2005年12月18日

「まごころから信じるなら」(使徒8・26〜40)

テーマ:人の心から無くしてはならない部分。

時:05.12.18. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤

まだ一寸早い話かも知れませんが、今度の正月にはお雑煮を作ってみようと思って、この間はお雑煮のレシピをインタネットで調べてみました。地方毎に作り方が違っていてその数に改めて驚きました。

それを眺めながら考えてみましたが、「お雑煮」と言う共通の認識に基づいての「実物」はないと言って良いと思いました。つまり、それぞれの地方や家庭のレシピにしたがって作り、お正月に食べている「汁」を「お雑煮」と呼んでいるだけかも知れないと思ったわけであります。

これに似ていることでありますが、ドイツの人はクリスマスの時期になりますとシュトーレンと言うモノを食べます。これにもお雑煮と同じく決まったレシピがあるのでなく、地方によってそれぞれ違うようでありますが、私が食べたシュトーレンから言えば、シナモンの香りが少し強いだけであって、他のケーキと変わりがありません。しかし、ドイツ人には他のケーキとは違うもののようであります。

話が変わりますが、去年の夏、私は久しぶりに私の故郷を訪れることが出来ましたが、その際に従兄弟に誘われてお先祖の墓に行ってきました。大変立派な墓を作って曾おじ、曾おば、祖父母、叔父も同じところに埋葬されていました。もともと違うところに埋葬されていましたが、後で移したわけでありますが、その事をなさったのは故郷にいる叔父であります。その墓の前で従兄弟は韓国の伝統に従ってお辞儀をしていましたが、私はただ立って祈りをしただけであります。

ところが、その従兄弟も叔父もカトリック教会に属するクリスチャンであります。プロテスタント教会のクリスチャンはおそらく私と同じく、例え、周りの人々からひんしゅくを買うことが予想されても墓でお辞儀をすることはしないと思います。なぜなら、それはキリスト教の教義とは相容れないモノだと思っているからであります。しかし、同じ聖書を読み、同じくイエス・キリストを主と告白するカトリック教会に属ずる方々にはその事にそれほど違和感がないようであります。

このように世俗の文化であろうとも、教会の中での文化であろうとも時代と地域によって異なり、また、変化するものであります。時には、その変化と共に成長もし、時には衰退もするものであります。つまり、様々の要素がある文化に入り込んで、その姿を変えたりします。

しかし、変化することは当たり前と言って、まったく変わって以前のモノの性質や姿がまったく消えてしまうことは変化であるとは言えないと思います。要するに何かの基準に一致するものがあって初めて、本質的には同じだとか、また、同じ名で呼ぶのに相応しいと言えるのであります。

先の例から言えば、団子汁と同じく見えても「正月」が基準になって、その時に食べるのをお雑煮であり、他のケーキと同じく見えても「クリスマスの時期」に食べるモノをシュトーレンと言うのであります。このよう一つの基準を持っています。

変化、多様と言う面において人の心は如何でしょうか。様々な思いが毎日と言うか、瞬間瞬間に人の心を出入りします。昨日までよしとしていたことが今日は悪く思れたり、昨日まで恋しくて止まなかった人が今日は口も聞きたくないような時もあろうかと思います。昨日までの自分と今の自分はまったく違う者のように思われる時さえもあります。でも、何かの基準をもって自分だと言っているはずであります。

ここで自分が自分であり続けるその一定の基準を申し上げることは出来ませんが、人の心にはこのように常に様々な思いが出入りするモノであることを申し上げたいのであります。

私たちは「純粋な物」である事を言い表すために包装紙に「100%蜂蜜」「100%果汁」などと表記されているのを度々見かけます。勿論、他のモノが混ざっていないという意味であります。これと同じく、まったく心が変化もなく、混じりけのないひとつの思いでいっぱいであることを数字で表そうとすれば「100%の心」と言うことになろうかと思います。

さて、今日のメッセージのタイトルを「まごころから信じるなら」としましたが、はたしてまごころとは何でしょうか、また、先申し上げましたように、心はいつも変化していますが、何処をもって混じりけのない「まごころ」と言えるのでありましょうか。さらに、いつも私たちの問いでもありますが、何の基準をもって純粋なキリスト教、または本物のクリスチャンと言えるのでしょうか。このことを少し共に考えてみたいと思います。

その前に聖書の事を少し先に申し上げたいですが、私はいわゆる口語訳聖書を使っています。始めに手にした聖書でありましたので、どうしてももっとも読みやすいのであります。しかし、私たちの教会は聖書は自由に何でも使うことを方針としています。口語訳であろうとも、共同訳であろうとも、改定訳であろうとも、自由にしようとしています。

こういう事情で、皆さんの中には共同訳をもっている方も多いですが、実は今日のメッセージのタイトルの元にもなっている箇所の37節がそこにはありません。これは権威あるギリシャ語聖書には実は37節がなく、いわゆる異本にはあります。つまり、ルカがもともと書いた時にはなかったのを後になって他の人が付け加えたのであります。ある意味で純正でない言葉が混じって来たのであります。と言って、この口語訳聖書は偽物であるとか、共同訳聖書とまったく違う聖書だと言うかといえばそうでありません。そのような違いは確かにあっても同じ「聖書」だと言うのであります。

今日の箇所を理解するためにもう少し背景を申し上げなければならないと思いますが、今日の箇所に出てくるエチオピアの宦官はいわゆる求道者であったようであります。まだバプテスマは受けていませんでしたが、馬車の上でも聖書を読んでいたところから推測しますと、一生懸命に聖書を読み、学んでいたようであります。ところが、彼はイザヤ書を読んでいたが、その意味がはっきりしないでもやもやしていたようでありますが、丁度、その時、エルサレム教会の執事ピリポが近づいて来たのであります。

このピリポは先週申し上げたように、エルサレムでの迫害を逃れてサマリヤに来ていましたが、使徒でもないのに人々にバプテスマを授けていました。それでエルサレム教会は慌てて、ペテロとヨハネをサマリヤの地に派遣しましたが、その目的はどうやら、ピリポが授けてバプテスマを有効なものとして認知しようとしていたようであります。

また、詳しい経緯が記されていませんので、推測するしかありませんが、その際にピリポは人々にバプテスマを授けて良いという許可をペテロとヨハネから受けていたようであります。そのような事があった後の始めて受浸者が今日のエチオピアの宦官であります。

ところが、26節をみますとピリポは主の使いに言われてガザへと行き、そこでその宦官に出会ったのであります。つまり、二人の出会いは偶然でなく、神様の導きによる出会いであったと記しています。

考えてみたら、人と人の出会いは不思議であります。永遠に流れる時間であります。限りなく広い宇宙であります。この二つの条件を考えますと、ある特定の人と今、ここで出会うという可能性はまったくゼロであります。しかしながら、私たちは現に互いが出会っているのであります。例えば、皆さんと私との出会いがそうであります。なぜ、私が、皆さんと同じ時代にこの地球に生まれ、韓国から日本に来て、また、東京から福岡に来て、さらにこの教会に招かれて、皆さんと兄弟姉妹として立っているのかを考えますと不思議としか言い様がありません。

仏教ではその不思議を「縁」と言いますが、キリスト者は「神の導き」と言います。神様の計らいがあって出会いが許されているのであります。今日の箇所はこのことを「主の使いがピリポに向かって言った『立って、南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい』そこで彼は立って出かけた。すると丁度、エチオピアの人の女王カンダケの高官が云々と記されているのであります。

このようにして出会った二人でありましたが、先ほど申し上げたようにその宦官はピリポにイザヤ書がイエスの受難を予言している箇所についてどのような意味であるかと尋ねたわけであります。今日の箇所ではピリポがイザヤ書をどのように解き明かしているのか記されていませんが、間違いなく、イエスの十字架での苦しみと復活を語ったと思われます。その話を聞いていた彼は水を見つけると急にバプテスマを受けたいとピリポに申し出たのでありました。するとピリポは何の条件も問わず、「まごころから信じるなら」授けようと言ってバプテスマを授けたのであります。

 私たちの教会ではバプテスマを受けたいと申し出る方がいれば通常2時間ずつ4回の学びの時を持ちます。その時、バプテスマの意味や、具体的な教会生活、などを共に学んでからバプテスマを授けています。他の教会では私たちと違う方針でバプテスマを授けることも幾らでもあろうと思います。ある牧師から聞いた事でありますが、ある方が夜中、牧師館来て、どうしても今バプテスマを受けたいと強請ったそうです。それで通常の方針を破ってでもバプテスマを授けたことがあると言っておりました。

今日の箇所でもエチオピアの宦官はいきなりバプテスマを受けたいと言っているのであります。バプテスマを受ける条件は今日の箇所が示しているように「まごころ」以外に何かありましょうか。よく聖書についての知識が条件でありましょうか、聖書に知識があれば良いことでありますが、条件ではありません。寧ろ、聖書への知識がバプテスマを受ける決心を妨げることさえあります。この他にもその人の社会的な地位、人種、性別、今までの経歴など如何なるものもバプテスマの条件になりえません。一つあるとすれば、「まごころ」であります。本当に本人の決心で受けたいのか、それとも周りの雰囲気に呑み込まれて、感情的になって受けたいのか、よく本人が吟味すべきであります。

 ところが、始めに申し上げたように人の心は変わっていきますし、また、様々モノが混じっています。例え、感情的な気持ちで受けるのでなく、最後まで信仰に生きる決心と共に受けたとしても、その決心に時間と周りの条件によって変化をもたらすのであります。

時々、私は韓国の教会の事情を聞いていますが、バプテスマないし洗礼を受ける理由として、営業するためにとか、時には政治活動を有利にするために受ける人がいるようであります。韓国のように大きい教会で起こりうることであろうと思います。兎に角、最もわかり易い例でありますが、これこそ「まごころ」ではありません。入信と言う決心以外に他の目的が混じっているからであります。

このような事を手かがりにして言えば、私たちの中にある「まごころ」とは、何かの不純なモノが取り除かれ、また、一時的な感情も取り除かれたモノであります。これをバプテスマと結び付けて言いますと「バプテスマと共に今までの自分は死んで、復活のイエス・キリストと共に生きる決心」をすることではないかと思います。これが唯一のバプテスマを受けるための条件であります。

しかし、信仰とは生活でおります。この故に、バプテスマを受ける決心とはただ心理的な働きであってはならないと思います。つまり、生活のところまでそのバプテスマを受ける時の決心を延長する覚悟が「まごころ」ではないかと思います。

このことは文化や、教会によって様々なバプテスマのついての制度的な違いがあっても一致すべき一つの基準であろうと思います。そのような決心をし、また実際にその決心に基づいて生活をする群れが教会であります。また、そのような「まごころが」があって始めて信仰が、生活の中で具体化されていくのであります。共にこれからも「まごころ」をもって主イエスに従って行きたいと思います。