| 2005年11月13日 |
| 「不従順」(使徒7・37〜53) テーマ:私達をすでに神様によってすべての柵から自由にさせられている。 時:05.11.13 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 先々週の礼拝の後、宗教絡みの悩みを抱えている方が教会を訪れてくださいました。2時間余り色々話をしましたが、最後に彼らに、キリスト教は解放の信仰であり、自由の信仰であると申しました。聖書は人をすべての柵から解放してくれる神の約束であって、人を束縛させるモノではないという事も申し上げました。 この事はまた私は忘れずに、新しくバプテスマを受けようとする方に申し上げています。そして、最後には礼拝を守ることを勧めます。ところが、礼拝を勧める時になると相手が混乱や誤解はしないだろうかといつも気にしています。つまり、自由にさせる信仰であると言いながら、なぜ、最後には礼拝に出なければならないという不自由を勧めるのかと相手が思い巡らすのではないかと思ってしまうのであります。 考えてみたら、何をしても良いと言うのが自由ではありません。何もしなくとも良いと言うのも自由ではありません。何をしても良いとか、何もしなくとも良いというのは自由でなく我がままであって、放縦であります。我がままや放縦は他人を前提しません。自分だけがよければと言うことであります。 自由とは何かを喩えで申し上げますが、地球は丸いものであります。また、天体には壁がありません。壁のない天体の只中にいながら地球は一定の角度を維持しながら、決まった方向に、決まった時間で、太陽の周辺を決まったルートを辿りながら回転をしているのであります。地球が勝手に太陽の方向に移動したり、月と接近したりするとどうなるでしょうか。また、いきなり西へと自転するのが狂って、南北に自転をし始めるとどうなるでしょうか。想像するだけで目が回りそうな感じがします。 考えて見たら不思議であります。地球は何処にもぶらさがっていないし、何処にも回転軸を持っていないのにそのようなものを持っているかのように天体の中で決まった運動をし続けているのであります。もし、すべての星がこのような決まった運動から逸脱をすると、忽ち天体は破壊され人類は滅びるでしょう。 聖書とキリスト教が自由を得させると信仰であると言って、すべてを拒むことを是認する信仰であるかと言えばそうではありません。神様の言葉による自由を得させる信仰であります。キリスト教が言う自由とは何の基準もない、中心軸も持たない自由でなく、神様の言葉による自由であります。 先ほど、キリスト教は自由と解放の信仰であると申しましたが、解放とは何かに束縛された状態から自由になった状態であります。こう考えますと、信仰とは逆説的な言い方でありますが、神のない無秩序という束縛から解放され、神の秩序へと移されたことであると申し上げて良いと思います。 繰り返しになりますが、人が宇宙遊泳でもするかのようにまったく何の基準もなくプカプカ浮いているのが解放でもなく自由でもありません。神の言葉による解放と自由が、本当の解放と自由であります。 信仰のない方から見ると日曜日に礼拝に行くキリスト者は教会に束縛された者のように見えると思います。私が昔そうでありました。日曜日となれば山にでも、海にでも行くか、家で昼寝でもすれば良いのになぜ休みの時にクリスチャンは教会に行くのかと思ったわけであります。自分が自由を満喫していると信じていたからであります。しかし、それが自由ではありません。確かに何もしないこと、思うがまま何でも出来るとは肉の自由ではあるかも知れませんが、心の自由、魂の自由ではありません。 話が少し変わりますが、夏まで我が家で子供を看たり、家事を助けてくれたミンキョンからメールがありましたが、彼女曰く、我が家で学んだもの中で「礼拝が生活の中心に」おかれるべきことを学んだと言ってくれました。何よりうれしい言葉でありました。牧師の家庭であるから当たり前と言えば当たり前でありますが、例え、私が牧師でなくとも礼拝を最優先させる生活は変わりがないと思います。そのような心がどこかで彼女に伝わったと思うと嬉しかったわけであります。私の持論でありますが、礼拝に成功すればその方は祝福されます。礼拝に失敗すれば信仰生活の中心軸が揺れているようなものであります。 さて、長々と礼拝を強調しましたが、実は今日の箇所においても同じ事を言っているような言葉が記されています。つまり、44節を見ますと「私たちの先祖には荒れ野の証しの幕屋があった。それは見たままの形にしだがって造るようにと、モーセに語った方のご命令どおりに造ったものである」と記されています。分かりにくい箇所でありますが、ここはステパノが出エジプト記20章以下のことを思い起こしながら語っているところであります。 聖書を通読した方であれば皆思うことでありますが、出エジプト記20章以下を見ますと、幕屋の作り方、祭壇の作り方、礼拝の仕方などが細かく記されていて、まったく読むのに退屈してしまいます。なぜ、そのように長々と無味乾燥と思われることを記しているかと言えば、礼拝や祭壇、幕屋などを人間の思うがまま造るのでなく、神様の言葉どおり造らなければならないという畏敬の念からそのように細かく記録し残したのであります。 勿論、私たちが生きている時代はイエス・キリストの時代であって、律法の時代でありませんので、それにしたがって礼拝堂を建てたり、ささげモノを捧げたり、礼拝のプルグラムを作ったりはしません。でも、そこに記されている内容が含んでいる受け継いでいくべき精神は受け継いで行かなければならないと思います。つまり、人間が勝手に神を礼拝する形を決定したりしてはならないということであります。例えば、私たちは週の初の日にこのように礼拝を捧げていますが、これを都合によって変えてはならないのであります。これは神様が定めて秩序であるからであります。私たちはイエス・キリスト名によって祈りますが、他の名によって祈ってはならないのであります。これは神様が定めた救いの約束の印であるからであります。 初に宗教絡みの悩みを持っている方が私を訪れたと申しましたが、その宗教は聖書的な言葉を使いながら、救い主の名を勝手に変えてしまっている宗教であります。 人間の思いが形になり、それが宗教的なの形になっていくのを聖書は偶像と言いますが、今日の聖書の箇所でも実はこの偶像礼拝をしていたイスラエルを強烈にステパノは批判をしています。この偶像礼拝をしているイスラエルを51節で「ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ、あなた方はいつも聖霊に逆らっているそれはあなた方の先祖とおなじである」と言っています。何週か前から、このステパノの説教から共に聞いていますが、今まで、ステパノはこの言葉をもってイスラエルを批判するために色々語ってきたのであります。また、この言葉によって彼が殺されるようになったと言っても過言ではありません。それほど強烈で、ステパノの思いが詰っている言葉であります。 イスラエルの人々は自分たちが信仰に熱心であると言う自負と共に生きている人々であります。それが誇りであります。そのような人々に向かって心にも耳にも割礼のない者、つまり、信仰のない者だとステパノは言っているのであります。イスラエルの人々は肉にはそのような印を持っているが、心にはそのような印がなく、形だけの信仰者となったと批判をしているのであります。 ステパノが言うように、肉に割礼を持っている事だけを誇りとするのであれば、肉の割礼が偶像化されたと言って良いと思います。この事を言い換えれば、信仰とは人を解放させ、自由にしますが、一旦、自由にされた者が再び信仰という形に束縛されたような格好であります。ですから、それを偶像化だと申し上げたわけでありますが、偶像は人を自由にさせるところか、人を束縛します。文字通り縛り上げるのであります。 今日の箇所で偶像礼拝を徹底的に禁止している神様の言葉を聞くと言いながら実際は偶像礼拝をしてしまったイスラエルの過ちの具体的な例をステパノは二つ取り上げています。 その一つは実は早い段階で始まりました。出エジプト記32章以下にそれが記されていますが、イスラエルの民はモーセがしばらく祈りをするために山に登っている間、金銀で牛の形を造ってそれを拝むようになったのであります。 ここを見ると偶像が生まれる仕組みを知る事が出来るのでないかと思います。モーセが見えないと彼らはすぐパニックに陥りました。つまり、自分たちをリードする指導者が見えなくなった事で、この砂漠で自分たちは何処に行けば分からなくなったと不安に落ちいったのであります。それでモーセの兄アロンに行って、自分たちが拝むことの出来る子牛を造る為に民から金銀を集めたいと願うのであります。アロンはその声にしたがって子牛を造らせそれに供え物を捧げますが、このようにして彼らは求めるべき神様の名を忘れ、聞き従うべき声を失うのであります。 もう一つの例は43節に記されています。ここを見ますと、「モロクの幕屋とロンバの星の神」と言う言葉が出てきますが、これらは星を拝む宗教であったそうです。ですから、これらは当時の中近東にあった土着宗教の一つであったわけですが、それをイスラエルの人々は真似てそのために別の幕屋を造って拝んでいた時期があったようであります。人はこのように古の昔からよく分からない自然現象に対して恐れを覚えたり、自分たちの運命に対して希望を失う時、自分たちの目で見える偶像を造り、それが確実なモノとして自分たちに言い聞かせる習性を持っているのであります。しかし、そのような偶像は、人々に希望を語ったり、人々が進むべき道標となるようなモノは何一つ語ってくれません。ただ更なる恐怖を起こさせ、その恐怖の大きさに従っての供え物を求めるだけであります。 この他にそれほどまでして偶像礼拝を聖書が禁じている理由には、私は思うのにはやはり、偶像礼拝をするようになりますと、本当に聞くべき神様の言葉を人々は聞く事が出来なくなる所にあるのでないかと思っています。例えば、星や太陽の運動の法則を知らない時にはその運動が神秘的に見え、何かの神がそこに潜んでいるかのように思うは分かります。しかし、それを拝むようになりますと、そのようなもは神様がお造りなったモノの一つに過ぎないものであって、それらのすべては神様の手の中にあるものだと言う聖書の言葉を聞く事が出来なくなるのであります。つまり、すべての創造主で、御子イエス・キリストを私たちに送ってくださった神様の言葉を聞く事が出来なくなるのであります。 ところが、今の時代であっても未だに偶像礼拝をする人々がいます。風水のようなものに従って、家の方角をさだめたり、占いの話を聞いて、引越しの日を選んだり、結婚式を挙げたり、葬式をしたりしています。これもまったくの偶像礼拝であります。 もう一つの種類の偶像があります。自分の思いを絶対化して行くと自分の思いが偶像になっていくのであります。つまり、神様に聞き従う前に自分の思いから聞いて、自分の思いから神様の言葉を裁くのであります。このような思いは神様の言葉に聞き従わせない結果を生み出すのであります。それでこれも結局は偶像と同じ働きをしてしまうのであります。ですからこれも偶像の一つであると申し上げたのであります。 神様に聞き従うものは幸いであります。私たちはすべての柵から、解放させてくださる神様の言葉に聞き従っています。もうすでに、解放され自由にされた者であります。私たちはもうすでに信仰によってすべてに勝利を得ているのであります。この言葉を語ってくださる神様に聞くべきであります。他に私たちが偶像を造っても、それから求めてはならないのであります。 イスラエルの人々は偶像を求めるようになってから、彼らはエジプトに戻る事を希望しました。この事は再び奴隷になることを希望することと同じであります。せっかく神様の導きによって奴隷の身から解放され、自由になったのに、一時の物質的な不自由の故に、再び、エジプトに戻って奴隷になろうとしていたのであります。わたしたちはイエス・キリストによってもうすでに死を含むすべての柵から解放され自由にされている者であります。これからもこの事を感謝しつつ、ともに歩みたいと願っています。 |