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2005年7月31日 |
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「神の前に正しい」(使徒行伝4・13〜22) テーマ:神の前で正しい人には神以外に恐れる事はない。 時:05.7.31. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 昨日は夏期学校がありました。3時から始まりましたが、2時40分位には申し込んで いた殆どの子供が集まっていました。子供たちが夏期学校を楽しみにしていて、心を 弾ませながら早めに来てくれた事を思うととても嬉しかったです。 昨日は33名の子供が来てくれましたが、勿論、人数が多いから良いとは限りません が、ある教会の方に私たちの夏期学校に集まる人数を言いますととても羨ましいと 言っていました。また、毎年、続けてきてくれる子供が多いですが、このような事を 考えますと毎年の夏期学校のプログラムが子供たちにとても魅力的なものになってい ること、そして、教会の皆さんが子供たちを心から大事にしていることが子供たちに も伝わっているから毎年多くの子供たちが集まるのでないかと思います。いつも真剣 に悩み、話し合ってプルグラムを考えたり、準備をしてくださる方々に感謝します。 神様が決して忘れることなく何倍も祝福してくださると信じています。 今年の夏期学校のテーマは「イエスに似せられて」でありましたが、このテーマに合 わせて選んだと思いますが、テーマソングは「栄光から栄光」という賛美歌でありま した。昨日ふと子供たちとこのテーマソングを歌いながら少し考えさせられました。 作詞、作曲は不詳でありますが、どのような心で作詞をしただろうかと思ってみたわ けであります。短いので全部を紹介しますが、「栄光から栄光へと私を変えて、栄光 から栄光へと私を変えてくださる。主と同じすがたに変えられるまで、主はわたしを 変えてくださる」と歌詞であります。 全部が良く吟味すべき歌詞だと思いますが、特に注目されるところは最後の「主はわ たしを変えてくださる」というところでありました。まったく、キリスト教的発想で あります。キリスト者の告白に相応しいと思いました。つまり、自分が自分を変える のでなく、主がわたしを変えてくださると告白しているのであります。 人々は自分を変えようと努力します。そのために時間的、経済的な投資をもします。 例えば、体力が弱い人はスポーツジムに行って筋肉トレーニングをします。また、外 国語を取得して自分に付加価値をつけようとして留学に行ったり、高い授業料を払っ て英会話の塾に行ったりもします。時には自分の性格を変えたいと言う事で、人の前 でスピーチをする練習をしたりもします。勿論、そのような努力は必要なものであり ます。無駄なことではありません。確かに努力すればその分だけの結果も得られると 思います。 しかし、人は決定的に、本質的に自分を変えたいのであれば、主を信じて、主によっ て変えられたいと祈るべきであります。言い換えれば、神を信頼し、自分を神にゆだ ねることによって変えられるのを期待すべきであります。 人が自らの努力によって自らを変える事が出来るでしょうか。つまり、臆病者が自ら の努力によって強靭な性格の持ち主となるでしょうか。傲慢の性格が自らの努力に よって謙遜になることが出来るでしょうか。 力関係を考えながら、また予想される混乱を避けるために、一時的にそれを隠したり する事は出来るかもしれませんが、わたしの経験から申しますが、わたしは自分の努 力によっては性格のような本質的な部分は変わらないと思っています。自らが自らを 変えようとすることを喩えで言えば、コップの中の水が一人で変えようとする事と似 ていると思います。コップの中の水が変わるためには人間がその水を溢して、他の水 を入れるか、塩や砂糖のような他の物質を入れなければ他の水にはならないのであり ます。これも自分の経験からでありますが、自らを変えようとする事は大変疲れま す。ただ挫折を繰り返すだけであります。それでなく神様に私を変えてくださいとお 願いをするのは何と楽でしょう。神によって変えられたいと願う者は幸いでありま す。 さて、今日の聖書の箇所も先週に続いて、ペテロとヨハネとが大祭司の前で尋問を受 けているところであります。ところが、ここを見ますと、ペテロとヨハネは十字架に よってまったく変えられた事を知ることが出来ます。自らを変えたのでなく「変えら れた」と言わざるを得ません。なぜなら、自ら復活という出来事に接近したのでな く、彼らに復活のイエスが訪れて下さったからであります。イエスの十字架の上での 死と復活との出会いがあって彼らはまったく変わった人となっている事を聖書は物 語っています。 あまりも有名な箇所でありますが、ペテロは今日の聖書の箇所と同じところでイエス を否めました。それがたった何ヶ月前であります。兵卒から、女性から「貴方はイエ スの弟子である」と言われて「その人を知らない」と言いながらイエスを罵ったので あります。 しかし、今日の箇所では兵卒や女性ではありません。この世的な言い方であります が、そのような方よりはるかに高い地位についていて、はるかに多くの権限を持って いる大祭司らが尋ねているのに、まったく恐れずに、「イエスの名以外は知らない」 と言っているのであります。イエスの名を知った今は彼以外の人々に従うわけには行 かないと言い放つのであります。まったく別の人格の人のようになっています。彼ら は人を恐れる者から神を恐れる者と変えられているのであります。 私は時々キリスト者でない方にこのような話をしています。つまり、人が一生を送る のに何より大事なのは「観」であると言っています。人生観、結婚観、国家観、歴史 観、世界観、倫理観など様々な言葉にこの「観」をつけることが出来ますが、この 「観」とは他の言い方をすれば「視点」であります。どの視点に立って対象を見るか ということであります。当たり前でありますが、この視点が可笑しくなると結論もま た可笑しくなるのであります。ボタンを閉める時の初めてのボタンのようなものがこ の「観」であります。 ところが、「人生とは何だ」「結婚とは何だ」悩んだ末、私は「人生」を、「結婚」 をこのような視点から考えると言うことになると、人生と結婚とに一貫性のない視点 になってしまうこともあります。勿論、一々そのような面倒が事を考える必要はない と言いながら生きているという人もいると思います。というよりそのような人が多い かも知れません。 以前の私はそれぞれの本を読みながら、いろんな事を考えましたが、今はいつも戻る ところは聖書であります。聖書からそのような様々な視点を求めているのでありま す。 すべてのことにおいて絶対的な視点をもうすでに確保して生きるつもりではありま せんが、私はイエス・キリストにその答えを求めつつ生きる姿勢は神様が善とするこ とであると信じています。また、それが私にから迷いを取り除いて下さっています。 話が逸れましたが、申し上げたいことはキリスト者にはこの「観」がすでに与えられ ています。つまり、イエス・キリストであれば、今、この状況をどのような視点で語 り、どの視点で行動するだろうかをまず聞くのであります。自ら悩んで視点を設定し て語り、行動するのでなく、イエスであればと訊ねるのであります。 ペテロとヨハネは十字架でのイエスの死と復活という視点が与えられ、今日の箇所で はまったく数ヶ月前の彼らとは別人のようになっています。 ヤクザの世界から改心し、キリスト者となって「ミッションバラバ」という伝道チー ムを結成した方々がいました。その経緯がまた、「親分はイエス様」という映画にも なって話題を呼んだことがあります。「親分はイエス様」というタイトルは見方に よっては大変品のないことばであります。もう一寸高尚な言い方もあるはずでありま す。例えば「イエスに従おう」とか「イエスが王」などとしてもよさそうですが、 生々しい「親分」という言葉をタイトルになっています。 彼らには「親分はイエス様」という言い方が実感と共に沸いてくる言葉であったよう であります。彼らは若い時からその世界で生きていた人々でありました。それで親分 とはどのような存在であるか体を持って知っているはずであります。この世の誰が何 と言おうとも親分に従うのが彼らにとって生きる道であり、正しいことでありまし た。そのような彼らに、悔い改めによって、イエスに従うのが正しいということが示 されたわけであります。 しかし、改心によっていきなり今までの生活と関係ない所から言葉与がえられるはず がありません。それで今までの生活の言葉に基づいて、そのようなタイトルになった のであろうと思います。言い換えれば、自分たちの生活の場から与えられる素直な言 葉が「親分はイエス様」であったわけであります。 自分を変えたいと言う事で今までなかった機能を習得したり、今までない言葉を自分 の生活とは関係ないところから取り入れる必要はありません。問題はイエス・キリス トの名によって考え、語り、行動する事が大事であります。それが自ずと人を変える のであります。それによって力が与えられるのであります。それが信仰者の特権であ ります。 話を今日の場面に戻しますが、いま、大祭司らはペテロとヨハネがまったくイエスを 語り、イエスに聞き従う姿勢を崩そうとしないことで困惑しています。また、目の前 にはペテロとヨハネによって癒された人が証人として立っています。多くの人々がそ れを目撃したから、そのような事実を打つ消すことが出来ないから困っています。そ れで彼らはペテロとヨハネを脅かしてこれ以上イエスを語り伝えるのを止めるように 言いますが、それでも二人はその危機から逃れようとしないでますます大祭司らに反 論してくるのでありました。 ペテロとヨハネは依然として無学な人としての言葉を持って大祭司の前で自分とイエ スを弁護しているのであります。依然として、神学的な知識や優れた言葉でなく、自 分の内面から湧き出る素直な言葉を持って答えていたと思います。その言葉に力があ りました。それは大祭司も否めない話であって、大祭司のような専門的な教育を受け た人であろうとも封じ込めない話となっていました。 彼らはもうすでに大祭司らを恐れることなく、また自分たちの思いによって迷うこと なく、「神に聞き従うよりもあなた方に聞き従う方が、神の前に正しいかどうか判断 してもらいたい。私たちとしては自分の見たこと聞いた事を語らないわけにはいかな い」というのでありました。 この世には様々が優れた言葉があります。価値観があります。主義主張があります。 皆聞くとそれらしく聞こえ、人々は耳を傾けたり、またそのような思想や考え方に一 生を投じようと決心したり、ある人格者に聞き従おうとします。中には信じる事の出 来るモノは自分だけであると言う人もいます。しかし、これらは神が善とするところ でなく、人が善とするところではないでしょうか。 今日のヨハネとペテロには以前のような恐れや迷いはなく、まったく動じない信仰者 となっています。その内面から湧き出る力が今日の議会に漲っています。これに困惑 してしまった大祭司は、どの様な結論を出せば良いか分からずに、ただ二回も脅かし て、釈放の決定をせざるを得なくなりました。今日の聖書の箇所はその様子をよく伝 えているのであります。これからも共にペテロとヨハネのような主に聞き従う信仰者 でありたいと祈っています。 |