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2005年5月10日 |
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「虚しさのただ中でも」(伝道の書1・1〜7.12・1〜2) テーマ:人は絶望するしかないが、神に委ねる時、初めて希望を抱く事も出来る。 時:05.5.10. 於:坪根正義兄前夜式. 説教者:黄仁坤
ただ今より坪根正義さんの前夜式を執り行わせていただきます。私は司式を勤めさせていただきます当教会の牧師、黄です。式にあたり、先ず、坪根香代子夫人を初めとして、正義さんのお母様、娘さん、息子さんまた親戚の皆様に心よりお悔やみ申し上げます。また、今日と明日の前夜式、告別式は香代子さんの希望とご家族の赦しがあってキリスト教式で執り行わせていただきます。信仰の違う方もいると存じ上げておりますが、どうぞ、この事のご理解の上で協力お願い申し上げます。 私が昨日午後、坪根正義さんが危篤であると聞いて、済生会病院に駆けつけたところ、集中治療室の前で香代子夫人からもう亡くなったという知らせを聞かされました。全く言葉にならない衝撃を受け、また、坪根姉妹の悲しみや、遺族の皆さんの苦しみを思うと胸が裂けられるような心でした。 生きる事はなんとむなしいことでしょうか。何の意味があって毎日苦労し、また安らぎを求めるのでしょうか。また、何が故に、計りしれない悲しみや、苦しみや悔しさなどを前にしながら、慰めを求めるでしょうか。全くいっさいが虚しく思われて仕方がありません。 集中治療室に案内されて坪根さんに対面する事が赦されました。そして、香代子姉妹からお祈りを頼まれても、暫く何を如何祈れば良いのか、分からなかったので、ただ遺体に手を当てて暫く待ちました。生きておられる様な温もりが伝わって来ました。そうしてから、言葉にならない祈りを捧げました。 そして、一歩先に、坪根さんの自宅の前に来て、そこで遺体が病院から運ばれるのを待とうとしましたが、もう、すでに、駆けつけてくださった親戚が家の前で待っておられました。また後には、坪根さんと共に仕事をしていた同僚がお見えになりました。それで、私もその方から始めてもう少し詳しく聞くことが出来ました。その方の話によりますと、正義さんは天神で仕事をなさっていたが、13時ごろ倒れたそうですが、その時もうすでに意識はなかったそうです。 「今日一日も頑張ろう」と言う気持ちで共に仕事を始めたはずであります。しかし、今や一人は遺体となって自宅に帰ろうとしていました。また、一人はそれを待つということになっていたのでありました。 わたし達も坪根さんの亡骸を前にして計りしれない虚しさに捕らわれていますが、その方も言葉にならない虚しさに捕らわれていただろうと察します。 私が自宅の前で待っている間、坪根さんの生前の姿が思い浮かんで来て仕方がありませんでした。同時に、今日の朝の様子も想像されました。 このようにこの教会と坪根さんの自宅は近いので、私も時々、坪根さんを自宅の前で伺う事がありました。ある朝でしたが、丁度、主人が出勤しようとする所、道まで出て香代子姉妹が見送っていたところでありました。最近はあまり見られない風景だなと思いながら、夫妻に会釈をして通り過ぎたことがあります。後日、香代子姉妹に主人を毎日そのように見送っているのかと尋ねると、恥ずかしそうな顔をしながら、「そうだ」と言っていました。 昨日も、何時ものように、そのような姿で一人は見送り、一人は見送られたはずであります。そして「ただ今」、「お帰り」と言う言葉と共に一日が終わるはずでありました。しかし、今や、一人は遺体となって一人は遺体を付き添うという形で家に帰って来たのでありました。 さて、先ほど読ませていただいた御言葉の箇所でありますが、ここを見ても人生は全く虚しい、空であると言っています。この言葉はエルサレムの王、つまり、イスラエル王であったソロモンによるものであります。ソロモン王と言えば、イスラエルがもっとも盛んでいた時の王でありました。それで他の記録などを見てもソロモン王は栄華を極めた人であると記されています。もっとも栄えていた時のイスラエルの王でありましたから、正に王の中で王でありました。彼は何でも手に入れたい物があれば、例え、それが人の命であろうとも、人の物であろうとも何でも手に入れる事が出来たひとでありました。ソロモンほど美しい服を着た者はいませんでした。彼ほど大きな宮殿で暮らした人はいませんでした。 しかし、彼の心から湧き出る言葉はいっさいが空であるという言葉でありました。これは人生は虚しいという叫びであります。何の為に生きているのか、なんの為に苦労をし、なんの為にそのような心や肉体的な苦痛に耐え忍ぶか分からないと言う絶句でありました。これが栄華を極め、権力の頂点に立っていたソロモン声であります。 更に、わたし達の信仰者の取っては驚くことでありますが、これは神を信じると自負し、喜びつつ生きているはずの信仰者の言葉でもあります。今日の箇所の始めに「伝道者」と言う言葉が記されていますが、これは簡単に言えば、信仰者と言う意味でもあります。 ですから、この言葉は信仰のない人が、人生に対して悟って見たら、すべて空であったという意味でなく、神を信頼している信仰者として見てもこの世は空であり、虚しいものであるという絶句であります。 確かにそうであります。幾ら信仰に基づいて命は神の手によって造られたモノであり、また、イエス・キリストによって私たちには復活と永遠の命が約束されているモノであると言っても、自分の主人や妻が亡くなったり、子供がなくなったり、お父さんが亡くなったりすると私たちの心は絶望するしかないものであります。文字通り望みが絶たされたところに突き落とされるのであります。 幾ら信仰者であっても「神様、あなたのこの業は何のためでありますか。もう私はこの悲しみや、苦しみに耐え切ることは出来ません。また生きることに最早意味を見出す事が出来ませんので、いい加減に私の命をも収めてください。今はそれだけがあなたに対しての願いです」と叫びたくなるのであります。 この聖書の箇所の始めは正にこのようなソロモンの心境が語られています。これは彼の経験に基づいての言葉であろうと思います。ただ頭だけで作り出した言葉ではないと思います。ですから、私たちの心に届く言葉となっているのであります。 しかし、彼はこの言葉だけに止まっておりませんでした。最後においては「造り主」を求めるようになるのであります。それだけでなく、造り主を求めるように私たちにも勧めているのであります。 つまり、今、申し上げている伝道の書は12章からなっている書物でありますが、今まで申し上げたように、始めの一章辺りは生きる事は大変虚しいことであると言う内容になっています。 今日は時間の都合上、一章と最後のところだけを申し上げるしかありませんが。その間に挟まれた内容を大まかに言えば、何事にも時があるなどの話があったり、知恵ある言葉や行動を勧めたりするような内容に代わって行きます。そして、プログラムに書き記しましたように、終りの辺りの12章になりますと、「神を求めよ」と言う言葉に代わって来ます。信仰者も生活の中で絶望をする時があります。また、神を見失う時もあります。しかし、虚しさや挫折に止まることなく、再び神に求めるようになると言うメッセージでもあります。 ここが信仰者の姿であろうと思います。つまり、信仰者であろうとも信仰者でない方であろうとも共に生きる事が虚しくなって、生きる事は空であると叫んでみたり、愛するものをなくしては絶望したりします。また、信仰者の場合、そのような神の業は何のためであるかと分からなくなったりします。にもかかわらず、信仰者は「神に求めよう」と立ち返るのであります。 信仰者だと言って、本人の死が怖くないとか、愛する者と死に分かれても悲しくないと言う事はありえません。等しく挫折するのであります。でも、神に委ね、また神において希望を抱くのであります。なぜなら、この世の見えるモノは徹底的に消え去って行くものであり、風のように移り変わるからであります。見えるモノだけに希望を置くとその見えるモノがいなくなる共に、希望もなくなってしまう事を知っているからであります。 皆さんもご存知である方が多いと思いますが、坪根姉妹は家庭の中でも、また、他の社会活動においても大変熱心でありますが、何より信仰熱心な方であります。最も多く教会の掃除をする方であります。また、他の奉仕も喜びをもってしている方であります。最も熱心に祈りを捧げる方であります。これは神を求める信仰があって、それが形として現れるからなせる業であると思います。また、ご主人の為にも、家族の為にもいつも祈っておられるかたであります。 私は牧師を勤めさせていただいている関係で、時々夫婦の中で一方だけがキリスト者である家庭の事を気に留めていますが、坪根姉妹にも何回か主人は姉妹が教会にそれほど熱心であることを理解しているのかと尋ねました。始めは少しの不満もあったようでありますが、後に信仰生活を理解し、また協力をもしてくださっていると聞きました。それを聞くたびにわたしは積極的に反対しないだけでも感謝すべきでありますと申し上げてきました。これは私が勝手に申し上げているのでなく、聖書にも示されている事であります。 明日、この事についてもう少し詳しく申し上げたいと思いますが、「誰でもキリストについている者だと言うので、水一杯でも飲ませてくれる者は決して報いにもれる事はないと」と記されています。これは私たちが信じて、また、聞き従うイエス・キリストの約束でありますが、坪根正義さんは水一杯どころでなく多くの事で香代子夫人を通して教会に協力してくださったとそのように信じています。 もう一つ紹介しますが、とても坪根さんは手が器用な方だそうです。それで今の職にもついているとも思いますが、何年か前に、私がこの教会の牧師になる前でありますが、教会のドアーが故障した時、教会まで来られてそれを修理してくださった事があると聞きました。どこかで心に教会を受け入れたからそれが出来たと信じています。 これも坪根さんからお聞きした事でありますが、正義さんはとても正直な方であったそうです。もともと営業職についていたそうですが、全く正直に生きたいと言う希望があって今の技術職についたそうです。人柄を伺わせるような事であると思います。賑やかに神を求めなくとも神が喜ぶ道を歩もうと常に心掛けていた方であろうと信じています。 最後に下の段の始めの言葉「あなたは若い日に」と言う言葉を共に少し考えていただいてメッセージを終わらせていただきたいですが、人は誰でも時には強くなり、時には弱くなります。変わらなく強い人はいません。また変わらなく弱い人もいません。特に若い時は自分の力で生きる事ができるように思ってしまうのであります。 このような事を踏まえて、今日の箇所は「あなたは若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と諭していると思います。ソロモン王は一生の間、あらゆる栄華を謳歌しながら過ごしてきましたが、今、自分の一生を顧みると若い人々に語りたい言葉がこれであったと思います。ここに道があり希望があると信じているからこう語っているのであります。目に見えるモノでなく、目に見えない神を求めよと言っているのであります。 正義さんはこの若さで亡くなりましが、決して不幸な人生ではなかったと信じています。若い時から先ほどから申し上げているように心のどこかで神を受け入れつつ、またそれほど献身的で、祈りに熱心な奥様にささえられながらこの地上の旅を終える事が出来たからであります。娘さんと息子さんにそれほど尊敬されながら、また愛されながらこの地上での旅を終える事が出来たからであります。そして、今や神の御許で安らぎを得ていると信じているからであります。アーメン。 |