日

「担って行こう」(使徒1・12〜15)

テーマ:祈りをもって始められた教会は今も成長し続ける。

時:05.4.24. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

今日は私たちの教会の総会があります。前年度の活動報告と今年度の計画を確認する為であります。多くの方々が総会に参加することを期待しています。

総会資料にも書きましたが、今までの私たちの教会は、少なくとも私がこの教会に就任した以来、大きな問題はありませんでした。特に私の事から考えますと、皆さんが出来立ての牧師を愛をもって見守って下さり、また、指導してくださったので、ここまで来れたと信じています。「牧師は信徒によって育てられる」という事を神学校で聞いた事がありますが、この5年間まさにその通りだなと実感しました。これからも皆さんが牧師を如何育てたいのかを真剣に考えていただき、またその為に祈って頂きたいと切に願っています。

このように私はこの教会について幾分かは満足しています、また感謝もしていますが、最近、私たちの教会には少し閉塞感があるように思っています。つまり、今、私たちにはキリスト者として自ら外へ出て行って一歩、隣人へと言う意気込みが求められていると思います。

その間ずっと三苫に開拓教会をと言う祈りの課題をもっていましたが、具体的な一歩はありませんでした。それで今年度は役員会の提案として「三苫開拓献金」を指定献金して、開拓に必要な資金を積み立てて行こうとします。その旨が総会で理解され、共にその働きに参与できればと思います。

さて、今日のメッセージのタイトルを「担っていこう」と致しましたが、このタイトルは今日が総会のある日であることを意識してそのように付けさせて頂きました。また、今日の箇所も総会の日の為に丁度良いと思いました。総会を前にして先ず聖書を通して初期教会の先輩の方々の活動や問題点などを学んだ後、総会において今年度の計画を確認し少しずつその働きを担って行きたいと願います。

話を始める前にご理解頂ですが、先週、今日の聖書の箇所として予告したのは12節から20節まででありました。少し変更いたしました。なぜなら、先々週もそうでありましたが、読んでいく中に如何してもテーマを二つ分けた方が良いと思われたからであります。しかし、このように細かく分けてメッセージの箇所として設定すると、一つ一つの事件を使徒行伝と言う全体の流れの中で、把握しなければならないことが疎かになるのではないかと心配しました。つまり、使徒行伝は初期教会の歴史として一つ一つの事件が関連しながら連続的に語られているのに、細かく切って学ぶことによって、その連続性が途切れてしまうのではないかと思った訳であります。今日の箇所のメッセージを準備しながら、このようなことにならないように顧慮しなければならないなと改めて考えさせられました。

先週の箇所はイエスが昇天なさったと記されているところまでありましたが、今日の箇所の始まりの12節はイエスの弟子達がイエスが昇天された場所として記されているオリブ山からエルサレムに戻ってきたと言う所から始まっています。つまり、今日の箇所はイエスが昇天されるのを弟子達が見届けてからエルサレムに戻ったところからであります。

ところが、この12節は当時のイエスの弟子達が未だに大いに気にしていた事柄が一つ語られています。彼らはもうすでにユダヤ教の律法に捕らわれることなく、イエスが示した愛と約束の言葉だけに従っていたはずでありながら、律法を意識しながら行動をしていました。彼らがオリブ山からエルサレムに移動したのは安息日でありましたが、安息日に赦される移動の距離は900m弱でありました。丁度、オリブ山からエルサレムもその位であったので戻る事が出来たのでありました。もし、それ以上の距離であったらオリブ山に止まっていたかも知れません。

使徒行伝の中で使徒たちが律法から自由になっていなかった事を示すところはここだけではありません。使徒行伝の前半の主役でもあり、使徒のリーダでもあったペテロが律法に対してどのような思いを抱いていていたかを示す最も顕著な箇所でありますが、10章9節以下に示されています。ペテロはユダヤ教の律法に従って動物を清いモノと清くないモノとを意識して、空腹にも関らず食べなかった事がありました。また他のところでは、のようなペテロの姿勢の為にパウロとの葛藤が起こった事もありました。

このようなことを考えますと私たちの今の教会と初期の教会とはかなり異なったところがあります。つまり、私たちの今の教会では安息日の為の律法からは完全に自由であります。私たちには日曜日になりますと殆どの方が喜びの中で礼拝に出るとは思いますが、中には礼拝に出席しなければならないと気持の上で強制される方もいると推測していますが、それ以上のモノはありません。例えば、日曜日には仕事をしてはならないとか、遠くまで旅行に行ってはならないなどと思わないのであります。しかし、ユダヤ教では未だにそうでありません。安息日になりますと文字通り全てがストップして休まなければならないのであります。ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から土曜日の日没の時間までありますが、その間はバスもストップして観光客などは大変困ってしまいます。

皮肉を言いますが、安息日には、例え、軍人であれば、軍人の仕事としての戦いをも休めば良いのに、どうやらそうでないようであります。それはまたそれなりに解釈しているのではないかと推測しています。

繰り返しになりますが、食べ物においても、私たちは個人的な好き嫌いにしたがって好むモノがあり、嫌うモノはあっても、信仰上の理由で清くないモノがあって食べれないと言うのはありません。

要するに、初期教会と今の教会を比較して見ると、教理や信条は発展して来ましたし、教会も常に改革されながら成長してきたのであります。考えてみたら生きているモノは成長します。生きているモノは変化します。成長も変化もない状態は停滞であり、ある意味では死んでいるとも言えるのであります。

こう言いますと人間は25才過ぎると成長が止まるから「死んだ者」かと聞き返したくなる方もいるかも知れませんが、年をとると確かに肉体的には衰えて行きますが、精神的に成長して行く機会は幾らでもあります。特に、キリスト者は最後まで永遠の命に向かって成長して行くモノであります。幾ら年をとっても命と希望を語りながら感謝することが許されているのであります。

勿論、教理と教会が時代と共に変化し成長するとしても、変わらないモノもあります。これが変化してしまえば、もうすでにキリスト教であると言う事も出来ないし、教会と言うことも出来ないモノがあります。イエス・キリストに従って生きるという信仰であります。来れは変わりませんが、ただどのように従うのかが時代に従って変わって来たのであります。

話を今日の箇所に戻しますが、弟子達はオリブ山からエルサレムに戻って来て最後の晩餐が行なわれただろうと言われている屋上の間に集まりました。そして、ひたすら祈りをしていました。心を一つにして祈ったわけであります。教会が祈るのを放棄すると、キリスト者が祈ることを放棄するとその途端、人間的な思いだけに捕らわれてしまうのであります。神の御旨をいただき、また、私たちの願いを神様に申し助けを求めるのが祈りであります。人間的な弱さを告白し、人間的な思いから自由にされる時でもあります。

14節で、もう一つ注目したい事でありますが、心合わせて祈りをしていた人々の中には、イエスの生前の間にはイエスを良しとしなかった人々も、この初期教会の祈りの輪に加わっていた事を知る事が出来ます。イエスの兄弟達はイエスの生前の間には、イエスに反発をしていましたし、一時にはイエスが狂ったとまで思っていた時がありましたが、イエスの十字架の死と復活の後は、教会に加わって祈りに心を合わせ始めたのであります。この他にも生前のイエスには反発していたが、イエスの十字架死と復活によって心の眼が開かれて祈りの輪に加わり、初期教会員になって行ったと思います。

15節を見ますとこのようにして教会の群は少しずつ大きくなって120人にもなりました。今の日本の全体のキリスト者人口は割合は1%だと言われています。福岡地方はそれより倍もあって2%だと言われます。しかし、私たちはキリスト者がとても少ないと感じています。割合から考えれば、例え、福岡人口が100万であれば2万人がキリスト者であるはずであります。多いと言えば多い数でありますが、周りを見ますと少なく感じられます。

余談でありますが、この間行き付けの食堂の従業員が私の事を牧師だと聞いたようで、とてもうれしそうな顔をしながら、自分もクリスチャンであると言っておりました。彼女は「クリスチャンが少ないに…」と言っておりました。これが私たちの感覚ではないでしょうか。

ところが、教会始まった始めは120人でありました。当時のパレスチナ地方の人口は400万にだと言われています。割合から言えば、400万の1%であれば、4万であります。しかし、120人でありました。このように、全く取るに足りない数から教会は成長をし続けて行きます。

その成長する様子を使徒行では2章4節では3000人、4章4節で5000人、21章20節で「幾万」と記しているのであります。そして、今の時代になっては世界人口3分の1である、18億と言うキリスト者になっているのであります。驚きであります。しかし、これからも、この成長は止まる事はないと信じています。

今、私は決して数を賞賛しているわけではありません。それより、始めの教会に加わった方々が、真剣に祈った結果がこう成長させられたという事を申し上げたいのであります。また、私は教会の会員が多い教会が良い教会だとは思いません。一人でも多く、キリストに忠実な者が集まっている教会が良い教会だと思います。

私は昔から一つの夢がありますが、若い人々を集めて、聖書を共に学び、また、交わりながら、様々な意見を交換しながら、共にキリストにおいて成長されて行けば良いなと思っています。それで良い教会を共に形成していければ願っている訳であります。

士師記7章に示されている事を紹介しますが、ギデオンがミデアン人と戦いをする時でありますが、始めにギデオンのもとに集まっていた人々は32、000人でありました。しかし、ギデオンは神様に民が多すぎるといわれます。それで、ギデオンは民を集めて、「誰でも恐れおののく者は帰れ」と言います。恐れながら戦う事は出来ないと言う事であります。すると2万2千人が帰ってしまいます。半分以上が帰ってしまいました。でも、神様はまだ多いと言います。それでギデオンはまた別の事をもって民を試みますが、結局300人だけが選ばれました。とても少ない人数であります。でも、恐れることなく、本気で戦おうとする人がだけで戦いに臨んだわけでありますが、この人数でギデオンはメデアン人に対して勝利をします。

ここは大事な事を示唆するところであります。本気になっている群であれば、人数が少なくとも莫大な力を発揮すると言うメッセージでもあります。

イエスも似たような事を言いました。芥子の種の程の信仰があれば山に向かって移れと言えば移されるだろうと言いました。芥子種を見た事がない人もいるかも知れませんが、種の中で最も小さい種だといわれています。特に中近東の芥子種は風邪に飛ばされてしまいそうな塵のようなモノであります。

しかし、イエスはわざわざこの小さいモノをもって喩えているのであります。本当の信仰があれば、喩えまったく小さく見えても、そこには計り知れない力があります。私もこの事を信じています。

これは必ず信仰だけに限ることではありません。本気になれば、人は極めて強くなるのを私たちは経験しています。ましてや、信仰においては言うまでもありません。本気になってイエス・キリストに従いたいと願う者には神さまが助けて下さいます。計り知れない力が加えられます。今日の箇所がそれを証明しているのではないでしょうか。

120名の小さい群が一団となって心を一つにして祈っていた結果が今日のキリスト教の成長出来る基となったのであります。

私たちの教会も小さい群であります。しかし、決して弱い群ではありません。皆が真剣な祈りをもっているからであります。今日また新たなる祈りと決心をもって今年度の計画を承認しようとしていますが、これからも、一団となって共に心を合わせて教会の成長の為に祈り、その働きを担って行きましょう。