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2005年5月8日 |
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「復活の証人として」(使徒行伝1・21〜26) テーマ:私たちはキリストと共に新しく生きる者として選ばれたのである。 時:05.5.8. 於:和白教会 説教者:黄仁坤
今日は「母の日」であります。去年の母の日にもメッセージの始めに申しましたが、母の日は母として感謝される日と言うより、その由来から考えても、私たちが子供として母に感謝する日であります。今日は母に感謝しながら、また亡き母であれば、母を覚えて感謝の祈りを捧げる日となればと思います。 先週の礼拝の後も何時ものように役員会がありましたが、今年度の新しく選ばれた役員として参加した方もいました。また役員ではありませんが、代理して参加した方もいましたが、今年度の役員会の議事の進めかたとして、一寸した変化を模索しています。つまり、議論された事を出来るだけ正確に記録し、それを皆さんに知らせたいと思っています。それで、私は先週の役員会ではパソコンで発言の要旨を記録しながら、その発言者の名もそこに書き添えようとしました。 しかし、そこである役員が発言者の名は記録しないほうが良いのではないかと言ってくださいました。また、学校や会社の会議においても出席者の名は記録するものの、発言者の名は記録しないことが普通であるということも教えて下さいました。考えてみたら、それが妥当であろうと思います。つまり、何かを役員会で決定するのは、役員会の責任の下で決定であります。したがって、例え、決定によって何かの不都合や生じても、その提案者の個人の責任とはならないのであります。また、個人の責任となるのであれば、発言する事がとても難しくなるのではないかと思いました。 私たちの教会の役員会は六の委員会の委員長に牧師を加えて7人によって構成されていますが、これはそれぞれの教会の事情や伝統などによって様々な人数と形を取っているだろうと思います。また、その名称も役員や役員会、また執事や執事会などがあります。長老教会になりますと、長老と長老会となります。しかし、根本的なところにおいては皆同じであります。今日の聖書の箇所の言葉で言いますとそれぞれ名称は違っていても等しく「主の復活の証人」であります。 これもまた教会の事情などによってそれぞれ異なりますが、その役員の任期も定まっている教会が殆どであろうと思います。しかし、私たちの教会はそうではありません。お金を預かる会計責任役員以外は大抵何年間も続けて役員をしています。かなりの負担になっているはずであります。私はこれに関連して以前から申し上げていますが、何方が役員になっても良いような形になればと願っています。そうなるために、如何すべきかは皆さんも知っているはずであろうと思います。 先ほど、私たちの教会の役員の任期は定まっていないと申しましたが、より正確に言えば、教会規則8条2項の始めには「代表役員以外の役員の任期は1年とする」となっています。しかし、その後「但し、再任は妨げない」となっていますので、実際には任期の制限がないようなモノとなっています。 そして、私たち教会の役員選出の方法は教会の規則には「教会員のうちから選任する」となっています。そして、これを受けての教会細則を見れば、各員会の委員長は委員の互選によって委員長を選出するとなっています。これを総合すれば、体表役員としての牧師の選出だけは総会専権事項でありますが、他の役員は各員会が選び、総会がそれを承認するという形を取っています。しかし、これ以上の詳しいものはもっていません。色々捻って考えてみれば、不都合が生じる可能性はあろうと思います。いつかこのようなことを見直す必要があるかも知れません。 私たちの教会と違って、多くの教会の場合、役員は総会で選挙と言う形式を取っていると思います。これにも、勿論、良し悪しがあります。また、教会が大きくなりますと、役員になったり、執事や長老になるのはその個人の名誉になってきたり、社会的な地位にもなってきます。それで内心そのような役に付くのを期待するようにもなります。つまり、役員に選ばれるのを喜びます。また、その為に選挙運動までするようになります。 今、我が家にきている趙姉妹の話によりますと、韓国では殆ど教会は執事や長老も選挙で選ぶようでありますが、人数に制限がありますので、当選しない人も出るわけであります。そのような中で時には選ばれなかった事を悔やんで、他の教会に移ってしまう人もいるようであります。また、ミヒャエラによっても、ドイツでも似たような事もあるそうです。何処の国も共通の人間的な弱さをもっています。 私も選ばれなくなった時の気持は分かります。福岡地方連合の総会においてある方が私をある役員として推薦をしましたが、定期総会において選ばれませんでした。初めから推薦されなければ一番良いですが、一旦、推薦されて選挙になって落とされると確かにほっとしながらも良い気分にはなりません。 全くの妄想でありますが、「あなたしか適任者がありません。あなたが引き受けてくれなければ、この組織がつぶれてしまいます」と言われてみたいものであります。そういわれながら「忙しいので」と言いながら辞退して見たいものであります。 さて、今日の聖書の箇所はユダの自殺によって欠けた使徒を選ぶ場面であります。つまり、イエスによって12人の使徒が選ばれていましたが、ユダが死んで、11人しか残りませんでしたので、一人を補充しようとする場面であります。考えて見たら、一人補充しないで11人の使徒の体制で新しい教会を形成して行っても良さそうですが、なぜか、12人にこだわっているように見えます。これは、おそらく当時の教会の人々はイスラエルが12部族であったので、これに対応する形で12人の使徒にこだわっていただろうと思われます。 これとの関連で、更に言えば、神によって選ばれていたイスラエルと言う国に今や教会が取って代わるという意識もあっただろうと思います。 ところが、今日の箇所での使徒を選ぶ方法を私たちの今の仕来りから見れば、なかなか面白い面があります。つまり、26節を見ますと、ヨセフと人とメッテヤと言う人の二人候補としての推薦があったが、くじによってマッテヤが選ばれたと記しています。 私たちの役員会をくじで決めましょうと誰か提案すれば、私たちは笑うと思います。何年前の連盟総会で実際にあった事でありますが、その時、一旦、規則に従って選挙をしましたが、決まらず獲得票から言って、上から、二人が同数の票を得ていました。それで、ある方が、時間もないことだし、くじで決めればどうか、それが聖書的でもあると付け加えて、会場が吹き出してしまいました。結果的には二人の候補の了解があって、くじで決めたと覚えています。 確かに、聖書にはくじで神殿や教会の奉仕者を決めたことを伝えるところがあります。例えば、サムエル記上10章20節以下を見ますと「こうしてサムエルがイスラエルのすべての部族を呼び寄せた時、ベニヤミンの部族が、くじに当たった。またベニヤミンの部族をその氏族にしたがって呼び寄せた時、マテリ氏族が、くじにあたり、マテリ氏族を呼び寄せた時、キシの子サウルが、くじにあたった」と記されています。ここを見ますとこの場面においては徹底的にくじをもって人を選んでいたのを知る事ができます。この他にも随所でくじをもって人を選らんだことを伝えています。 考えて見ると教会の奉仕者を選ぶには「くじ」はそれほど不合理でないかも知れません。今の時代の会社などの組織においては徹底的に人を選ぶ時はその人の経歴や能力などを検証して選ぼうとします。 会社などの公の場面においは多数決の原理に従って投票をもって選びます。このようなものはある意味で合理主義の産物であります。またその効率性も認めざるを得ません。しかし、教会は効率や成果のみを追求するのでなく、神の名のもとでの兄弟姉妹と呼び合う共同体であります。その中での神の無条件の愛が実現されればと言う祈りをもっています。つまり、例え、能力のない人であろうとも、また、事情があって奉仕できない人であろうとも神によって呼び集められた家族であるが故に、その人をこの共同体から排除してはならないし、奉仕の機会を奪ってもならないのであります。また、教会のための奉仕には大小と言う世俗的な考え方も適用されないと思います。一つ一つが等しく大事な奉仕であって共同体を形成するのに欠かせないモノとなって行くのであります。 何年前かのメッセージで紹介した事がありますが、アメリカのある教会において実際にあったことであり、また今の何処の教会においてもありそうな事でありますが、もう一回紹介します。ある障害のある方がクリスマスイブ礼拝で自分も奉仕をしたいと申し出ました。それで講壇のロウソクに火を灯すようにと当てられました。障害のない方であれば、ロウソクに火を灯すのは、何十秒もかからないはずでありますが、その方はゆっくりと何十倍も時間を掛けてそのロウソクを灯したわけであります。灯し終わると礼拝堂に大きな拍手が起こりました。その障害者の喜びを皆が分かち合う事が出来たのであります。 話を今日の箇所に戻しますが、新しく出発をしようとする教会はユダの代わりに使徒を選ぼうとしていますが、会衆はヨセフとマッテヤと言う二人を候補として推薦しました。しかし、一人だけを選ばなければなりませんでしたが、結局、くじでマッテヤを選びました。 例え、選挙となったら、どのような事が起こっただろうかと想像を駆り立てるところであります。落とされたヨセフは自分がマッテヤより教会で信用されていないのか、また、マッテヤより劣っている者として見られているのかなどと思いつつ、間違いなく良い気分にはならなかったと思います。酷いことになるともうこの共同体には踏み止まりたくないとひそかに決心したかも知れません。選挙による人選はこのようなしこりを残す可能性が十分あります。このような結果を考慮しながら、これを回避する為に伝わっていた方法としてくじをもって一人を選らんかもしれません。 兎に角、このようにしてマッテヤが使徒として、教会の新しい指導者の一人として選ばれましたが、22節に大事な事が記されています。つまり、選ばれた者は「主の復活の証人」として選ばれたのであります。くじをもって選ぶ前にもうすでにこの事を確認しているのであります。 この事は役員や執事や長老だけに求められるのでなく、教会の一人一人の全員に当てはまることであろうと思います。なぜなら、私たち一人一人が主の復活の証人としてもうすでに神によって選ばれているからであります。教会の中での奉仕や、また教会がこの世に奉仕するのはただボランティア活動としての奉仕ではありません。復活の証人としての奉仕であります。 もう少しこの「主の復活の証人」とは何かを考えてみて話を終わりたいと思います。私たちは主の復活を使徒たちのように直接目撃してはおりません。しかし、復活を信じて生きています。と言うより復活と言う信仰がすべての生活の基盤となっています。私たちは決して復活に「ついて」理解したり、復活に「ついて」語るのでなく、復活「を」生きているのであります。言い変えれば、第三者のように客観的に復活について信じているのでなく、復活のただ中において生きるのであります。 もうすこし具体的に言いますと、私たちのキリスト者は以前の自分はキリストの死と共に葬られ、キリストの復活と共に新しく生きる者として選ばれた者であります。そのように生きることが赦されているのであります。 ですから、世俗的な生き方に止まるのでなく、また人間的な思いに止まるのでなく、イエス・キリストが示す道を歩もうとするのでありますが、イエス・キリスが示す道を歩む自体が主の復活の証人であります。私たちの色んな場面においての奉仕はこれが基盤になっているのであります。 繰り返し申しますが、人が理解できない復活を理解できるようになって、復活に「ついて」他人に説明し、納得させるのが復活の証人ではありません。復活「を」生きるのが復活の証人であります。 牧師も全く同じであります。難しそうな聖書に書かれた言語や、歴史的な知識や、または、キリストの信仰を哲学的に再構成してそれを伝えるのでなく、イエスが示した道を歩みつつ、神様の約束であり、主の言葉としての聖書を語るのが牧師であります。特別な能力があって牧師になったり、役員になったりするものではありません。誰でも、主の呼掛けを聞いて、それに対して応答し、主の復活の証人として生きようとする人がキリスト者となり、役員であり、牧師となるのであります。 これからも共に主の復活の証人として、教会に、隣人に、社会に奉仕をして行ければと願っています。 |