2006年4月2日

「キリスト者として」(使徒11・22〜26)

テーマ:共に主のために働こう!

時:06.4.2. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤

 今日のあいにく雨でありますが、花見の季節であります。皆さんの中にはもうすでに花見に行って来た方もいると思います。また、これから会社や属してグループ、友人などに誘われたり、また、自ら誘ったりしながら、これから行く予定をもっている方もいらっしゃると思います。実は私は昨日、近くの公園に花見に行ってきました。まだ満開ではありませんでした。また、雨が降るかどうか気にしながらの花見でありましたが、でも、忙しさを忘れて和やかな一時を過ごしました。

我が家でホームステーをしているアネッテさんはもう二回も花見に行ってきたようであります。花見は日本人にとっての一つのロマンであると思います。おそらくこの花見と言う風習が出来たのは桜の特質とも関係があるように思われます。開花時間が短くて、一斉に咲きます。また、桜の木の下は人々が座るのに丁度良い場所となります。その短い開花の時期を逃してはならないわけでもありますが、それで、人をも誘って楽しい時を共に過ごそうとするのがこの花見であろうと思います。

ニュースを見ますと、ニュウヨクのセントラル公園にも日本から送られた桜が咲いたそうですが、いつかはアメリカでも花見と言う風物詩が生まれるかも知れません。

ところが、考えてみると花だけを見るのが目的であれば、一人で見に行っても良いはずであります。しかし、人と共にいってお茶を飲んだり、用意して来たモノを食べたりします。どうやら私たちは「花見」と呼んでいますが、花だけを見るのが目的でなく、他の理由と意味も含んでいるようであります。

昨日、私たちの花見にはスイスの人も来ていましたが、彼は「花見と言うけど、誰も花は見ていないね」と冗談を言っていました。

 日本で発生して他の国まで広まったもう一つ面白いものとしてカラオケがあります。これもまた日本人が好きなモノであります。電気製品の店に行けば、色んな種類のカラオケセットが売られています。町にも依然として衰えることなく、いたるところにカラオケボックスがあります。

 このカラオケにもアネッテさんはもう何回も人に誘われて行ったようでありますが、帰ってきてはやや興奮気味で楽しかったと言っていました。このカラオケモについて考えてみてもそうですが、歌が好きであれば一人で歌っても良いはずであります。また一人でも歌えるようになっているカラオケセットもあります。しかし、やはり、カラオケボックスに行って大勢で歌うのがカラオケの醍醐味であろうと思います。

 このように、花見やカラオケは他人と共にでも出来ますし、また楽しくないかも知れませんが、一人でもやろうとすれば出来ないモノでもないと思います。

しかし、信仰は如何でしょうか。一人で出来るモノでありましょうか。答えは否であります。私と神様との関係だけで信仰生活が成り立つと言うのであれば、それはまったくキリスト教の信仰を知らない話であります。これを喩えで言えば、結婚が一人でも出来ると言い張るような話しであります。

 さて、今日の聖書の箇所は先週に引き続き、アンテオケ教会を舞台にして展開される話しでありますが、この箇所を通して、共に良い教会とは何かを学ぶ事が出来ればと思います。以前、祈祷会の時で「良い教会を目指して共に働きましょう」と言うような話をした事がありますが、後である方が「良い教会」とはどのような教会であるかと尋ねました。私は迷わず「良いクリスチャンが多い教会が良い教会です」と答えました。これからも何方かが同じ事を聞いてもそのように答えると思います。今日のテーマの結論を先に申しますが、立派な礼拝堂を持っていて、有名人や出生した人々が多くの集まる教会が良い教会ではありません。良い教会とは聖霊と信仰に満ちたキリスト者が多い教会であって、神様が喜ぶ教会であります。

 ところが、今日の箇所の舞台となっているアンテオケ教会はエルサレム教会にまでその評判が伝わるほど良い教会でありました。しかし、残念ながらどのような教会で、どのような良いキリスト者がいたか、名前も具体的な行いも記されていません。そこで、エルサレム教会の人ではありますが、バルナバについての記述とバルナバの行動などを見ながら、私たちのクリスチャンとしての生活を顧みたいと思います。

 もうすでに使徒行伝に何回もバルナバの名は登場してきましたが、彼は信仰の熱心な人でありました。自分の畑を売って教会に捧げたこともある方であります。また、何より彼はパウロが使徒たちによって拒まれていた時、パウロを一生懸命に擁護し、エルサレム教会がパウロを受け入れるように働きかけをしたこともあります。彼は非常に温厚、寛大で、人の過ちには良く目をつぶるようなタイプの方であります。

 エルサレム教会もそのようなバルナバであるから使徒でもないのに全権を与えて、アンテオケ教会に派遣しただろうと思います。つまり、律法に頑なになっていた人を選んで派遣すると異邦人によるアンテオケ教会で摩擦を起こしたり、口論になったりする可能性まであることを見通して、エルサレム教会はバルナパのような円満な人を選んで送っただろうと推測されます。

 バルナバはアンテオケ教会に来て、神の恵みを喜び、信仰にしっかり立っているように励ますような事を一先ず終えては、彼はアンテオケのための指導者として、またパウロを思い出したようであります。つまり、アンテオケ教会の指導者として、パウロが適任者だと思ったようであります。

 バルナバの判断は正しかったと思います。なぜなら、パウロはユダヤ人でありながら異邦人の伝道の使命を受けていましたし、また、エルサレム教会とも堅実な繋がりを持っていましたから、彼は歴史上の始めての異邦人教会のための適任者であったと思われるからであります。

 それでバルナバはタルソまで出かけてパウロを連れてアンテオケに戻るのであります。記録によりますと、エルサレムで二人が別れて、この時までもうすでに10年近く過ぎていたようであります。時代が時代でありますから、連絡は互いに取らないでいただろうと思います。つまり、二人の間には10年近くの空白があったにも関わらず、関係が切れずに、しっかり信仰の中で繋がっていたのであります。

 この間、ある方から聞いた話でありますが、40年前、ある教会で共に青年会に属していた人から突然「会いたい」という連絡があったそうです。その方がある教会に出席して、名前と住所を記録したそうですが、連絡してきた方がそれを見つけて、連絡がしてくれたそうです。聞くだけでも嬉しくなる話であります。二度と会いたくない、会っても会わなくとも良いと言うのもなく、共に主の繋がっていることを喜んでいたからこそそのように連絡してきただろうと思います。

 私にもたまに東京で共に信仰生活をしていた人から連絡が来ます。とても嬉しくなります。私は教会に始めに行った時から、いまも維持している思いでありますが、教会での付き合いは、つまり、神さまが結び付けてくれた人々とは一生交わるつもりであります。例え、何方と何かの意見の不一致があって、分かれる時であろうとも決して喧嘩別れだけはしてはならないと思っています。何時までも主にある家族であるからであります。

 人々は様々な理由、目的で集まったり、団体を作りますが、教会は他の目的や理由がありません。ただ主が集めた下さった人同同士が共に礼拝をささげ、共に喜び合い、共に愛し合うための団体であります。これが教会の基本であります。

 話が変わりますが、この間、木曜日に日本歯科医連盟から橋本元首相への一億の献金の事件の裁判で村岡氏に無罪判決が下されました。その記事を見ながら、その間、どれほど村岡氏が悔しい思いをしていただろうかを思うと悲哀さえ覚える事件であります。献金が渡されたところには自民党の有力は政治家が同席していました。つまり、大概の事件の内容を把握しているはずであります。しかし、彼らは直接的な罪のない村岡氏が検察側によって1年禁固刑が求刑され、投獄される危機にあるのに、誰一人村岡氏のために弁明してくれなかったのであります。と言うより、彼が罪を負って投獄された方が自分たちに都合が良いと思いながら内心喜んでいたのではないか思われるところがあります。以前は政治的な志を共にする仲間であったはずであります。しかし、いまや一方が自分の身の安全を図るために他方を罠に陥れようとする醜い人間関係になっているのであります。

 何かの利益や目的によって集まった人間の群れには多かれ少なかれそのような面があろうと思います。つまり、利益や目的が一致しいている間だけ、互いが仲間としていられるのであります。

 話を戻しますが、今日の箇所のバルナバは10年前の信仰の友を、新しく生まれたアンテオケ教会の指導者として迎え入れようとするのであります。しかし、バルナバはただ自分と友であるからパウロを探し出そうとしたとは思われません。どちらかと言えば、バルナバとパウロはかなり性格が違うところがあります。バルナバは温厚でありますが、パウロはかなり情熱的で、気の短い性格ではないかと思います。また、パウロは達弁でありますが、バルナバは言葉に巧みではない人であったと思われます。他のもろもろの教養においてもパウロが優れていた人であります。それでもうすでにそのような違いをバルナバは知っていたはずであります。しかし、自分とのそのような違いを超えて、教会のために、主のためにパウロを招き入れようとするのであります。そのようなバルナバを今日の箇所は24節で「聖霊と信仰とに満ちた立派な人」と褒めています。

これはすこし立ち止まって考えさせられる言葉ではないかと思います。聖霊とは神様の働きでありますから、全知全能の神様が聖霊をもって悪人であろうとも、善人であろうとも、ご自分が選んだ人をキリスト者として用いる事が出来るはずであります。

こう考えますとバルナバに聖霊が満ちていたのであれば、それでもう立派な信仰者であるはずであります。しかし、今日の箇所では聖霊だけを言うのでなく、その上に信仰を加えて「聖霊と信仰」とに満ちていたと記しているのであります。

信仰とは言うまでもありませんが、神さまの呼びかけに応答することであり、この応答は人間側の働きであります。また、そのように応答した者を信仰者と言いますし、私たちはキリストの呼びかけに答えてと言う意味でキリスト者とも言います。

やや複雑な言い方になってしまいましたが、要するに聖霊としての神様の働きと、この神さまの働きに対する人間側の応答があって、初めて信仰が成り立つものであって、初めてキリスト者としてたつ事が出来るのであります。今日の箇所のバルナバは聖霊と信仰に満ちていた人であって、立派なキリスト者であったと言うのであります。

この聖霊と信仰とに満ちたというところを「バランスに満ちた」と言う言い方に置き換えれば、もっと分かりやすいのではないかと思います。つまり、聖霊と信仰とのバランスの取れた立派な云々といえば、私たちはより実感を持ってこの言葉を受け止めることが出来るのではないかと思われます。

キリスト者の中には聖霊だけを、つまり、神様の働きと神様の恵みだけを呼び求める方がいます。例え、病気になっても、薬を飲んだり、病院へ行くのを軽んじて、神様のみ旨であれば癒されるという姿勢だけで貫こうとするのであります。

また、ある方は神様の働きは分からないから信仰者として姿勢だけを問う人もいます。先の例で申しますと、病気になりますと、神様の力を忘れて、まず、薬と病院だけを求めるような事であります。また、そのような方の大概は信仰生活において倫理的な面を非常に強調する傾向をもまた持っています。

しかし、バルナバは聖霊と信仰に満ちた人でありました。つまり、神様の私たちへの働きとして聖霊を受け、人間側の働きとして、それにどう答えていくかを真剣に問い、また、求めていた人でありました。繰り返しになりますが、そのような彼を今日の箇所は立派なキリスト者と言っているのであります。

私たちもこのようなバランスの取れた信仰者として立ち続けていたいものであります。また、他人にバルナバのような立派なキリスト者を求めるのでなく、自らがバルナバのような信仰者として立ちたいものであります。

そして、共に良いキリスト者の群れとして、立派な教会、良い教会を共に形成して行きたいものであります。これからも共にそのような良い教会を目指して、共に働く事が出来ればと祈っています。