2005年9月18日

「教会は神から出たモノ」(使徒5・33〜42)

テーマ:教会の業は滅びることがない。

時:05.9.18. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤

明日は「敬老の日」であります。役場や国は色んな行事や企画の準備をしているよう であります。新宮町役場から敬老の日を迎えて、お祝い金として70歳以上の方に1万 を差し上げると言う知らせがありました。それを見ながら新宮町役場は70歳以上の方 を老人として数えているのかなと思いました。1963年に制定された老人福祉法によれ ば65歳の方を老人として数えています。周知のように平均寿命が延びつつあります。 70歳であってもとても元気な方がいます。この傾向が続くと、何十年か後には80歳以 上を老人として数え、お祝いをするかも知れません。

言うまでもありませんが、年配の方を敬おうとするのはとても大事なことでありま す。敬老の日と定めたのは年配の方々に今までの貢献と苦労に感謝の気持ちを伝える ためであろうと思います。このような精神が一日のイベントで終わるのでなく、常に その精神が文化として根付く事を期待しています。

制度上の問題としては、安心して年金を納めることの出来るシステム、確実に年金を 支給されるという信頼を置ける政府であることを願っています。また、元気な年寄り が多くおりますので、希望すれば様々な形で社会参加できるような社会作りが大事で あろうと思います。

聖書の中で年をとって神様から、使命を受けて活躍を始めた人の中で一人選ぼうとす れば、やはりモーセではないかと思います。彼は80歳になって始めて神様の呼びに答 え、イスラエルを奴隷の地エジプトから救出するのであります。私たちはモーセを通 して神の使命に答えつつ生きる人の偉大さを見る事が出来るのであります。

例え、肉体は若くても何の使命感ないし目標がなければ、その人からは何の活力も感 じるとることが出来ないのであります。ただ周りの人々に無気力感を与えたりするだ けであります。しかし、年をとっていても、また体が不自由であっても、何かへの使 命感を持っている方からは、内在するエネルギと言うか、躍動する生命力を感じ取る ことが出来るのであります。そのような方と共にいることは楽しい事であり、大きく 励まされることであります。このことを「生きている」ということでないでしょう か。

言い換えれば、肉の命があって鼻から息が出来、口にご馳走を運ぶことが出来るから 生きているというだけでなく、精神と魂が生きていて初めて本当に生きていると言え るのでないかと思います。

キリスト者は決して死んでいきません。永遠の命を生きています。決して滅びること のない御言葉ともに生きるのであります。今日の聖書の箇所に登場するガマリエルは 使徒たちの業を見て、「その企てや、しわざが、人間から出たものなら、自滅するだ ろう。しかし、もし神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことは出来ない」と 言っています。

如何なるものであろうとも人間から出る思いや業には限界があります。罪から出るも のであります。しかし、永遠に生きる神、すべてを創造し、支配される神様から出る ものには命があり、愛があります。

さて、今日のメッセージのタイトルを「教会は神から出たモノ」としましたが、一 寸、これだけでは意味がわかり難いので申しますが、教会は人間の思いから出来たの でなく、神様の計画から出来た共同体という意味を込めてそのようにしたわけであり ます。ガマリエルの口から出た言葉はこれとは少し違います。つまり、今日の聖書の 箇所には直接的には使徒たちの業が神から出たモノか、人間的な思いから出たモノか を見極めようという言い方になっていますが、私はここの「使徒の業」というところ を「教会の業」として読み替えたので、このようなタイトルになったわけでありま す。

ところが、このガマリエルという人は律法主義の代表格であるパリサイ派の人であり ました。しかし、彼はかなり柔軟な信仰者であったようであります。例えば、当時の イスラエルではギリシャ語やギリシャ文化に対して異文化として嫌悪感を抱き、拒ん でいたようでありますが、ガマリエルはそれを無理に禁止することに対して反対意見 をもっていたりしていたそうです。勿論、これだけが理由ではなかったと思います が、当時の人々にとても尊敬されていて「律法の美」と呼ばれていた人物でありまし た。また、彼が亡くなった時はイスラエルの人々はもはや律法を尊敬する心は失われ たしまったと言いながら悲しんだという記録が残っています。

33節を見ますと議会の集まっていた人々は使徒たちを殺そうとしていていましたが、 このガマリエルが彼らを止めて、殺すのでなく、彼らの業をもう少し見極めて、彼ら の業が、神から出たモノか、人間から出たモノかを見ようではないかと言いながら議 会を説得するのであります。彼の説得の中で二人の人物の名が引用されますが、この 二人は神の名の下で、または神の名のためにという名分で、活動をしていましたが、 実は人間的な欲や思いから出ていた業であったようであります。

理解のために少しだけ二人がどのような人であったかを申しますと、「チゥダ」とい う人は自分がメシヤだと自称していた人でありました。それで、彼に従っていた人も 400人ほどいたようであります。今も昔も自分がメシヤだと言って信者を集める人が 後を絶ちません。

例えば、今も統一協会の文鮮明は自分がメシヤであって、イエス・キリストにとって 代わる人であると言いながら多くの人々を惑わせています。これに似たような事を言 いながら組織をつくり、信者を集めている人が度々起こってもいます。文鮮明の悪事 を一つずつ数える事は出来ないほどでありますが、一つだけ申しますと、彼は信徒の 一部を珍味売りに駆り立てながら、自分は自家用飛行機に乗っています。また、強大 な富を作ってそれで物を言わせようとしているのであります。まさに人間的な「欲」 の塊であると言わざるを得ません。彼らは近い将来に自ら滅びるだろうと信じていま す。なぜなら、彼の思いや業が到底神から出たモノだと言えないからであります。

37節を見ますともう一人「ガリラヤのユダ」という名が出てきますが、彼はかなり過 激な信仰者であったようであります。彼は税金のようなものは国に納める必要がな く、神様だけに捧げれば、それでよいと言っていたようであります。そのような思い から、人口調査の時を図って反乱を起こして大変な騒動になり、また多くの人々が犠 牲になった様であります。当時の人口調査とは税金を確保するため手段として行うも のであるから、もっとも民衆の不満が募りやすいその時を計らって反乱を起こしたわ けであります。

これに似たような事も今の時代において時々起こっています。つまり、信仰上の理由 から戦争を仕掛けたり、テロを起こす人がいます。人を殺してでも信仰上の信念を守 ろうとするわけであります。

これはありえないことだと思います。例え、軍隊を持っている国には税金を納める事 が出来ないと言う信仰上の信念から税金を納めるのを止めようという呼びかけはより 大きな困難に陥れるのであります。これは国家という秩序をまったく破壊しようと言 うことと同じ話であります。あくまで軍隊は必要悪であるから国民として、キリスト 者として軍隊の動きを見張る必要はあろうと思いますが、それ自体に対抗して戦いを 挑んだり、税金を納めるのを止めようとは言ってはならないと信じています。

因みに言いますが、旧約聖書を読んでいると戦いの話が数え切れないほど出てきま す。また、多くの場合、神の名の元で戦いをし、神様が攻め立てる事を良しと言った から戦いをし、勝利を得たなどの記述も多くもあります。時々これをどう読めばよい か分からなくて戸惑う人がいます。つまり、平和を愛するものは幸いであると言うイ エスの言葉とはまったく矛盾するのではないかと思うようになると、もう読めなく なってしまうのであります。

とても信仰熱心な私の友人はもう旧約は読めないと言いながら、彼は旧約を聖なる書 物だと信じることが出来ないとまで言っておりました。キリスト者として大胆な発言 であります。

私は旧約と新約との関係から私たちに時々戸惑いとして迫ってくるこの問題を考えれ ば良いと思っています。つまり、旧約は律法の時代であって、また偶像礼拝との戦い の時代であったが故に、神の名の下での戦いも許されていた時代であります。

しかし、今は新約の時代であります。律法に従うのでなくイエス・キリストに従う時 代であります。そして、イエス・キリストに従うと告白しつつ戦いは出来ないと思い ます。ですから、新約を生きる今の時代においては、例え、それが神の名の下での戦 いであろうともそれは神から出たモノでなく、人間の思いから出たモノであると信じ ているのであります。

話を今日の箇所に戻しますが、ガマリエルも今日の議会を説得しながら今申し上げた 二人は、例え、彼らの業が神の名の下で行われたものであろうとも、それは神から出 たのでなく、人間の思いから出たモノだと断言をしているのであります。

如何でしょうか、使徒たちの業も人間の思いから出たモノでありましょうか、決して そうではありません。人間の思いからであれば、そのように死を覚悟して語る事は出 来なかったと思います。考えてみれば、イエス・キリストを教え、語ることによっ て、この世的な利益が与えられるのでもなく、与えられるのはただ鞭であって、恥で あって、死への恐怖でありました。しかしながら、彼らはイエス・キリストの教えと 復活とを語るのを止めようとしなかったのであります。

また、使徒たちは決して力をもって当時の権力者に抵抗しようとするのでなく、イエ ス・キリストの名と約束だけをもって彼らに悔い改めを勧めたりしていました。人間 的な思いであれば、イエス・キリストについて言っても、言っても分かって貰えない のであれば、力を結集し、蓄え、勢力が大きくして、思い知らせてやろうと思いつつ その場から一旦身を引くはずであります。しかし、彼らはそうしないで、人間的な目 から見れば知恵のない者のように見えるほどその場に立ち続け、イエスを語り続けた のであります。

その時の使徒たちの心境を良く表している箇所が、41節であります。読みますと「使 徒たちは御名のために恥を加えられるに足る者とされたことを喜びながら議会から出 た」と記されています。この世の不義と自ら戦うのでなく、キリストの名の故に苦し みを受ける者として立てられた自分たちは幸いである。キリストの名の故に恥をかく 自分たちは幸いであると告白していたのであります。

誰であっても価値のないことの為に自分の財産を捧げたり、自分の命を捧げたり、与 えられる苦しみや恥に耐え忍ぶ事は出来ません。しかし、一旦もっとも尊い価値ある ものだと分かれば、如何なる苦しみや犠牲にも耐え忍ぶ事が出来るのでありますが、 使徒たちは自分たちが恥をかき、苦しみつつもイエス・キリストを語る事の出来る自 分たちとなっていた事を喜んで、それが最も尊い価値だと分かっていたのでありま す。私たちもこのような信仰に立ち続けていたいものであります。