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2005年9月11日 |
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「行って教えよう」(使徒5・17〜32) テーマ:伝道の原動力は信仰の内面からの喜びとこの世への憂慮である。 時:05.9.11. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 今日は選挙がある日ですが、礼拝の後、皆さんの貴重な意思表示をするのを期待して います。 最近よくメディアなどを通して聞かれる言葉の中で「ニート」と言う言葉がありま す。この間、気になって私が持っている外来語辞典を開いてみましたが、載っていま せんでした。と言う事から考えますと、この言葉は最近作られた言葉であろうと推測 されます。辞典になかったので、インタネットで調べて見たら色々付随する情報まで 載っていました。 「ニート」とは英語の「Not in Employment, Education or Training」の頭文字か ら作られた言葉だそうです。職にも就いていないし、学校にも行っていないし、と 言って職業のための訓練も受けているわけでもない若者をこのように言っているよう であります。今、日本に68万はいるだろうと推測されているようであります。これは 決して少なくない数字であります。なぜなら、この数字は日本国民全体の数から考え れば、少ない数字として無視出来るかも知れませんが、そうでなく、学び、仕事をす るための準備をしなければならない若者の中の一部としての数が68万でありますか ら、憂慮すべき数字であると言わざるを得ないと思います。それで、最近、行政や政 治家、学者などが色々対策を考えているのではないでしょうか。 労働政策研究機関のある研究員はこの「ニート」を4つのタイプに分類していまし た。この分類や定義の対してのコメントは後にしますが、まず紹介します。その研究 員によれば、第一「ヤンキー型」があって、反社会的で享楽的で「今が楽しければい い」と言うタイプとして分類していました。第二に、「ひきこもり型」で社会との関 係を築けずに、こもってしまうタイプ、第三に「立ちすくみ型」就職を前に考え込 み、行き詰まってしまうタイプ、第四に、「つまづき型」として一旦、就職はするも のの早々辞め、自信を喪失したタイプとして、分類していました。 如何でしょうか、とてもニート的な人々に対しての攻撃的な言い方になっていないで しょうか。いわゆる「ニート」と言う人々の増加は全くその人の個人の問題であっ て、その個人の能力や努力の欠如として捉えているように思われます。私はそれより 今この社会が抱えている問題点という大きな視点からこの問題や、これに類似する問 題に接近しなければならないと思っています。つまり、そのような個人を問題とする 前に、そのような人々を作り出す今の社会構造、無限競争論理、学校や家庭の教育の 問題点を先に論じなければならないと思っているのであります。 この間テレビでニートと言われている人のインタービューを見ましたが、20代半ばの 人でありましたが、彼は生きることや働く目標が如何しても見出せないと言っていま した。ある意味では今を生きる者として、生きる事と働く事を真剣に悩んだ者の素直 な言葉であろうと思います。また、これは彼だけの悩みでなく、多くの若者の内なる 叫びではないでしょうか。なぜ、このような悩みを抱えている青年が増えたかを共に 悩まなければならない時であります。キリスト者としてこのような事を考えると教会 がこの世の為に何をすべきかが自ずと答えが示されるのではないかと思います。 さて、今日の聖書の箇所はペテロとヨハネなどの初代教会の先輩たちが迫害を受けな がらイエス・キリストを伝えている様子が描かれている箇所であります。これは教会 が常に語っている話でありますが、今日の箇所を見る前に、キリスト者にとっての伝 道の動機とは何かをまず共に考えて見たいと思います。勿論、そのような動機は考え る必要はないと言う方もいるかも知れません。つまり、伝道はイエス・キリストによ る至上命令であるが故にそれに従うだけで十分だと言う方もいるかも知れません。確 かに、究極においてはそれが答えとなると思いますが、でも私たちの自ら考えること の出来るところまでは考えてみるのも有意義であろうと思います。 私は伝道の動機は二つの角度から捉えなければならないと思っています。つまり、第 一に、キリスト者がこの世を如何見るかであります。もう一つはキリスト者、自らが キリスト者として救われたその喜びと意味を知っていなければ伝道は出来ないと思い ます。この二つの条件が揃わないと伝道の動機を見出すことは出来ないのでありま す。 この二つをもう少し詳しく申しますと、第一の問題として、この世にキリストが語る 以外の救いの道があるかどうかであります。もし、そのような道ないし教えがあれ ば、私たちはそれを求めなければなりません。ただ私たちが今までの信仰生活をして きた惰性から、そのような道を認めつつ、今の信仰に止まっているのであれば、私た ちは愚かな者であります。 しかし、今のこの世の中を見ると多くの方々が神さまを見失って、無神論者と自負し ながら生きています。自らの知恵を誇りとしながら過ごしています。自ら立てたモラ ルと自ら立てた価値を求める事を善と言いながら暮らしているのであります。時には 自分が好きな事が出来れば、それで人は幸せになるのだと割り切っている人もいま す。 また、漠然と神への畏敬の念を抱きつつ樹木に、岩に手を合わせながら過ごす人々も います。これらの事を纏めて申しますと、人間の傲慢と漠然とした恐怖によって創造 主である神様を見失っている有様であります。樹木に手を合わせるのが何が悪いかと 思う方もいるかも知れませんが、確かに、全く神はないと言うよりはましであるかも 知れません。なぜなら、そこには人間は生かされる存在だという認識は生まれる可能 性があるからであります。しかし、それは偶像礼拝であります。偶像礼拝をすると本 当の神様を見失うのであります。それで、全く神はないと言い張るのと同じ結果に なってしまうのであります。 このように神様を嘲ったり、偶像にしたがっているこの世であるから、彷徨う多くの 青少年に対してどうすれば良いか分からずに共に右往左往しているのではないでしょ うか。つまり、快楽やお金が人間の求めるべき最終的な目標でも価値ではないという 事を知り、悩み始めた青少年たちに「何ぼんやりしているんだ、頑張りなさい」と言 う以外、もうこの世は語る言葉をもっていないように思われます。それで、青少年た ちは自らが真剣に自分の存在価値は何処にあるか、命の意味は何か、何のために働く のか、その答えを求めるが、その答えを見出せないで立ち救ってしまっているのであ ろうと思います。 このような世に向けて教会は語るべき言葉を持っています。と言うより語らなければ ならないという使命感を覚えるのであります。これが教会の伝道への原動力の一つで あると言えるのであります。 伝道の動機としてもう一つ、自らがその救われた喜びや価値を知らなければならない と思います。この事は前も申し上げたつもりでありますが、例え、自分の信仰生活に 喜びもないのに他人に信仰を勧めるのは偽善であります。喜びもなく、信仰において の生きがいを覚える事の出来ない方は当然他人に語る言葉もないのであります。今、 信仰生活に喜びと平安が、感謝の気持ちがない方や、それが薄れている方は自ら信仰 生活を祈りの中で省みるべきであろうと思います。喜んで伝道できるか出来ないかと 自らの内面を覗いて見るのは自分の信仰の状態を点検する試金石のようなものであり ます。 教会は決して、教会の内部だけでの平安や喜びを求めません。教会を出てすべての 人々にイエス・キリストの死と復活を伝え、そこからすべての人が希望を見出し、永 遠の命が与えられるのを望んでいるのであります。 今日の聖書の箇所でも使徒たちはイエスを伝えることに対しての度重なる脅迫がある のにもかかわらず、イエスの十字架での死と復活を伝えていました。これに我慢でき なくなった大祭司やサドカイの人々は使徒らを投獄しました。ところが19節を見ると その夜、獄の門が主の使いによって開かれたと記されています。主の使いとは不思議 な力、つまり、文字通り「天使」という意味もありますし、また「主に従う人」と言 う意味にもなります。いずれにしても、神様の御旨によって獄の門が開かれ、彼らは 外に出る事が出来たのであります。 ここで注目したいのは彼らが御旨によって解放された理由であります。彼らが教会に 行って、または自分の家に行って自由な生活を満喫できるようにするためでなく、そ れよりさらに福音を伝える機会として彼らを神様は自由にさせたのであります。20節 をみると主の使いが彼らを解放しながら、「さあ行きなさい、そして宮の庭に立ちこ れらの命の言葉を漏れなく、人々にかたりなさい」と、語るべき場所まで特定するの であります。決して迫害する人々を恐れることなく、彼らの目の前である「宮の庭 で」語るのを命じるのであります。再び、捕らえられることは決まっています。ここ には体の自由が最上位の価値でなく、キリストの言葉に従う自由が最も尊いものであ ると言うメッセージが含まれているのであります。 また、ここの「宮の庭」と言う言葉から私たちはもう一つのメッセージを読み取る事 が出来るのでないないかと思います。つまり、「宮」とは聖なる場所であります。あ る人々にとってはそれ自体でもうすでに完全無欠なところであります。罪のないとこ ろであります。しかし、神の使いはその宮で語るように言うのであります。大祭司や サドカイ人々だけでなく当時の多くの人々にたいしての大きな問いかけでもありま す。 話が変わりますが、以前、目撃したことでありますが、ある朝、教会のドアから外を 眺めていると散歩に行っているような格好をしていた中年の女性が足を止めて、教会 に向かって手を合わせ、頭を下げていました。苦笑いをせざるを得ませんでした。当 たり前なことでありますが、礼拝堂自体が聖なる場所ではありません。それより神様 の言葉に聞き従う人が聖なる器であります。神の言葉に従っている群れとしての教会 が聖なる器であります。 話を戻しますが、当時の神殿は宗教的な行事を行うところとして転落していたようで あります。そのような信仰が神の子イエス・キリストを殺したのであります。間違っ た信仰が、間違った宗教心が神の言葉を殺したのであります。その神殿に行ってイエ ス・キリストを語り、人々を悔い改めさせ、神の言葉に聞き従わせるために、主の使 いは使徒たちを解放したのであります。 もう一つだけ確認して話を終わらせて頂きたいですが、使徒たちは再び捕らえられる 見通しであろうとも一旦、解放されました。また、来週の箇所で見て分かりますよう に再び捕らえられた後もまた開放されます。このような事を見れば、当時は伝道のた めの最悪の時代でなかったようであります。 教会は今日の箇所が示す事情より悪い時代であろうとも伝道を諦めた事はありません でした。時代が悪くとも善くともイエスを教え、語り続けてきたのであります。教会 は他人と共にイエスの名の下で生きるのを絶対価値としているからであります。これ からも共にそのような教会を目指して生きたいと祈っています。 |