| 2005年12月11日 |
| 「シモンにまだ苦い胆汁が」(使徒8・14〜25) テーマ:聖霊は如何なる価値より勝っているが故に、如何なる物とも交換できない。 時:05.12.11. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 今日、私たちの教会に新しく長谷川さんがメンバーとして加えられました。長谷川さんはご存知のように陶芸家として名が知られている方であります。また、長年多くの教会で奉仕をしてきた方であります。私は以前から長谷川さんに私たちの教会で共に信仰生活をしながら、教会を指導してくださいと何回も申し上げてきましたが、その祈りと願いがやっと今日、一つの形となったわけであります。とても嬉しく思っています。 私も一年前から長谷川さんに陶芸を習っていますが、最近、少しは陶芸の面白さと難しさを知るようになったのかなと思っています。教室では、いつも「先生」と呼んでいますが、先生が作品を作っているのを見ていますと、手品のように思われる時があります。どんな粘土であろうとも先生の手にかかると先生の意のままの形の器が出て来ます。私も真似て作ってみますとまったく、自分がイメージした形にならないのであります。 ところが、皆さんが見ているとおり先生は何処でも見かけることの出来る初老のお爺さんであります。特別な手を持っているわけでもありません。五本指にしても、大きさにしても私たちと何の変わりのない手をしています。体の何処を見ても器の形は見当たりません。しかし、粘土が先生の手にかかると綺麗な形の器になってくるのであります。目に見えない感性と経験が目に見える形となって表れるのであります。私たちはこのようなことを「表現」と言います。目に見えないものとして内面に潜んでいるモノを何らかの形で外に表す行為あります。 私は時々この事を言っていますが、「料理」も表現であります。同じ素材を使っても人の手によって味が違って来ます。それぞれの慣れてきた味覚と、良しとする味も違っているからであります。勿論、その他にも様々なジャンルにおいての表現があります。しかし、考えてみれば、ある特定の部分だけを区切って一つの表現と言わずに、生きることすべてが一つの表現であると言って良いかも知れません。 ところが、「表現」と「表現力」とはまったく違う意味であります。表現力と言えば「能力」の問題でありますが、「表現」とは能力の抜きにして、内部のモノが外に「出る」現象であって、外に出す「行為」の結果ないし、そのプロセスであります。 緊張して聞かざるを得ない言葉でありますが、イエスはルカ8章17節で「隠れて外に出て来ないモノは一つもない」と言いました。人の心は言葉、行為、作品、料理などあらゆる行為や作品を通して表現されてしまうものであります。 以前、失礼でありながら、長谷川先生に作品の値段を尋ねた事がありますが、予想とおり嫌々なこえで答えていました。モノを造る人は心と愛情を込めて造るものであります。勿論、そうでなく利益だけを考えて、造る人もいますが、大概そうでないと思っています。そのようは心でモノを作っている人に向かって「これいくらか」と聞くのはつらいことであります。 しかし、この世の中は何でも金で計算をしようとします。私たちも知らず知らずしてこのような世に慣れて、つい何でも「これいくら」と尋ねたがります。あなたの家の家賃はいくらか、誰か家を買ったと聞くと、幾らであったかと聞いたりします。ひどい場合は、給料は幾らかなどまで聞きたがります。 学生時代にある先生に聞いた話でありますが。その先生に、何でもお金で換算しようとする癖を持つ友人がいたそうです。例えば、家で食事をしながらもこのご飯を食堂で食べれば幾らに相当するとか、無料のコンサートを聴いたとしたら、今日の幾らほどのモノをただで聞いたとか。これに止まらないで、この絵は、この演劇は幾らに相当するなどと何でもお金で換算していたそうです。その先生は友人を見かねて、あなたのその癖は非常に良くないと言うとしばらく考え込んで「今の助言は幾らに相当する」と言ったそうです。 また、この世は人が事故や事件で亡くなると損害賠償としてお金で計算します。勿論、仕方ないところでもありますが、この事は人の命を金で計算しているわけでなく、大まかに言えば、その人が生きていれば可能な労働日数で計算して損害賠償の金額を計算するものであります。決して、命を直接値踏みしての計算ではありません。 最近、大変韓国を騒がせている問題があります。女性から卵子提供されたある研究機関が金を彼女にはらいました。経緯はどうであれ、売買と言う形になったわけであります。それで倫理の問題として許されてはならないと言う声があって大騒ぎになっています。詳しく言う時間はありませんが、この問題が他の倫理のところまで拡大されて大騒ぎになっているわけであります。 また、これは何処の国においても問題でありますが、密かに臓器の売買が行われます。法律で臓器移植できない場合には他国にまで行って臓器移植手術を受ける場合もかなり多く行われているようであります。まさに臓器の売買であります。 お金さえあればすべてが出来るとか、何でも買えると思っているのであれば、それはとんでもない錯覚であって、傲慢であります。誤解のないように申しますが、私は無条件臓器移植を反対しているわけではありません。条件によっては可能であって、また倫理的にも問題にならないと思っています。 さて、今日の聖書の箇所ではシモンがペテロに「その聖霊いくらか」と尋ねて大変厳しい言葉で叱られる場面であります。とても大事なメッセージが込められている箇所だと思っています。 先週申し上げましたように、シモンはサマリヤのある町で魔術をもって大変な人気を集め、また尊敬を集めていた人でありました。しかし、ピリポが語る福音としるしを見て悔い改め、バプテスマを受けました。つまり、キリスト者となったのであります。先週の箇所によりますと、シモンだけでなく多くの人々がエルサレム教会の執事でもあるピリポによってバプテスマを受けたのであります。その事情を聞いて、エルサレム教会からペテロとヨハネが遣わされました。この箇所を少しひねて読みますと、エルサレム教会は危機感を覚えていたと思います。つまり、エルサレム教会の正当性が問われる時でありました。平たく言えば、エルサレム教会を抜きにして授けたバプテスマを有効なモノとすることが出来るかどうかの問題になってきました。例えば、私たちの役員の誰かが三苫の海でバプテスマを授けた場合、それを教会がどう扱うべきかと言う問題であります。 私たちの教会はバプテスマと主の晩餐の二つは教会の固有の礼典であると言う認識と告白にたっているわけでもありますが、兎に角、このようなこともあって、ペテロとヨハネがサマリに派遣されましたが、来て見ると皆のバプテスマは水によるバプテスマであって、聖霊によるバプテスマでなかったと記されています。 そこで、ペテロとヨハネは皆の上に手を置くと聖霊が下ったのであります。このことを傍らで見ていたシモンはその業を金で売ってくれないかと聞いたのでありました。これを聞いたペテロは怒って、19節20節にまたがる所に記されていますが、「神の賜物が金で得られるなどと思っているのか、お前の心が神の前で正しくないから、お前は到底、この事にあずかることができない」と言ったのであります。端的に言いますと「お金で神の業さえも買えると思っているあなたにはバプテスマを授ける資格がない」と言うことであります。 ここを見ますと、シモン自身もすでにバプテスマを受けていましたが、まだ、バプテスマの意味を知らないでいたようであります。それで魔術師の時代の習性が出てしまったようであります。つまり、金持ちの魔術師の内面が言葉を通して外に現れたのであります。 バプテスマとは今までの自分が死んで、新しく生まれることであります。ただ教会の一員となるための手続きとしてのバプテスマではありません。もし、そのようなバプテスマが行われるのであれば、まさに水によるバプテスマであり、中身のない形だけのバプテスマであります。 考えてみたら、教会も一つの形をもってこの世に存在しています。また、バプテスマも主の晩餐も一つの形であって、表現であります。それをもって外に現すしかないからであります。しかし、決定的に大事なのはその形の内部に秘められている意味であります。つまり、教会は目に見える形がすべてでなく、目に見えない神様によって出来ているし、今も目に見えない聖霊によって導かれている群れであります。同じことでありますが、バプテスマも受ける事は目に見えない聖霊の導きによってイエス・キリストを主と告白し、目に見えない復活のイエス・キリスト共に新しく生きることであります。このイエス・キリストと共に生きていることの告白がまた主の晩餐であります。 キリスト者でない方もよく十字架のペンダントを見につけていますが、その方にとって身についている十字架はまったく飾り物に過ぎません。その方はその十字架の形や、その形がペンダントとして流行しているかどうか以上の意味はまったく問わないからであります。今日の箇所でのシモンもそのような飾り物としてのバプテスマを受けていたかも知れません。 少し笑い話でありますが、何でも新しく買ったものは不思議かって色々弄りたくなります。私が携帯電話を新しい機種に変えてから、しばらく携帯についているカメラが面白くて色々とっていました。ある時、一寸した悪戯で私が持っている一万円札を財布から取り出して、番号が移るようにしてとってからこれは私のものである証拠だと言いますとある婦人が隣で見て笑いながら、「お金に先生の名前も書きましょうか」と言っておりました。 お金は他の物のように所有できるものでありましょうか。他のモノとは性質が違います。例えば、他のモノのように所有することが出来れば、お金に名前を記しておいて、いつまでもその所有権を主張できるかも知れません。しかし、そうならないのであります。このことを法律的な理屈からはお金においては所有と占有を切り離すことが出来ないと言います。 一昨日みずほ証券が証券の取引を誤って、10分ぐらいの間に300億円ほどの損失を出したそうですが、私はニュースを注意深く聞いてみても、また次の日の新聞をゆっくり読んでみても、どのような仕組みになって、どのようなミスがあってそのような損失が出たのか具体的なイメージが沸いて来ませんでした。しかし、どうやら架空の取引をしていたようであります。つまり、ない物を売ってしまって、それを買い戻さなければならないようであります。そのための経費が300億円と言う話のようであります。実在しないものを売ったり買ったりすることはありえない話でありますが、どうやら有価証券の場合はそれが可能のようであります。 考えてみたら、お金も貨幣の手段としても使われることのある金(キン)と違って、お金の場合はまったく架空のモノであります。お金自体には価値がありません。美術的な価値があるわけでもなく、他の目的に使用するにも不便そうな紙の質と大きさであります。お金とは実在する何かのモノやサービスがあって、それを互いが交換するための基準としての数字にすぎないものであります。 しかし、人々は今日の箇所でのシモンのようにお金に対して神話のようなモノをもっています。つまり、お金さえあれば、何でも出来るし、何でも買えるし、幸せになると思い込んでいるのであります。確かにお金で何でも出来るのであれば、お金が万能であれば、神様に取って代わることも出来ると思います。しかし、先ほど申し上げたように、もともとある物、作られたものの交換価値を定めるための数字に過ぎないものであります。架空のモノであります。 この世のすべてを支配する方は神様であります。神様の言葉によってすべてが造られ、今も保たれています。その神様と私たちを繋いで下さるのが聖霊であります。この聖霊をモノの交換価値としての金で買えるわけがありません。また、他の形あるモノと交換できるものでもありません。 聖霊がほしいのであれば、つまり、聖霊の働きが自分の身の上で行われるのを願っているのであれば、やはり、私たちは主イエス・キリストの名によって祈りながら、イエス・キリストの言葉と共に歩む時、目に見えない聖霊が私たちの手足、言葉と言う形として現れるのであります。これがまさに聖霊によるバプテスマであると言って良いのではないでしょうか。これからも聖霊によってバプテスマを受けた者として共に歩みたいと祈っています。 |