| 2006年2月12日 |
| 「神が清めたモノ」(使徒10・9〜16) テーマ:宗教的な理念をもって神による被創造物を汚れていると言ってはならない。 時:06.2.12. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 トリノ冬季オリンピックが始まりましたが、スポーツの好きな方々には暫くテレビが楽しくなるのでないかと思っています。このオリンピックの開会式をほぼ全部を見ましたが、色々複雑は思いがしました。 開会式でジョン・レノンの「イマジン」が歌われていました。訳せば「想像してご覧なさい」となるでしょうか。これは平和を訴える定番の歌でありますが、その歌詞には「宗教を越えて」平和を築こうと言う意味の部分があります。確かに信仰、宗教が争いの元になってはならないと思いますが、現実は如何やらそうでない一面があります。 私たちの信仰者としては「宗教を超えて」でなく、「信仰の中で」平和を築こうと言いたいところであります。 言うまでもありませんが、人は等しく神によって造られたものであります。従って、この神による被創造物を襲うのは神に反逆することであります。如何なる宗教的な理念や自尊心を掲げても、この神への反逆は正当化されないものであると信じています。今、丁度、宗教による争いが激しくなっているからこそ、ジョン・レノンのその歌が選ばれたのではないかと思いながら聞いていた訳であります。 これもテレビの話でありますが、今まで何回と数えないほど見ていながら、何を宣伝しているのかは覚えていませんが、印象に残っているテレビのコマーシャルがあります。場面は海辺を散歩している中年の夫婦の後ろ姿から始まりますが、急に夫が奥さんの前に背中を向けて座り込んで、おんぶするように勧めます。すると奥さんは夫の背中を軽く押しながら「何馬鹿のことをおっしゃるの」と言いながら拒みます。皆さんも覚えているコマーシャルであろうと思います。もうかなり長い間、続いていますが、なかなか厭きないものだなと思っています。 私はそれを始めて見ながらとても日本的な一つの風景だと思いました。日本人はなかなか自分の感情を表現しません。例え、夫が奥さんを愛していても「愛している」とはなかなか恥ずかしくて言えません。また、感謝する気持ちを持っていてもそれを言うのはなかなか大変なことのようであります。 そのコマーシャルは、何時も奥さんに感謝の気持ちを持っている夫が、唐突にその気持ちを伝えたくなってはいるが、言葉では言えずに、おんぶするように勧める一場面を描いているのであろうと思います。多くの男性がその場面と自分の気持ちとをオーバーラップさせながら見ているだろうと思います。 奥さんも有難うとは言いながら遠慮するか、すこしは嬉しそうに夫の背中に乗れば良いですが、それが出来ずに「何馬鹿なことをおっしゃるの」としか言えないのが、また、日本的であります。もし背中に乗れば、それはもう日本的なものではなくなると思います。 ある牧師の説教を聞きながら笑いましたが、牧師に、家庭でたまには奥さんに「愛している」とか「有難う」を言うように勧められたある主人が、なるほどと思ってやってみようと決心をし、声を出して言えるように練習をしたそうです。そして、家で奥さんに練習したものを言おうとしてもなかなか言えずにいたそうです。すると奥さんがその気配を可笑しく思ったのか、何か話があるのと聞かれたそうですが、すると、ご主人は練習したことは言えずに「お茶ちょうだい」と言ってしまったそうです。作り話のようでありますが、でも、それほど違和感のない話であります。 申し上げたいことは、私たちは自分の文化や経験の中で住んでいます。それを越えるのはなかなか難しいと言うことであります。頭で理解し、分かっていても今までの習慣や経験を越えて、新しい文化や考え方を受け入れるのは困難であります。例えば、日ごろ自然と「愛する」、「有難う」を言う夫婦であれば、いつでも出来ますが、まったく言わない夫婦の間であれば、誰かに勧められ、納得しても、それを実行するのは難しいことであります。 このことは当然でありながら信仰、宗教の場合も生じてきます。例えば、仏教でもインドや中国、朝鮮半島、日本がそれぞれ違う面を沢山もっています。つまり、仏教の教えは一つであるはずでありますが、それぞれの文化と絡み合って少しずつ違う形になって現れたのであります。 キリスト教の場合も事情は同じであります。これを信仰の土着化と言って良いかも知れません。つまり、信仰の制度や理解がその土地と時代によって異なったりするものであります。 身近な例でありますが、アメリカバプテスト教会の宣教師にとってはまったくアルコールやタバコを禁忌であります。韓国の教会もそうですが、殆ど教会の牧師は絶対と言って良いほど酒とタバコは禁止されています。しかし、日本ではあまり問題にしません。 しかし、日本の場合も最近そうなったのではないかと推測しています。20年ほど前までは西南学院神学部ではタバコも酒も禁止されていたそうです。実際、タバコを吸って退学処分を受けた先輩がいたようであります。このように信仰も時代が変われば、その現れ方も変わるものであります。 因みに申しますが、私はタバコも酒も信仰と直接的な関係はないと思っています。つまり、タバコを吸ったり、酒を飲むから誰々は信仰がないとか、熱心ではないなどとは言えないモノであろうと信じています。酒は適当に飲むべきであり、またタバコは健康に良くないから出来れば、遠慮すべきであるとしか考えていません。 さて、聖書の箇所はペテロが大きなチャレンジを受けるところであります。ご存知のようにユダヤ人には絶対避けるべき食べ物がありました。つまり、レビ記11章1以下には詳しく清いもの、清くないもの、食べられるもの、食べてはならないものが記されています。何故か、動物の場合、ひずめが分かれて、反芻するものは清いものであって、そうでないものは汚れたものとして食べてはならないものとされています。鳥もハゲワシとか、とびなどは清くないものとされています。魚にもまたそのようにしてある基準をもって清いものとそうでないものとに分けられています。 ユダヤ人にとってはこれは絶対的なことが柄であって、大事に受け継がれてきた戒律であり、またこの戒律によって周辺的な文化や考え方が形成されていたのであります。その戒律を守る者が信仰者であって、それは守りきれない者は、神の言葉に背を向いた者とされていました。先ほどのレビ記において記事の最後に当たる45節を見ますと「わたしはあなた方の神となるため、あなた方をエジプトの国から導き上った主である。私は聖なるものであるから、あなた方は聖なる者とならなければならない」と記されています。つまり、これらの戒律を守る者が聖なる者であって、そうでないものは聖なるものではないと宣言されているのであります。 ここの「聖なる」とは神に属していると言う意味で理解して良いですが、こう考えますと、戒律を守る者のみが神に属している者であって、そうでないものは神に属していないという意味にもなります。つまり、信仰にたいして熱心であるか、そうでないとかと言う信仰の熱心さの程度の問題でなく、信仰者であるか、非信仰者であるか、ユダヤ人であるか、非ユダヤ人であるかと基準になるのであります。 ペテロも貧しいながらもイエスと出会うまではそのような熱心なユダヤ人の一人でありましたが、ユダヤ文化にたっぷり漬かっていて、その文化の外に出ることは思いも及ばなかっただろうと思います。しかし、イエスと共に歩むようになっては、多くの律法を越えて、生のイエスの言葉に従うようになっていました。 しかし、今日の箇所をみると今になって再び、ユダヤ教の戒律に捕らわれて空腹を覚えながらも、清くないものは食べられないと言っているのであります。つまり、神様の声を聞きながら、その声を自分の文化や律法をもって拒むのであります。 ところが、今日の箇所を注意深く読みますと信仰上の食べ物の話ではありません。9節を見ますと「翌日、この三人が旅をつづけて町の近くに来たところ、ペテロは祈りをするため屋上にのぼった」云々となっていますが、ここの三人とはコルネリオがペテロを招き入れることを勧める幻をみて送った三人であります。この三人がペテロの所に近づいていた時、ペテロもまた屋上に上って今日の箇所の幻を見たのであります。このことを考えますと、今日の箇所での食べ物が清いとか、清くないという話はそのまま、ある人は清い、ある人は清くないと言う等式の意味合いを持つ話であります。つまり、いまだに、ペテロの心中では清くない異邦人を受け入れるのは出来ない、受け入れてはならないと思っていました。しかし、神様はペテロの幻を見せて神が清めた人を清くないと言ってはならないと三度も諭すのであります。 繰り返しになりますが、ペテロが清くないという思う根拠は勿論、律法であって、これに基づいてのユダヤ教の文化であります。しかし、神様は幻を見せながら、この律法と文化から自由になることを促していますが、ペテロは依然として今までの考え方によってこの神様の啓示を三度も拒むのであります。 では、レビ記などの記されている律法はイエスの以降の時代になった今、私たちは如何理解すべきでありましょうか。まず、聖書全体の構造をすこし思い出して頂ですが、初めに創世記であります。次が出エジプト記であります。その次がレビ記となっています。 今日のテーマに沿うように多くの部分を省いて申しますが、初めの創世記はアブラハムが偶像礼拝を拒んで、創造主の声にしたがって自分の故郷を出ます。真の創造主との出会いを求めての旅が始まったのであります。この旅の中でユダヤ人と言う共同体が形成されていきます。 出エジプト記は、アブラハムから始まって形成されたユダヤ人はエジプトの奴隷の状態になっていました。そのユダヤ人を神様はモーセを通して奴隷の状態から救い出すのであります。しかし、彼はまた砂漠を彷徨います。そこで、ユダヤ人が信仰の共同体として礼拝の形が整えられるのであります。そのために与えられているのがこのレビ記であります。 そして、この礼拝の形に収まるのがユダヤ人であって、この形からはみでるのが異邦人と言うことになったのであります。 例えば、この律法が与えられる以前、もうすでにユダヤ人の共同体は豚肉やウロコのない魚は食べないと言う食文化をもっていたようでありますが、このような仕来りに基づいて、神様は選ばれた民としてのユダヤ人の形を維持するために、先ほどのレビ記11章以下のような律法ないし基準を与えただろうと信じています。これが食べ物を清いモノと汚れたものとにより分ける律法であります。 当然でありますが、このような基準がある限り、ユダヤ人と非ユダヤ人と言う隔たりはなくなりません。キリスト者はユダヤ教から始まっていながら、このような隔たりを越えて、イエス・キリストのみに従う者であります。勿論、今日の箇所のペテロももうすでにキリスト者であると言う意識をもっていましたが、今日の箇所を見るかぎりまだユダヤ人の仕来りと律法から自由にはなっていなかったようであります。 ある方は今日の箇所から始まるペテロ変化を「ペテロの最後の回心」と言っていました。つまり、ペテロはもうすでにキリスト者でありながら、いまだに信仰上の敬虔を理由にして人を隔てる習慣から自由になれないでいましたが、今日の箇所を通して初めて彼は真のキリスト者となったと言う意味で、「ペテロの最後の回心」と言うのであろうと思います。 話をまとめて終わらせて頂ですが、神様は初めに全てのモノを創造なさって「見るに良かった」と言いました。全てが良かったのであります。しかし、初めての人アダムとイブは「これは良くこれは悪い」と言う蛇の囁きを聞くのであります。このよりわけが人間の罪の始まりであります。 このようにして、人はこの善悪の判断を宗教的な言葉までにして「これは清いモノ、これは清くないもの」と言うようになったのであります。 イエス・キリストはこのような人間の罪を清め、全てを清いモノとするためにこの世に来られたのであります。私たちはこのイエス・キリストに聞き従っているものであります。他の律法や、それぞれの仕来りや文化に従うのでなく生きているイエスの言葉に聞き従おうとしているのであります。このイエス・キリストは今日も私たちにご自分が血をもって清めたモノを宗教上の理由を持って「清くない者」と言ってはならないと言っているのであります。宗教上の理由をもって人と人との間に垣根を作ってはならないと言っているのであります。 |