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2005年8月21日 |
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「富と信仰」(使徒行伝4・32〜37) テーマ:この世は富を語り、主の体なる教会は信仰を語る。 時:05.8.21. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 皆さんのお許しがあって二週間近く休暇を頂く事が出来ました。今度の休暇を利用し 主に見たかったのはいわゆるナチによるユダヤ人のホロコーストと関わる所でありま した。私たちは初めに観光を兼ねてプラハのユダヤ人の地区を見ました。ユダヤ人地 区はチェッコだけにあったのでなく、ヨーロッパに散在していましたが、その中で一 つを見たわけであります。その後、アウシュビッツがあるポーランドに行きました。 このアウシュビッツについては言葉で語りきれないところでありますが、でも、機会 がある度に申し上げたいと思っています。 最後にドイツのベルリンへ行きました。ベルリンで私たちを案内してくださった方は 私たちに「自分たちの歴史に関心を持ってくれることに、有難うございます」と言っ ていました。とても心に響く挨拶でありました。 ヨーロッパには一週間いましたが、残りの五日間は韓国の故郷で過ごしました。三十 年ぶりの親戚の家も訪ねました。 親戚と昔話などをしながら、色々思い起こしてみました。30年前は私の家の経済事情 はかなり良いほうでありました。多くの人々が経済的に苦しんでいた時であって、食 べ物にも困っていた時でありましたが、我が家はかなり余裕のある生活でありまし た。ところが、親が事業に失敗をし、ある時を境にして経済的に大変苦しくなりまし た。まったく不自由のない生活から、突然、学校の授業料にも困った生活になってし まいました。その時の苦労は忘れられません。今も親戚や兄弟に会いますと如何して もその時の苦労話で盛り上ります。その時、母親が賢く遣り繰りしなかったら間違い ないなく、私や兄弟たちは学校を続ける事が出来なかったと思います。 今はその時の経験が私に良い糧になっていると思います。自分が選んだわけではあり ませんが、私はまったく経済的な苦しみも、豊かさも早く味わう事が出来たわけであ ります。その苦労話の中で、一つだけ具体的な事を申しますが、我が家は多額のお金 を農協から借りていましたが、お金を返す事が出来ずに、強制執行を受けた事があり ます。ある土曜日、学校から帰って見ると家の家財がすべて道端に出されていまし た。お金はまったくなく、いきなりその夜を過ごすところさえもない一家になってし まいました。 何日間は村の人々の家で過ごし、何とか小さい家を借りて少しの家財だけを持って 引っ越すことが出来ました。その間も私や兄弟は学校を休まず、普通に振舞うことが 出来ました。今、考えれば、どのようにそのようなことが出来たか不思議でありま す。親が落ち着いていたので私たちも落ち込むことなく、何とか乗り越えたのではな いかと思います。 強制執行された時の事でありますが、先ほど申し上げたように村の人々は私たちに寝 るところと食事を用意して下さいました。 しかし、そのようは情に溢れる人々がいただけではありませんでした。その家財が外 に置かれている間、多くの物を盗まれました。お米を盗んでいく人もいましたし、貴 重品やお金になりそうなものを持っていく人もいました。幼い時の気持ちでありまし たが、この世は残酷だなとも思いました。この世にはこのように天使と悪魔が入り混 じっているところであります。 ところが、今、私も貧乏を時代の一つの出来事を懐かしく語っていますが、貧しい事 は確かに辛い事でありますが、恥ずかしいことではないと信じています。この間もそ うでしたが、私と兄弟が会えば、よくその時の事を思い出して懐かしく語る事が出来 るのであります。本当に恥ずかしいことであったら、それほど簡単に懐かしく語り合 う事は出来ないはずであります。 さて、今日の聖書の箇所は初代教会が金銭にどのような態度を取っていたのかを語っ ているところであります。この箇所を通して私たち、キリスト者の金銭に対しての態 度や献金に対しての姿勢を考えて見ることが出来ればと思います。 話を始める前に一つ確認したいことでありますが、今日の箇所の話とほぼ同じ話が 二ヶ月位の前にもありました。つまり、使徒行伝2章43節以下でありますが、45節を 見ますと信者たちは教会の中で、自分の「資産や持ち物を売っては、必要に応じて皆 の者に分け合った」と記されています。このように繰り返して使徒行伝が語るのを見 ると、初代教会にとってこのことはとても重要なことであって、善とされたことで あったと思います。 ところが、このような金銭や物質に対しての姿勢は初代教会だけモノではありませ ん。イエス・キリストも繰り返しこの事を言っていました。最も今日の箇所のテーマ に一致する箇所を一箇所だけを申しますが、マタイ福音書6章24節を見ますと「だれ も、二人の主人に兼ねて使えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるい は、一方を親しんで他方をうとんじるからである。あなた方は、富と神とに兼ねて使 えることはできない」記されています。このようなイエスの教えを受けて初代教会は 今日の箇所が示しているような姿勢で共同生活をしていただろうと思います。 ところが、物質から超越して最も人間らしく生きてみたいと言う願望は誰の心にもあ るのではないかと思います。キリスト教の歴史を見ても多くの修道者が一人で、また は共同で物質から超越した生活をしながら、神のみが与えうる平安の中で生活をしよ うとした例は幾らでもあります。言い換えれば、キリスト教の歴史には徹底的な禁欲 生活をしていた修道院や修道僧の例は数多くあります。キリスト教の歴史だけでな く、仏教の歴史を見てもそのような僧侶は数え切れないほどいると思います。兎に 角、東西古今を問わず、人の心には物質から自由になってと言うか、物質に拘らない 生活を憧れるところがあります。物質は人の心を蝕む働きがあると多かれ少なかれ 思っているのであります。 一方、人はまた他人との競争ないし比較しながら、人より上に立ちたい、他人より多 くのモノを持ちたいと言う強い願望も持っています。このように私たちの心には両立 できない心を併せ持っているのであります。葛藤する哀れな存在であります。 心を静かにしているとこのように物質に対して葛藤する自分を見る事が出来ますが、 殆どの人は他人との競争と比較に生きる、それしか人間には道がないと割り切ってい るのではないでしょうか。それで多くのモノを確保しようと走り回っているのであり ます。人との比較の中で優越感を、幸せを覚えようとするのであります。これが今の 世の中であります。集めても、集めても決して飽きる事を知らない文字通り修羅場に なっているのが今の世の中であります。 このような中に身をおいている私たちでありますが、神様は私たちを選び、今日の箇 所のような言葉を語ってくださるのであります。神の言葉に耳を傾けるものは幸いで あります。神の言葉に真の平安があるからであります。神の言葉に聞き従うもの幸い であります。それが生きる道であるからであります。 今日の箇所とほぼ同じ内容になっている2章43節以下の箇所をもってこの間、メッ セージをした時も申し上げましたが、キリスト教は決して共産主義のような共同体を この世に実現しようとしていません。それよりあけ合う心をもって生きる共同体、ま たは、ものによって支配されるのでなく、神が支配する共同体を目指しているのであ ります。それが教会であります。また、教会はこの世が一つの教会でありたいと言う 祈りをももっているのであります。 物質が私たちの主人になってはなりません。物資はあくまで私たちが支配をし、管理 すべきものであって、私たちが従うべきものではありません。 このように言いますと誰でもこの話に同意するだろうと思います。殆どの人はこれを 否定しないのであります。しかし、実際の生活は如何でしょうか。 つまり、人々が、最も大事にしていて、最も恐れているのは何でしょうか。お金で しょうか、神様でしょうか。勿論、信仰のない方は「神より自分だ」と言うでしょ う。また、キリスト者の中では「お金も神様も大事」と言う方もいるかも知れませ ん。様々な答えがあると思います。しかし、先ほど紹介した箇所でイエスは「神様も お金も最も大事だ」とは言えないものだと言っていました。 要するに、最も大事しているモノがその人にとって神であります。お金を最も大事に し、お金を最も恐れるのであれば、その人にとってはお金が神であります。それでお 金に従う者となるのであります。お金に支配されてはならないと言いながら実際には お金に支配されるのであります。 お金だけでなく、例えば、自分にとって夫がこの世で一番大事であると言うのであれ ば、実際の生活においては夫がその人にとって神となっているはずであります。子供 が最も大事と言うのであれば、子供が、女房が最も大事と言うのであれば、女房が神 になっている生活であると言えると思います。 誤解がないように申しますが、お金は大事でない、夫は、子供は大事でないと言う話 では決してありません。如何なる人より、如何なる物より、神が大事であって、神に 従うべきであって、そうでないと神に聞き従うと言いながら、実際の生活においては 最も大事にしている金や人にしたがってしまう恐れがあると言う話を申し上げている のであります。 この世にはお金が最も大事であって恐れるべきものであるが故に、それを獲得するた めの助っ人として、神を呼び求める人々もいます。まったく可笑しいことであって、 自分が何を求めて、誰に求めているのかさえ分かっていないことであります。 私たちのキリスト者にとっては神様が最も大事であります。イエス・キリストの言葉 がすべてに優先される指針であって、従うべき言葉であります。 この世はお金が大事だと絶え間なく私たちに語りかけています。しかし、教会は、聖 書は繰り返し、お金より神さまが大事だと語っています。こう言いながらも教会は献 金を薦めます。それで、時々は教会が献金を薦めるから行きたくないとか、教会にい けなくなったと言う人がいます。そのような方にとっての教会とは倫理的な話だけを すべきであって、またそのような事を期待しているから、献金の話は聞きたくないだ ろうと思います。そのような倫理には実践のない話であります。それは中身のない話 だけを語り合おうと言う事と同じであります。 教会や神様がお金が欲しくて、お金を語り、献金を薦めているのでしょうか。そのよ うに捉えるのはあまりにも短絡的な話であります。あまりにこの世的な話でありま す。それでなく、教会は神さまを最も大事にしながら、聞き従う群れであるが故に、 その具現として献金をしたり、分け合うのを強調するのであります。 今日の箇所を見ますと教会の信徒は持ち物を持ってきて皆と共有し、その管理や運用 を使徒にゆだねていた事が記されています。その中でもバルナバという人は自分の畑 を売ってきて、その代金を使徒の足元においたと記しています。分け合うこと、献金 する事を賞賛しているのであります。 |