| 2005年7月17日 |
| 「復活を語るのが罪であろうか」(使徒4・1〜4) テーマ:イエスの復活は死の束縛から自由にされた証である。 時:05.7.17. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 明日は「海の日」でありますが、私たちの教会の礼拝堂ではこの休日を利用して「福岡アシュラム」が行われます。アシュラムとはインド語で「仕事から離れて」という意味だそうです。日常から離れて神様の言葉を静かに聴こうと言う運動が「アシュラム」でありますが、私も参加させて頂こうと思っています。 この間、我が家で共に暮らしているミンキョンさんに、「お中元」とは何であるかと聞かれて、辞書を引いてみますと「7月15日の佳節。半年生存の無事を祝い、盂蘭盆の行事をし、亡霊に供養をする」と記されていました。私が引いたのは電子辞書でありましたが、親切にも画面の下には「盂蘭盆」についてまで説明されていました。「ウラボン」とは梵語で「逆さ吊りの苦しみ」の意味だそうですが、他にイラン語系の「霊魂」の意味だという説もあるそうです。 このような辞書的な解釈だけでなく、生活の感覚から考えても盂蘭盆とは、「祖霊の死後の苦しみの世界から救済するための仏事」として理解されているようであります。今が丁度盂蘭盆の時期でありますが、近くのスパーに行って見れば、仏壇に供えるためのカラフルなお菓子が前方に並べられています。また仏壇のそばに立てる照らすための提灯のようなものが目立つところに置かれています。 今、申し上げましたように辞書の説明などから考えれば、日本の文化は死後の世界をどうやら苦しみとして受け止めているようであります。それを生きている人間が供養をしなければならないと思っているようであります。確かに人間の死は悲しみでありますが、苦しみでも不浄な出来事でもないと思います。 今年に入って何故か例年より教会員の家族が多く亡くなりました。それで私もその度に葬儀に参列させていただいていますが、葬儀に行きますと如何しても「生きるとは何か、死ぬとは何か」を問わざるを得ません。そのようなこと考えても分かる筈がないから「余計なことだ」と言う人もいるかもしれませんが、「生きること、死ぬこと」を問うのは決して余計な事ではありません。なぜなら、死をどのように受け止めるかはその人の生き方に関わる問題であるからであります。 私たちは信仰によって生まれる以前も、生きている間も、そして、死の後も神様が共にしてくださる事を知っています。しかし、信仰のない方にとっては生きている間がすべてであります。ですから、死ぬということはすべてを失うことであり、死ぬことはまったく敗北となるのであります。 繰り返しになりますが、私たちの信仰者は目に見える今がすべてでなく、目に見えない生まれる以前も、死の後も神が支配する時があることを知っています。それで死ぬことは悲しいことであるが、終わりでもなく、敗北でもなく、神のわざとしての出来事であると告白するのであります。この信仰に生きるのは幸いであります。決して絶望することなく、死ぬことにおいてまで希望を抱くことが許されるからであります。 これは人間がそのような考え方によって生きるのが益になるから「そう考えよう」と意図して得た結論ではありません。イエス・キリストが十字架の上で死んで葬られ、三日後に復活をなさった事実から与えられた真理であります。言い換えれば、イエス・キリストの復活によって死の向こうはまったくの暗黒でもなく、まったく何もないところでもないという事が証明されたのであります。これを信じる者はキリスト共に永遠に生きるのが許されるのであります。 さて、今日の聖書の箇所はペテロとヨハネのメッセージが中断された場面であります。メッセージといっても私たちが毎週、捧げている礼拝の中でのメッセージのようでなく、人々が行き交う神殿の廊下に立ってメッセージをしていたところでありました。今風に言えば、路傍伝道をしているところでありました。 私は牧師になって路傍伝道に出かけた事はありませんが、神学生の時、何回かやったことがあります。行き交う人々に語ることでありますから、ゆっくり座って聞いていただくような時とは当然語り方が違います。例えば、私たちが町で時々目撃するように、政治家などが何かを道端で訴える時、自分の名前と最も大事にしているキャチフレーズを繰り返すようになるのであります。このような事を考えますと今日の聖書の箇所でのペテロとヨハネは「イエスの復活」を繰り返し語っていただろうと思います。 今の時代においてもメッセージの基盤は復活の証であります。これだけはまったく変わりません。後にもう少し申しますがこれが教会の存続の理由でもあります。この復活は彼らの経験でありますので、とても説得力のある口調になっていただろうと思います。 また、彼らは先週も申し上げましたようにもうすでに障害を持っていた人を癒し歩かせたことで、有名人になっていましたので、ある人々は彼らの周囲に座って話を聞いていただろうと想像されます。 その中で、ある人は彼らの言葉を聞き入れ悔い改めたでしょう。また、キリスト者になるとまで言わなくとも不思議な言葉として心に受け止めた方もいたと思います。そして、笑いながら通り過ぎた人もいただろうと思います。 このように様々な反応があったはずでありますが、今日の箇所は祭司と宮守り、サドカイ人は二人の言葉に我慢できずに捕らえに来たことを伝えています。それで話が中断されたのであります。 分かりやすく言えば、祭司たちが神殿警備隊を連れてきて語っている最中の二人を逮捕したのであります。ここに示されているサドカイ人についてもう少し申し上げなければなりませんが、彼らユダヤ教の一派でありました。 このサドカイ派はパリサイ派と共にユダヤ教の有力は一派でありましたが、彼らの信仰の中味はかなり現代人に似ているのではないかと思われます。彼らは人の魂は肉体の死と共になくなると言ったそうです。それで当然復活も、霊の存在も認めないで、人の意志の自由を尊重していたそうです。そして、彼らには成文としてのモーセの律法だけを認めていました。合理主義で生きる人々の考え方を思わせるような内容となっています。 そのような信仰でありましたので、ペテロとヨハネがイエス・キリストの復活を語るのが自分たちの信仰を野次っているように思われたようであります。それで祭司らと共にペテロとヨハネの語りを止めさせようとして駆けつけて来たのであります。彼らにとってはペテロとヨハネは危険な思想ないし信仰を語る者であるから捕らえておく必要があったわけであります。 如何でしょうか、復活は人々から知恵や理性を奪うモノでありましょうか。合理的な思考能力を麻痺させるものでありましょうか。決してそうではありません。 例え、私たちが観念の上で復活を信じることが出来なくとも、事実として復活という事件は起こりましたが、この復活は人々を自由にさせるものであります。この復活は神様が人々に死の後の世界が存在する事を示した事件であります。復活は人々に死の不自由から生きる自由をえさせるための神様の業であります。 復活を知らない人にとっては、自分の肉なる体は思考や希望の牢屋であります。自分の知識や経験はそのまま限界となるのであります。その思考と希望は体から一歩も外に出ることが出来ずに、死と共に葬られるからであります。ところが、多くの人々は自分の肉の牢屋に閉じ込められていながら自分は自由な人だと言い張っているのであります。 教会はそのようなこの世に向かって復活を語るのを使命としています。復活を語ることによって如何なる苦難が訪れても決して止めようとしないのであります。なぜなら、教会が復活を語らないのであればもはや教会ではないからであります。この使命のために多くの教会は迫害を受け、キリスト者は投獄されてきました。今日の箇所のペテロとヨハネがそうでありますし、ご存知のようにパウロも度々投獄されながらも、彼は牢屋から出してくれと叫ぶよりは、自分を捕らえ投獄した人々に向かって神が与える自由と喜びを伝え、神と共に歩む自由を受け取るように叫んだのであります。それを多く書き残して今の私たちの聖書の一部となって、私たちの心の糧になっているのであります。 因みに申しますが、復活はキリスト教の倫理の根拠だと私は思っています。死んですべてが終わりだとすれば、手段方法を選ばずこの世を楽しく過ごすべきであります。この世の快楽を遺憾なく楽しんで死を迎えるべきであります。 しかし、私たちの信仰者はいつか復活され神の前に立たされるべき者でもあります。それが故に、神が善とするところに聞き従いながら生きるのであります。復活は決してこの世にとっても危険な思想でもなく、信仰でもありません。 北朝鮮の政治犯収容所から脱出したある人が記者会見の場で述べた言葉を覚えていますが、彼は北朝鮮全体が一つ大きな牢屋であると言っていました。一つの思想だけを認め、他の思想を拒むことを彼はそのように皮肉ったわけでありますが、北朝鮮が良い例でありますが、思想や考え方によって人は幾らでも不自由にされるのであります。 殆どの現代社会や国家には思想統制はありません。しかし、人間が自ら築き上げた知識、理性や経験によって人は自らを縛り上げたのでないかと思います。つまり、発達して科学的な知識が人を自由にさせてくれると思い上がり、神を追い出してしまったのであります。さらに、人はお金とモノさえあれば、自由になると思い込むようになり、その結果、人間は自ら死んでいくものとなったのではないでしょうか。 復活を語るのが危険でなく、復活を語らせないのが人間にとって危険であります。復活を語らせないのが人々を不自由にさせ、神が示した希望への道を遮るのであります。 最後に今日の箇所の4節を見て話を終わりたいと思います。ペテロとヨハネは囚われても彼らの話を聞いて信じた人々が5千にもなったと記しています。これを見てもわかりますように、教会は迫害をされながら成長してきました。苦難の中で成長してきたのであります。 考えてみたら、復活を語ることを使命とする私たちの教会にとって今が昔のような思想統制のあった時代より厳しい時かも知れません。昔のように思想統制があったり、復活を語るのを禁止したりすれば、自ずと抵抗すべき目標が定まりますが、今はそのようなモノがなく何の制限もないように思われます。 しかし、教会を取り巻くこの世の思想は復活を認めようとしません。またイエス・キリストの復活を事実でなく、ただ一つの思想として格下げしようとしたりするのであります。これは外からだけでなく、教会の内部からもあります。私たちの心も時にはそのような内外の流れに飲み込まれそうになり、復活を語るのに控え目になったりするのであります。 このようなことを考えますと今が教会にとってより大きな苦難の時であります。このような苦難を教会の成長のチャンスと捕らえることが出来ればと願います。これからも互いに復活信仰に確り立って共に歩みたいと祈っています。 |