| 2006年1月8日 |
| 「パウロの目からウロコが」(使徒9・10〜19前半) テーマ:敵を受け入れるより大きな愛はない。 時:06.1.8. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 皆さんはこの年末年始を如何過ごしたんでしょうか。家族や久しぶりに会った方々と楽しい一時を過ごしただろうと思います。私も余裕をもって暫く過ごすことが出来ました。牧師にとっては一年中もっともゆっくり出来る時はこの年末年始ではないかと思います。 私たちの家族は元旦礼拝が終わって門司港にある国民宿舎で二日間過ごしましたが、門司港に出発をする際に最近、手にしている宮谷宣史氏の「アウグスティヌスの神学」と言う本をカバンの一番上に入れて置きました。そして、門司港については去年の事を思い起こしたり、これからの事を思いつつも、また、持ってきていた本を読んだりしました。 ところが、この本のなかで、「アウグスティヌスの回心」と言うところに至って色々考えさせられました。彼はとても複雑な言葉で自分の経験としての回心を神学的に説明しようと試みていたようであります。最初から難しそうな言葉を選んだわけではないと思いますが、回心の際の自分のこころの動きを回心への神様の呼びかけがあったことを前提にしながら、神学として体系化する内にそのような言葉になってきただろうとは思いましたが、私としてはもっと単純な言葉で言っても良いのにと思われるところもありました。 つまり、彼によると回心に至るためには、「神からの働きかけ、照明、権威、恩恵の助け、人間の自由意志による応え」が必要であると言っています。これらの言葉の意味をその本中で彼はまた一つ一つ説明していたことが紹介されていたわけであります。また、これらは当時、キリスト教を攻撃していた人々との論争の中で生まれた言葉でもあることを考慮しながら読まなければなりませんが、私としてはより単純化した言葉で言いたいと思ってみたわけであります。 このような思いに至っては本も目も閉じて暫く考え込んでしまいました。そして、今の私にとって省略できる言葉、省略できない言葉はなんだろうと考えて見ました。そのような思索をしているなかで与えられた言葉があります。これはこの間の祈祷会の時にも紹介しました。また、言ってしまえば、こく当たり前なことであって、また何時も聞く言葉であると思われるかも知れませんが、とても大事な言葉であり、教会はこの使命に立つべきだと改めて思いました。つまり、「教会が人を集めないで何をするか」でありました。勿論、これはもっとも単純化された言葉でありますので、その周辺的な事などをよく吟味すべきであります。 教会は金や物を集めるところではありません。人を集めるところであります。兄弟姉妹を集める所であります。また、人が自然に集まるのを待つだけで良いほど、この世は楽観的な状況でもありません。多くの人々は自分には救いが、神の言葉が要らないと信じて生きています。つまり、この世は罪に満ちています。今日のタイトルで言えば、目にウロコがついているまま過ごしながら何の不自由も感じないでいる人が多いのであります。教会は無条件に人を集める所であります。何か有能な人や善良なる人を集めるのでなく、男であろうとも、女であろうとも、私に有利な人であろうとも不利な人であろうとも、子供であろうとも老人であろうとも、条件を設けずに人を集め、共にキリストの名においての兄弟姉妹として互いに愛するところであります。教会はこの使命に立っていると信じています。さらに言えば、私たち一人一人にその使命があります。また、考えてみたら、これは誰でも出来る業であります。全ての人がまったく平等に出来る業であります。 私は巧みに話が出来ないから、人を集める才能がないからと言ってもならないのであります。なぜなら、教会はあるがままの姿で、持っているままの言葉で人を集めるところであるからであります。何か本来の姿でないものを見せながら、内心持っていない言葉をもって人を集めるところでありません。つまり、ふたこころを人を集めるところであってはなりませんので、巧みな言葉は要りません。 繰り返しになりますが、自分の手に何かの特別なタレントがないから人を集められないと言ってはならないのであります。例えば、音楽の才能がないからピアノが弾けない、歌が歌えないとは言えますが、人を集めるには何の才能も要りません。極端な言葉で言えば、何かの才能で人を集めようとすれば、そこは教会ではありません。巧みな言葉で人を集めようとすれば、そこはふたこころがあるところであります。 自分が人を受け入れる姿勢さえ出来ていれば、人を愛しながら生きたいと言う祈りさえあれば、誰でも出来る業が人を集めることであります。また、人を集めるほど大きな業はないと思います。神様がもっとも喜ぶ業であろうと信じています。 勿論、人を集めるのが教会の使命だと言われても、自分の内面からその意義が示されないと実際に人を集めるために自分が用いられたいと言う祈りも働きも出来ないと思います。もし、そのような方がいらっしゃれば、神様の言葉が示されるように祈ります。 さて、今日の箇所はアナニヤとパウロとの出会いの場面であります。アナニヤと言う人がパウロと言う敵を受け入れてバプテスマを授ける場面であります。ところが、アナニヤとパウロとを人間的な働きから比べえるとパウロはアナニヤよりはるかに多い仕事をしました。パウロは教会の歴史において偉大なる足跡を残しました。パウロには多くの才能がありました。また、生まれつきの情熱的な気質もありました。しかし、アナニヤは文章においてもパウロのような才能がなかったのか、彼が残した手紙や神学書はひとつもありません。しかし、彼はパウロと言う偉大なる人を懐に受け入れることの出来た人でありました。この意味においてはパウロより大きな人であります。 アナニヤと言えば、使徒行伝の5章1節にもう一人が登場しますが、彼は自分の妻と共謀して献金をごまかした人でありました。同じ名前を持っていても一人は神に充実な人として、一人はそうない人として聖書に記されているわけでありますが、今日の箇所のアナニヤも最初は神様から声を聞いてそのような事は出来ないと思っていまいした。つまり、13節を見ますと「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについて多くの人たちが聞いています」と応えながら、パウロのところに行くのを拒もうとします。アナニヤはまだパウロがイエスの光と声によって、もう回心をしているのを知っていないからであります。ですから、アナニヤにとっては依然としてパウロは敵であったわけであります。 しかし、イエスは「ご自分の名を伝える器としてご自分が選んだ」者であるが故にパウロのところに行くように諭します。ここをみると人間的な思いとイエス・キリストの計画とのあいだには時には大きは溝があることを知ることが出来ます。言い換えれば、神様の思いを人間的な思いや計算では到底理解できない時があります。 考えによっては、パウロに幾ら才能があるとしても、その他に優れている人は幾らでもあるはずであります。つまりパウロの選ばなくとも良いと思いますが、神様は彼を選んで自分の名を伝える者としようとしているのであります。 以前ある方とこのような話をした事があります。教会とは人を選んではならないが故に、例え、ヒトラのような人が回心して教会の群れに加わろうとすれば、受け入れるべきであると言いました。そのような際には教会のなかでも多くの葛藤があろうと思います。時にはある方はそのような人と共に兄弟姉妹として立って信仰生活は出来ないと言って受け入れるのを拒否したり、受け入れたとしても他の教会に移ってしまうこともあろうと思います。確かに難しいことであります。まったく個人としては、そのような人とは距離をおきたいものであります。でも、キリスト者であるが故に、受け入れたくない自分を越えてキリストの声に聞き従うべきであろうと思っています。例え、そのような人を受け入れることによって教会に大きなダメージを受ける危険が予測されるとしてもキリスト者として、牧師として立っている以上、受け入れるべきであろうと信じています。 先ほど、「教会が人を集めないで何をするか」と言いましたが、これはただ人数だけが多くなれば良いと意味ではありません。人数だけを増えれば良いとすれば、時には人を選別して受け入れるべきであります。つまり、ヒトラのようであった人は受け入れるべきではありません。教会の量的に成長に妨げになるからであります。しかし、わたし達は「キリストの名の故に」人を選別しないで人を集めようとしているのであります。 「キリストの名の故に」と言うのはこのように時には私たちの限界へのチャレンジを迫るのであります。と言うよりわたし達キリスト者はもうすでに自らの限界を超えたところに立っているのであります。 話を今日の箇所に戻しますが、17節をみますとアナニヤは自分の限界を超えてキリストの声に従いパウロのところに来て、パウロにかけた初めての言葉は「兄弟、サウロよ」であります。キリストの名の故に敵が兄弟になっていく瞬間であります。パウロはこの言葉が忘れることが出来なかったようであります。今日の箇所よりずっと後の22章の13節を見ますとパウロは今日の箇所が記している出来ことを思い起こしながら、アナニヤが自分の所に来て「兄弟よ、目が見えるようになりなさい」と声をかけてくれたと記しています。とても嬉しい記憶であったと思います。 このようにしてアナニヤとパウロは手を取り合いますが、そうこうしているうちにパウロの「目からウロコ」のようなモノが落ちたと記されています。ご存知のようにこの「目からのウロコ」はとても有名な言葉であって、キリスト者でなくとも日本語として使われる言葉であります。 しかし、わたし達はややすると「目からウロコ」と言う言葉に対して間違ったイメージを抱いているのではないかと思います。つまり、イエスの声を聞いてパウロの目からウロコのようなモノが落ちたと思っているのではないでしょうか。しかし、よく読みますと必ずしもそうではありません。アナニヤの言葉と祈りを聴いてパウロの目からウロコのようなものが落ちたのであります。勿論、アナニヤの言葉と祈りはイエスによって導かれたものでありますが、いずれにしても、充実に本文を見る限り、パウロの目からウロコが落ちる切っ掛けとなったのはアナニヤの行動と声によるものであります。 因みに申しますが、キリスト者の多い韓国でありながら、この「目からウロコ」と言う言葉は韓国語にはなっていません。今、考えてみればそれであったか、私の母はよく私たちが子供の時、何かを見落としたりして、転んだりすると「目に鱈の皮」をつけたのかと言いながら怒っておりました。 目のウロコではありませんが、町に出るとたまに目の色が青い女性を見ることが出来ます。色のついたコンタクトをつけているからでありますが、その女性にはこの世が青く見えているはずであります。ピンクの色のコンタクトつけるとこの世がピンクに見えるはずであります。あるがまま見えないで特定の色でしか見えないわけであります。しかし、このようなコンタクトの場合、自分で意識的にそのような色のコンタクトをつけたと認識していますので、自らが外すことが出来ますが、「目にウロコ」とはそのように自らつけたと言う認識がない状態であろうと思います。 繰り返しになりますが、目のウロコとは本人はあくまで自然なモノとして、当然なモノとしてしか受け止めないモノではありながら、実はそうでない状態であります。 考えてみたら大変な不自由な事態であります。しかし、本人は不自由だと思わないし、自分は正しくあるがまま見ていると思うのであります。まさに、パウロがそうでありました。そのパウロにアナニヤを通して一大の転換期が来たのであります。自分の今までを完全に否定しなければならなくなったのであります。それを目からウロコが落ちたといっているのであります。 人は神の言葉から自分を見なければ自分が見えないものであると思います。まったく鏡を通さないと自分の顔を見ることが出来ないのと同じであります。神の言葉を通して自分のこころを見る時、自分に驚くのであります。 パウロはそのような驚きと目からウロコが落ちた自由を覚えつつアナニヤによってバプテスマを受けただろうと思います。彼がイエス・キリストの言葉を受けて町に出てやった始めての事がバプテスマを受けることであった言っても良いと思います。今年は多くのバプテスマへの決心者が与えられるのを期待しています。 |