2005年10月16日

「神はヨセフと共にいまして」(使徒行伝7・8〜16)

テーマ:神への信頼が信仰。

時:05.10.16. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤

 マスコミに度々取り上げられて来ましたが、今日は太宰府に新しく建設された九州 国立博物館がオープンする日であります。私はひそかにこの博物館の開館を楽しみに していましたが、近いうちに見に行きたいと思っています。私は博物館などに行って 展示されているモノを見るのが好きです。じっと見つめているとどのような人が何の 目的に作っただろうかなどを思い巡らすと、とても楽しくなったりします。

今まで、私は韓国から人が来ると、自分の好みを押し付けているところでもあります が、必ずと言っても良いほど唐津の名護屋城の跡地にある博物館を案内してきまし た。これからは九州国立博物館も案内しようと思っています。

 昔からのモノを見たり、伝えられている話を聞いたり、読んだりすることは面白い ことであります。このような事を通して、歴史から私たちは今をどう読み、どう対応 すべきかを学ぶのであります。また、何かを学ぶと言う意識からでなくとも、歴史や 博物館などで伝えられている美しさを楽しむ事も出来ます。九州博物館を宣伝するチ ラシを見ると「美の国日本」と記されていました。確かに、日本の歴史には優れた美 の感覚や技があります。これから九州博物館でこれをも大いに楽しむ事ができればと 思っています。

 しかし、博物館の展示品や歴史がただ誇りの根拠になるだけであれば、歴史は今に おいて生かされていないと事であろうと思います。やはり、歴史を今に生かすところ に歴史を学ぶ意味があると思っています。例えば、歴史の中で教訓を抽出したり、昔 のモノから今に生かすべき美しさを発見し、再現していくのも大事であろうと思うわ けであります。

言うまでもありませんが、私たちは聖書を通して昔の信仰者の営みを読むことを常と しています。今日もまた信仰の先輩の物語を通して、私たちが今日をどう生きるべき かを学ぶ事が出来ればと思います。

 さて、今日の聖書の箇所でステパノはヨセフの物語を取り上げていますが、ヨセフ は創世記に登場する人物の中で重要な位置を占めています。どれほど重要な人物かは 創世記で占めているページの数を見ればわかりますが、ヨセフの物語は37章から始 まって創世記の終わりまで続いています。なぜ、そのように彼が重要な人物として取 り上げられているかを考えますと、やはり、その答えはもっとドラマチックに生きた 一人であって、また、ドラマチックとしか言いようのない苦難や出世の物語の中で、 常に彼は神様を呼び求めていましたが、このような事で彼は創世記の中で重要な人物 として数えられ、また、イスラエルの人々によって語り継がれただろうと思います。

 勿論のことでありますが、ステパノはヨセフの物語をただ興味本位で取り上げてい るのでなく、ヨセフの物語から学ぼうとしないイスラエルの人々を批判しています。 なぜ、いきなりこのように申し上げているかと言えば、先週も申し上げましたが、こ のステパノの説教がイスラエルの人々の全体に向けられた批判であるからでありま す。言い換えれば、ステパノはこの説教をもってイスラエルの人々に悔い改めの勧め ているのであります。今日の箇所ではステパノの批判の姿勢を伺わせるような言葉が 示されています。つまり、今日の9節をみますと「族長たちはヨセフをねたんでエジ プトに売り飛ばした」と記されています。ご存知のようにヨセフは兄弟喧嘩によって エジプトに売り飛ばされました。普通であれば、そのように語るべきであります。し かし、ステパノは「ヨセフの兄がヨセフを妬んで」なく、族長がヨセフを妬んだと 言っているのであります。つまり、ヨセフは兄弟喧嘩によって売り飛ばされたと言う 個人的な事柄としてでなく、この妬みをイスラエルの全体の問題として取り上げつ つ、すべての民衆に批判の矢を向けているのであります。

 ステパノに倣ってもう少しヨセフの物語を創世記から引用したいと思いますが、ヨ セフはヤコブの11番目の息子として生まれました。年をとってからの息子であったた めか、父ヤコブにとても可愛がれます。これが原因になったのか、ヨセフはやや生意 気な者になって行ったようなところもあります。このようなヨセフを兄たちは妬み、 ある日共謀してヨセフをエジプトに奴隷として売り飛ばすのであります。

 このようにしてヨセフは奴隷としてエジプトで生活しますが、そこにおいても彼の 誠実さと才能が発揮されたのか、主人によって抜擢され、主人の家の営みのすべてを 管理するようになります。ところが、ある日主人の奥さんは彼の美しさの故に、自分 の寝室にヨセフを誘惑をしますが、その誘惑を拒んだ事が原因となって、またもや彼 は牢屋に閉じ込められます。後に彼の夢を解く力が王によって買われて、牢屋から取 り出され、エジプトの宰相まで上り詰めるのであります。 きわめて、簡単にヨセフ の一生の粗筋だけを申しましたが、このように彼の人生は紆余曲折に満ちていまし た。

 私は彼の話を読む時、常に思い出すもう一つの物語があります。「塞翁が馬」であ ります。これも少し紹介します。中国の故事でありますが、ある国の国境の近くに一 人の老人が住んでいました。ある日1頭の馬が国境を越えて敵国に逃げてしまいまし た。不幸が訪れたのであります。しかし、しばらくするとその馬を戻ってきます。幸 運が訪れたのであります。ところが、その老人の息子がその馬を乗り回している中に 落馬し足を折って体が不自由になってしまいました。不幸がまたもや訪れたわけであ ります。しかし、後にその地方に戦争が起こって体の丈夫な人は皆、戦争に出て死に ましたが、この老人の息子は体が不自由が故に命が助かりました。要するに、人生と は何が真に不幸であって、幸であるか分からないと言う話であります。

 ヨセフの物語を読んで見ても、今、申し上げた塞翁が馬のようなところがありま す。親に可愛がられるのはとても幸いであります。しかし、この幸いが転じて不幸を 生み出し、エジプトに売り飛ばされるのであります。また、この不幸が一転して、宰 相にまで上り詰める切っ掛けとなるのであります。彼の物語はこのように幸いと不幸 が二転三転していくのであります。

 しかし、この二つの物語は決定的な違うところがあります。つまり、塞翁が馬の話 には人生を解脱でもしたかのような人間訓がありますが、ヨセフの物語にはヨセフは 常に神を求めつつ、神がまた共にしていたことを語っているのであります。言い換え れば、塞翁が馬の物語は万事無常と言う人間からの視点であり、ヨセフの物語は信仰 者による神への呼びかけとこれに対しての神様の応答が中心テーマであります。

 話が変わりますが、このメッセージを用意しながら昔、教わった私の先生の事を思 い出しました。その先生とある日、飲み屋を探していた時でありますが、適当なとこ ろを探し回っているうちに飲み屋の屋号が「塞翁が馬」というところを見つけまし た。ところが、その先生をその屋号を見ながら、からかわれているような気がして、 その店には入りたくないと言っていました。後になってその先生の話を考えてみまし たが、その先生は例の屋号から「人生如何転んでも同じであるから、飲んで楽しみな さい」と言う意味を読み取ったわけであります。

 確かに、塞翁が馬の物語には目先の現象だけに囚われて、一喜一憂して大事モノを 見失わないように人々を諭しているところがありますが、それ以上のモノを私たちに 語ってくれません。ですから、時には如何生きてもみな同じ結果という諦めを私たち に促すような話として聞こえてくるのであります。

 しかし、繰り返しになりますが、ヨセフの物語の信仰者の道が示されています。彼 は苦境にいる時でもあっても、喜びの時であっても、神様が示してくれた夢を見つ つ、神を呼び求めていたのであります。その呼び求めに神様は答えていたのでありま す。この事を「神がヨセフと共にしていた」とステパノは語っているのであります。

 ここは信仰とは何かを私たちに大いに示唆するところであります。信仰とは神を信 頼し神を呼び求めつつ、神が求める道を歩もうとするのが信仰であります。

 時々、信仰を無病息災のために祈願する行為のように思う人います。これは経済的 に豊かになるのが幸せであって、病気にならないのが幸せであって、体が不自由でな いのが幸せであって、無上の価値であるがゆえに、神にお願いをしてでもそれを守っ て頂こうと言う宗教心であります。これはもっとも原始的な宗教心であって、人間が 作り出したモノであります。このような宗教心を他の言い方をすれば、ご利益の宗教 であり、巫女というかシャマニズムであります。

 例えば、占いや、巫女の関心事はただ如何すれば儲かるか、如何すれば、悪縁に逢 わないで済むのかなどに集中されています。それで、時には人に余計な恐怖を煽り立 てて、家の向きを変えるとか、引越しの日はこの日にすべきであるなどと定めたりし ます。そこには何の根拠はありません。そこには倫理も哲学も歴史の中でも使命もあ りません。つまり、人間とはこのようなものであって、こう生きるべきであるとか、 これが尊い価値であるとかなどの話はなく、ただ金儲け、病気から回避だけに関心が 集中されているのであります。

 このようなご利益的な宗教の思いは先ほど申し上げた「塞翁が馬」の物語よりも価 値のないモノであります。そこには物質の獲得によって一喜一憂しないようにと言う 人生観のようなものが潜んでいますが、ご利益の宗教にはそれすらないからでありま す。

 誤解のないように申しますが、と言って、私たちキリスト者は経済的な事や健康の ために祈りをしてはならないのかと言えばそうではありません。現に、私たちもその ような祈りをしていますし、これからすべきであります。しかし、私たちはそのよう な祈りをする時でも、物質や、健康そのものの獲得だけの為でなく、常に神の御旨の ために、神の栄光の為にそのようなものが備えられますようにと祈るのであります。

何よりキリスト者にとってもっとも大事な関心事は「神の御旨に沿う事なのか、そう でないのか」であります。ここにキリスト者の倫理があって、歴史においての使命が あります。

例えば、イエス・キリストはご自分がエルサレムで宗教指導者たちによって殺される と言う事をしっていましたが、あえてエルサレムに上っていくのであります。なぜな ら、イエスは神様がこの事を持ってすべての人にして悔い改め、福音に導かれ、救わ れる事を臨んでいたからであります。言い換えれば、それが歴史において神様がイエ スに示した使命でありました。その使命をイエスは拒まないで十字架にかかったので あります。

このイエス・キリストの行動が物語っているように、神様が苦難の歴史を用意された のであれば、その歴史の中においてさえも、神の栄光が現れるようにと祈り、その栄 光のために従いたいと祈るのがキリスト者であります。ですから、時にはパウロの言 葉のように苦難をも喜ぶのであります。

また、ヨセフの行動や言葉の中には信仰者の倫理があります。例えば、彼は主人の奥 さんに誘惑されましたが、彼は主人の彼への信頼を裏切る事が出来なかったし、ま た、すべてを知っていらっしゃる神様を恐れていたので、その誘惑に応じる事が出来 なかっただろうと信じています。極めて浅墓な思いでありますが、もし、彼がその誘 惑に応じたらしばらくはより楽な生活、より楽しい生活が出来たかも知れません。し かし、それは神様が望んでいる道ではありません。つまり、神様が示している道では ありません。

最後に創世記の中でもっとも美しい一場面を紹介して話を終わりたいと思いますが、 創世記50章15節以下に示されていますが、ヨセフを売り飛ばした兄弟たちはヨセフの 前で自分たちが犯した過ちの故に怯えている場面であります。

そのような兄弟たちを見てヨセフは言います。自分が「神に代わる事が出来ようか」 と。つまり、その時はもうすでにヨセフは兄弟たちの命を奪うことの出来る権力の座 についていますが、自分が神にでもなったかのように、裁いて命を奪う事が出来るだ ろうかというのであります。

そして、兄弟たちが自分をエジプトに売り飛ばした事をも神様の計画であって、その 悪事を神は良きことに変えてくださったと言いながら兄弟たちを許し、安心させるの であります。私たちも共に、ヨセフのように常に神様に求めながら、神が示す道を歩 む事が出来ればと願っています。