2005年5月1日

「自らを罰しないで」(使徒行伝1・16〜20)

テーマ:神に私たちの罪を委ねつつ、与えられた働きを全うしよう。

時:05.5.1. 於:和白教会 説教者:黄仁坤

今日は連休のただ中でありますが、信仰者にとっては神様を覚え感謝する事が何よりの安らぎであり、喜びであります。この礼拝を通して皆さんに神様から多くの祝福と安らぎがありますように祈ります。

この間、金曜日も休日でしたが、毎年この休日を利用して福岡地方連合の社会委員会が催している講演会があります。主に靖国神社問題や平和問題を取り上げていますが、私たち夫婦は子供と共に行って来ました。会場である西南学院教会に行っている途中、車の中であったナオミとの遣り取りを一つ申します。

ナオミは百地の国立医療センターで生まれましたが、それで、私たちも以前からその近くを車で通る時は、時々その病院を指差しながら、「ナオミもヨハナもあの病院で生まれたのよ」と言って来ました。この間も何時ものように、その病院を差しながら、「ナオミもヨハナもそこで生まれたのよ」と言いますと、ナオミが「そうよ、ナオミは元々天にいたが、お母さんのお腹を通って生まれたのよ」と答えました。とてもその答えを聞いて嬉しくなりました。そのように家内が度々言ったのでそれを覚え、答えたと思いますが、その答えは「命は神様から頂いたモノ」と言う告白であり、決して命は絶望に終わらないと言う信仰ももうすでに含んでいると思いました。つまり、その言葉には人は何処から来て何処へ行くのかと言う告白が明確にされています。私たちはそれを信じる事、それを語る事が赦されているのだと改めて思いました。

勿論、信仰のない方も「人は生かされているモノ」と語る事は出来ます。しかし、この語りには「命の主」が曖昧であります。人は他人に助けられて生きるモノであり、また他の自然の恵みがあって初めて生きるモノと言う意識はあるものの、私と言う人格の命を司る明確な神は存在しないのであります。

ところが、私たちは十字架の死と復活をなさったイエス・キリストを信じることによって、神が支配なさるところで永遠を生きることが約束されているのであります。言い変えれば、私たちは今このように神様によってこの世に呼び出されていますが、また、信仰によって、生きる神のもとでの復活も約束されているのであります。

また、私たちの信仰には人は何処から来て何処へもどるのかだけが示されているのではありません。この地上で生きている間、様々な罪をも赦されるという約束のもとにいるのであります。

人は生かされるだけでなく、赦されるべきものでもあります。この世を歩む間、知らないが故に、または弱さの故に、様々な罪を犯しながら生きていますが、その罪を数えますと時には自分を殺してしまいたくなるモノでもありますが、そのような罪は自分で始末するのでなく、イエス・キリストの言葉を聞き入れて赦されるべきであります。このような告白と共に生きる信仰者は幸いであります。

さて、今日の聖書の箇所はとても残念な事が記されている箇所でもあります。ユダの自殺が記されています。しかし、今日の箇所をただユダの自殺、またそれを拡大して、一般論としての自殺をテーマとして取り上げるより、使徒行伝の中でのユダの自殺の意味を共に考えてみたいと思います。なぜなら、使徒行伝の中でのユダの自殺はひとりの使徒の欠如の問題であり、神さまから与えられた命を人間が自ら抹殺する行為へ非難をテーマとしているとは言えないからであります。

実際に、今日の箇所でのペテロの言葉の中で確かに、ユダの自殺について遺憾な気持ちや怒りを読み取る事は出来ますが、自殺そのモノは「罪」であるとか「罰」であるとは言わないで、死ぬ時の様子だけを語りながら、ユダの自殺は神の言葉が成就する為であると言っています。そして、ユダの自殺によって使徒、一人が足りなくなった今や彼に代わって他の人がその職を担わなければならないと語っているのであります。

と言っても、今日の箇所は自殺の問題を避けて通る事は出来ないところでもあり、自殺は私たちの周辺で起こって問題でもあります。また、人は誰でも時には死にたくなる弱さをもっています。私も真剣に死にたくなった時期もありました。また、親しく過ごしていた従兄弟の中で自殺をした人が一人いますし、私の妹も一回自殺を図った事があります。そのようなことで自殺が如何に周りの人々に衝撃や悲しみを与えるのかを少しは知っているつもりであります。

今、日本で年間3万人から3万3千人ほどが自ら命を断っています。この自殺者の数は増えて続けていると言われています。毎日100人ほどの人が自ら命を断つという苦しい時代であり、殺伐な時代であります。

自殺は勿論「罪」であります。しかし、自殺は信仰上の罪だと言う短絡的な判断だけをもって私たちが自殺者の人格を貶したり、その人の問題であって私とは全く関係のない出来事だと思ってもならないと思います。

また、極端な例外を除いて、喜びつつ自殺を図る人はいないと思います。とても精神的に、肉体的に苦しみつつ、耐え切れない孤独の中で自らの命を断っていくのであります。このように考えますと「100%の自殺」はないかも知れません。つまり、社会が作り出した環境や人間関係が人を自殺に追い込むところがありますので、何%かは社会による他殺的な力が加わって人に自殺を選ばせるのであろうと言いたいのであります。その社会に私たちも参加をしているのであります。この意味で私たちも自殺者の数が増えることに対して負い目を覚える必要もあろうと思います。

自殺は罪だと自信たっぷり言うのが敬虔な信仰だとは思いません。これは自殺はその人の罪の問題であって、私とは何の関わりのないと言う、孤立的な考え方であります。キリスト者は如何なる罪人であろうとも、その人と隣人となりたい願いをもっているはずであります。

自殺と区別されるべき概念を先ず紹介します。始めに、「自由死」と言う概念がありますが、これは死に対しての「人間の主権の表明」であります。このような考え方に捕らわれている英雄的な人もいますし、また、実際にそのような考え方によって、英雄的な死を選ぶ人もいます。これは生命のコントロールと同様に、死のコントロールも人間の権利に属するという思考の極端な表れであります。これは、勿論、自由と言う概念の誤用であり、傲慢であります。これこそ神への恐れの全くない最も大きい罪であります。

もう一つ「自死」と言う概念であります。これは先ほど申しあげた「自由死」と言う概念と共に一般化されていない概念であって、広辞苑を広げて見ても載っていませんでしたが、神学などでは語られている言葉であります。

「自死」とは死を選ぶほかないと言う極限状況まで追い込まれて自ら死を選ぶ事を言います。例えば、拷問の為に友人や家族を裏切るようになることを恐れて自らの命を断つ場合や、または船が沈没する時、それが自分の死を意味することを承知の上で救命艇に残された最後の席を他人に譲るような場合を自死と言います。このような自死の例を聖書から見出そうとするとサムソンの例がそうでないかと思います。

士師記16・30節以下にサムソンについて記されていますが、彼は敵に捕らわれ、眼はえぐられ、牛のように碾き臼を引く者とされました。人々の笑いものとされていたわけであります。彼は最後の自分の自尊心を守る為に、柱と引く抜いて多くの人々と共に死ぬ事を選んでしまうわけであります。このような自らの死でありましたが、ヘブル書11・32節以下では彼の死を褒めています。

このように、自ら死を選んだ場合であっても色々状況やその人の事情を考慮すべきであって、また、時にはより積極的に私たちもその自殺に対しての負い目を覚えなければならないであります。このような状況や考慮を無視してただ「神は人に生きることを命じたのに」これに違反して、自ら命を断つのは罪だと簡単に言うのは新たなる罪であろうと思います。

もう一つ、鬱病や統合失調症などによる自殺をも考えるべきであります。つまり、それは病気からの結果であるのに、いわゆる健康は人の基準だけをもって断罪してもならないのであります。

このように申しますと、私が今自殺を弁護するように聞こえるかもしれませんが、私は決して自殺を弁護するつもりはありません。また、後でもう申しますが、自殺は特に信仰者にとっては二重の罪だと信じています。しかしながら、自殺と区別すべき概念やまた自殺であっても考慮すべき点などを長々と申し上げた理由は自ら死を選んだ事に対して、ただ信仰上の観点だけで、罪だと裁いては行けないと言う事であります。

ご存知のように教会は長年、自殺者に対して神への反逆だと言う理由でその葬儀を断って来ました。今もそのような教会があるようであります。これは本人の救いを永遠に放棄することであり、名誉を傷つける事であって、更に、家族を苦しめる新たなる罪であろうと思います。

また、私たちもユダの自殺についての箇所を読む時、ただ裏切り者の死であって、当然の罰としての死であって神に呪われた結果だと言ってしまおうとするのではないでしょうか。つまり、自殺イコール信仰上の罪という図式以上のモノは見ようとしない傾向があるのではないでしょうか。しかし、それほど単純な問題でないと思います。

また、考えてみたらペテロだってイエスを裏切った者であります。勿論、ペテロだけでありません。イエスの弟子全員はイエスが十字架に架かって死のうとする時、生きるのも死ぬのも共にしましょうという誓いを放棄して逃げてしまいました。これも裏切であります。

私たちは如何でしょうか。イエス・キリストが私たちに何を期待しているのかを知っていながら、それを従いきれない者でもあります。また、時々神様を忘れることさえあります。これも立派な裏切りだと言えるのであります。

では、ユダと他の弟子達や私たちと何処が違うでしょうか。ユダは自分の罪を自ら始末してしまいました。つまり、自らを罰してしまったわけであります。自らの罪を自ら罰する事は決して謙遜でもなく、良心的な行為であるとも思いません。勿論、人は自分の過ちを認め、反省しながら自分を改めつつ未来へと進むべきでありますが、と言って、自らの弱さや罪を数えて、自分は駄目な人間だとか、生きるべき価値がない者などと思い込むような、自分の存在価値自体までを判断してしまう事が罪であります。言い変えれば、自ら命を断つという行為自体を罪というより、そのような自らの挫折ないし裁きが罪であります。これこそ神を失う行為であって、自ら神に取って代って裁き主になることであって、神の力を信頼しない心であります。

この罪以外の如何なるものも赦されます。たとえ、殺人と言う罪を犯した者さえも悔い改める機会が与えられるのであります。神の前に進み出て赦しを求め、最終的な判断は神に委ねる機会が与えられるのであります。この事を放棄したり嘲笑うのが罪であります。

先ほど自殺は二重の罪だと言いましたが、自殺は今申し上げたような罪の結果であります。命は神様から与えられたモノであって、自分の自由は決断で始末する事は人間には出来ないはずであります。つまり、自殺は神のモノを自分のモノのようにして始末する行為でありますから罪であります。

また、聖霊を侮辱する以外の如何なる罪も赦されるという神の約束があるのに、自分の罪は赦されないモノであって、また、赦されてはならないという裁きをする事が自殺と言う結果をもたらすのであります。この意味で二重の罪だと言いました。

言うもでもありませんが、人間は孤立されている存在ではありません。他人と関係の中におります。親子と言うの関係、兄弟と言う関係、夫婦と言う関係、師弟関係、友人関係などなど様々な関係の中にいます。自殺はこのような関係を決定的に破壊する行為であり、周りの人々に計り知れない悲しみと痛みを与える行為であります。

ユダは自殺をすることで、イエス・キリストによって委託された使徒としての働きを放棄しました。それで、その働きを他の人にして頂こうと言うペテロの提案が今日の箇所であります。

私たちは様々な関係の中で、様々が役割を担いつつ生きています。役割のない人は一人もありません。何の関係も持たないで全く一人であると言う人はいません。また、何の過ちをも犯さないで生きる人もいません。思い出したら、時には死んでしまうほうが益したと思うほど自分が恥ずかくなる時もあります。

今日は自殺と言う極端な例をもって色々罪の問題を申しましたが、そのような極端な例でなくとも、これからも、信仰者として、赦し主・イエス・キリストに全ての悩みや苦しみや罪を告白しつつ、赦しを求めながら、それぞれ与えられた働きを共にまっとうして行けるように願っています。