2005年11月6日

「モーセの召命」(使徒7・30〜36)

テーマ:信仰はこの世に対しての勝利であるが、この勝利への神による招きが召命である。

時:05.11.6. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤

先ほど有馬君の信仰告白を共に聞きました。また、私たちは喜びを持って彼を私たちの教会の一員として迎え入れました。これから共に神様に招き入れられた者として良い交わりが出来ればと願っています。また、有馬君のこれからの人生において神様の導きが豊かに臨むことと信じています。

約一ヶ月半前でありますが、有馬君がバプテスマの意味は何かと尋ねた事があります。その時、バプテスマの典型的な理解とも言えるローマ書6章3節を引用しながら質問に答えた事があります。もう一回確認のためにお読みします。「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちはその死にあずかるバプテスマによって彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちも、新しいいのちに生きるためである」と記されています。要約するとバプテスマによって今までの自分は死んで新しくキリスト共に生きるのがバプテスマであると言うことであります。バプテスマは私たちが自分の決心で新しく生きると言う宣言でなく、バプテスマによって新しく生かされると言う神様の約束があって、その約束の招きへの応答が、また、バプテスマであります。

さて、今日のメッセージのタイトルは「モーセの召命」としましたが、ここの「召命」と言う言葉はわりとキリスト教ではよく使われる言葉であります。私も神学校に入学試験を受ける時、「召命書」を長々と書きました。それで私にはとても馴染んでいる言葉であります。

その時、私は召命書に、必ずしも牧師になりたいので神学校に行こうとしていたわけではなく、勿論、そのような機会があれば幸いであると思ってはいましたが、例え、牧師として奉仕する教会がなくとも、教会のために何でも働く事が出来ればと思っていました。そのような召命を書いたことを覚えています。

ところが、この「召命」と言う言葉の確認のために広辞苑を開いてみたら、載っていませんでした。その代わりに「詔命」と言う字はのっていて、「みことのり。天子の命令」と記されていました。キリスト教会はこのような意味との違いを表明するために「言」の偏をとって「召命」と言う字を当てているだろうと思います。

私はこの広辞苑の定義を見ながら、軍隊にいた時の事を思い出しました。軍人は基本的に何をする時であろうとも命令が必要であります。命令がなければ、また何も出来ません。例えば、敬礼をしながら、「二等兵誰々は何月何日とある部隊に属するように命じられました」と上官に申告をしました。勿論、これは国から命じられた言う意味であります。キリスト者が聞く命令は神様からの命令であります。こう言いますと神様からの命令は国や人の命令のように具体的でなく、非常に抽象的になって何が神様の命令であるか分からないと言う方もいるかも知れませんが、そうでもないと思います。

イエス・キリストが何を望んでいて、どう生きることを望んでいるかはそれほど難しいものではないと思います。一言で言えば、神を愛し、人を愛することであります。これをぞれぞれの生活の場で具体化していくのが私たちの勤めでもあろうと思います。

キリスト教で言う「召命」とはギリシャ語のkleisisを訳した言葉でありますが、その一次的な意味は「招き」であります。この他にこの言葉には「職業」と言う意味もあります。しかし、日本語でこれを「召命」と訳せば、まったく職業というニュアンスは現れません。神様によって与えられた仕事と言うニュアンスの言葉としては「天職」と言う単語はありますが、ギリシャ語kleisisをこう訳しますと今度は「招き」と言う意味が隠れてしまいます。ところが、ドイツ語ではこのギリシャ語を「Beruf」と訳しますが、このドイツ語には「職業、招き」と言う両方の意味を含んでいます。

いずれにしても日本語として「召命」と訳せば、何かいわゆる聖職者たちの仕事をイメージする方が多いのではないでしょうか。しかし、実はそうでないと言って良いと思います。ローマ書8章28節を見ますと「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召されたたちと共に働いて、万事を益となるようしてくださる」と記されています。これを見ますと分かりますように、神を愛する者がもうすでに神に召されているものであって、別にいわゆる聖職者たちだけが召された者ではありません。

因みに申しますが、「聖職」と言う言葉には聖なるの「聖」が付いていますが、私は如何なる言葉にも「聖」と言う字を冠するのは好きではありません。例えば、聖餐式より「主の晩餐」の方が良いと思います。実際に今は聖餐式という言葉より「主の晩餐式」と言うのが一般的であります。また、多くの人々がイスラエルを「聖地」と言っていますが、この言葉にもイスラエル国土、自体が聖なる土地というイメージを与える嫌いがあると思います。そうでなく神様がいるところが聖なる所でありますが、神様は何処にもいらっしゃるのであります。また極端な例でありますが、神様が創造なさった人の命を奪う戦争をしながら「聖戦」だと言う人々もいます。神様の御旨が働くところが、聖なる業ではないでしょか。

こう考えますと、それぞれの仕事の場が神によって召された場でありうると言って良いと思います。畑仕事をする人も、商売をする人もその場が神の栄光のために、神様のためにという願いから仕事をするのであれば、それが聖なる仕事であり、聖なる場であります。勿論、主婦は主婦として仕事が神によって召されていて、その場においてまた神の栄光と御旨を表す事の出来る場であります。

 また、規模が大きな仕事が神に召された仕事であったり、羨望の対処となりそうな仕事だけが神によって召された仕事であって、その場に着いた時のみ神の栄光を表す事が出来ると思うのは極めて人間的な考え方であります。小さい仕事であろうとも、人々に憧れていない仕事であろうと神はその人をその場で祝福したもうとしますし、そのような場においても神が望んでいる内容の仕事はいくらでも出来るのであります。余りにも当たり前なことを申し上げましたが、「モーセの召命」と言うタイトルから因みに申し上げたつもりであります。

 もう1つ申し上げますが、モーセの一生を見れば分かりますが、神様の招きに答えるということは必ず何かの結果を出したり、達成しなければならないと言う事ではないと思います。モーセはエジプトの人々を脱出させますが、カナンの地まで導くことは出来ませんでした。つまり、達成できないまま、彼は途中で亡くなったのであります。しかし、モーセは偉大な信仰者であって、最も神様によって褒められた人でありました。

 このように、信仰とは何かの目的を達成するための手段ではありません。また、信仰とはこの世的な勝利を得るための道具ではありません。信仰に生きることが完成であり、勝利であります。言い換えれば、神様の御旨に生きる過程が信仰であり、すでに完成された状態であります。これにアーメンと答えるのが神の招きへの答えであります。

話を今日の箇所に戻しますが、モーセは神様の声を聞いてその場で靴を脱ぎました。モーセはそのような従順をもって神様の招きに答えたのであります。

 今日の箇所の理解のために先週の申し上げた内容をもう一度簡単に申し上げますが、モーセは自分がエジプトの王室で育てられたものの、実はイスラエル人であると言うことを知り、自分はイスラエルのために生きると決心をしました。しかし、ある日イスラエルの人の同士の喧嘩の仲裁をしようとするところ、当事者の一人から「誰があなたを支配者や裁判人として立てたのか」と言う言葉を聞きます。モーセにとっては胸を突き刺されるような言葉であります。この言葉によってモーセはイスラエルのために生きるという決心を捨てて隠遁生活を始めてしまいます。彼の善意が裏切られて、酷く心に傷付けられたからであります。

それで隠遁生活を40年間もしてしまいましたが、彼が丁度80になった時、神様の声を聞くのであります。その様子を語っているのが30節以下であります。先週も申し上げましたように、この詳しい事情は出エジプト記の初に記されているところであります。ところが、そのモーセに対しての記録を今日の箇所の説教者でもあるステパノはただ棒読みをするかのように引用しているでしょうか。そうではありません。モーセに対しての記録から自分なりに読んでいるのであります。つまり、ステパノはイスラエルの人々によってモーセに浴びせられた「誰があなたを支配者や裁判人としてたてたのか」と言う言葉にこだわっています。それで、今日の箇所においても35節でこの言葉を繰り返しています。ステパノがこのようにこの言葉を繰り返しながら言おうとしているのはモーセを支配者として裁判人として立てたのは他ならぬ神様であると言うことであります。

 ここではステパノは言おうとしていないところでありますが、もう1つ、モーセの心理状態を考えて見たいとおもいます。初にモーセがイスラエルのために生きると言う決心をした時には、まだモーセには「召命」がなかったとのではないかと思います。すなわち、モーセは勝手に自分がイスラエルのために生きると言う決心をしますが、その善意がイスラエルの人々によって裏切られるとその決心を取り下げてしまうのであります。

 しかし、今日の箇所からはモーセの姿は自分が勝手に志を立てた事として、同胞であるイスラエルを奴隷状態から救い出すというとてつもなく大きな希望を抱くのでなく、それが神の計画であって、その神の計画に自分が参与すると言う認識に立つのであります。それが神様の計画であることを知ってから、モーセは山から人ごみのところに戻ってくるのであります。

 遠くを見る者は目の前の困難に挫ける事がありません。その困難は間もなく過ぎ去るものであって、一時的なモノであることを知っているからであります。しかし、視線が目の前に留まっている者にとっては、それがすべてのように見えます。永遠にそれが自分の前をたちはだかるように思われてしまうのであります。その先が見えないからであります。

 これと同じく、何をしてもその動機は決定的に大事であります。目の前の利益のためであるか、それとも遠大な計画の下でその仕事をするのかによってその仕事に関わる姿勢や態度がまったく違ってくるはずであります。まして、自分の今やっている事が神様の御旨に沿うことを知っている者の強靭な力は言うまでもありません。

 モーセは神様からの召命を受けてイスラエルをエジプトから導いて40年間指導しますが、その間も、モーセは大変な試練を目の前にします。例えば、彼は自分の妹と中心としたグループから反乱を起こされることもありました。民からはなぜ自分たちを食べ物の豊富なエジプトから導いて、苦労をさせるのかとも言われました。しかし、モーセは召命を受ける以前のようにそのような言葉を聞いても、更に酷い目にあってもその場から逃げようとしないのであります。その場が神様が用意してくださった場であって、その場に留まって神の計画を担っていこうと思っていたからであります。

 私には学校の教師をしている弟がおりますが、彼はいつも自分が学校の教師である事が不満であります。それより自分にはもっと多くのお金をもうける仕事がしたいとよく言っております。それで実際に他の仕事にも手を出していますが、どうやら聞くところによりますと失敗が多いようであります。兎に角、教師であることに不満を抱くようでは、本人も生徒にも不幸なことであると思っています。

 話をまとめて終わらせて頂きたいですが、キリスト者が言う「召命」とは神によっての呼びかけに対しての応答であります。つまり、人や何かの団体によって呼ばれ、命じられて何かの任務を遂行していくものではありません。また自分が自分の志を決めて、それに従うことでもありません。あくまで神様によって命じられ、任務として与えられる事を受け入れ、それに答えていくのが召命であります。この事をもう少し具体的に申しますと、神様が見るに良き事をすること、神様に喜んで頂きたいという心で仕事をする事が「召命」を受けた者の姿勢であろうと思います。