2006年4月16日

「月足らずの私にも」(第一コリント15・1〜11)

テーマ:教会は復活と言う勝利の証であるが、キリスト者はその教会の一部である。

時:06.4.16. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤

今日はイースターで、私たちのキリスト者にとってはもっとも大きな祝日であります。共にイースターを祝う挨拶を交わしたいと思います。

この間、テレビを見ていたら、主に歌舞伎の俳優さんを取っている写真家が歌舞伎の美しさを語っていました。その中である歌舞伎俳優の演技の美しさをほめながら「彼の演技はこの世にない美しさである」と言っていました。

私も以前一回歌舞伎を見に行った事がありますが、派手な衣装や化粧だけが記憶に残っています。歌舞伎の美しさや面白さは全然感じ取ることが出来なかったわけであります。しかし、その写真家のように歌舞伎を見ながら「この世にない美しさ」と言えるほど感動できれば、それもまた素晴らしいことだなと思いました。

私たちは時々想像を超えていて、言葉では言い表せない美しい風景を見たり、人間の技とは思えないほどの素晴らしい技を見たりするとその写真作家のように、「この世にない美しさ」または「神業」であるなどと言いますが、その写真作家の話を聴きながら、改めて、面白い言い方であり、これは、また、キリストの十字架と復活を表わすにも適している言葉だなと思いました。つまり、彼の目の前にあったのはこの世の俳優の技であり、この世の美しさであるはずであります。しかし、彼は肉の目に映る美しさや技だけを見たのでなく、それを超えての内面的な、目には映らない美しさを感じ取って、そのように言ったと思います。

確かに、人間的な目でみれば、血を流しながら死んでいく十字架でのイエスはおぞましい姿であります。しかし、私たちはそのおぞましい姿から神の愛と赦の業を見るのであります。それだけでなく、そこでまた永遠の命を見るのであります。言い換えれば、復活を見るのであります。

「復活」と言う言葉は人間の知性にはないことばであります。つまり、この世にはない言葉であって、人間の理解や経験からでは到底理解できない言葉であります。死んだ者がどのようにして蘇る事ができるでしょうか。しかし、私たちは復活を受け入れ、語り合っています。

命が絶たれた者に命が蘇るという本来の意味での「復活」と言う言葉はこの世の言葉ではありませんが、人々は復活と言う言葉を一つの表現として良く使っています。例えば、この間の新聞のスポーツ欄を見ていると巨人の「桑田投手が600日ぶりに復活」と言う大きな見出しで、桑田投手の勝利を伝えていました。私は始めてその記事で、桑田選手が怪我をしていたことを知りましたが、彼は長い間、出場できないほどの怪我をしていたようであります。

スポーツ選手がそれほど長い期間、出場できないのとすれば、選手としては命が絶たれたことと当然の状態であろうと思います。そのような状態であったのに、この間の試合で選手として蘇ったという意味で、そのような「復活」と言う言い方をしているのであります。

繰り返しになりますが、このように復活と言う言葉は表現としてはありえますが、本来の意味での復活は人間の知性にはありません。しかし、神様はイエスを墓に放置しないで、蘇らせたのであります。文字通り、神の業であります。

さて、今日はイースターでありますので、連続して共に学んでいる使徒行伝から離れて、「復活の章」とも言われるコリントへの手紙15章を通して、パウロにとっての復活の意味を共に学ぶ事が出来ればと思います。

イエスの一生を語る四つの福音書の中で復活を語らないモノはありませんが、その中でもヨハネによる福音書に記述されて部分を共に見たいと思います。20章の19節でありますが、読みますと、「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分のたちのあるところの戸をみな閉めていると、イエスが入ってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」と記されています。

すこし、周辺的なところでありますが、ここの「週の初めの日の夕方」となっているところを申しますと、昔は夕方から一日が始まるものとして勘定してまいた。また、土曜日に週が終わると思っていましたので、ここの「週の初めの日の夕方」と言う言葉になっていますが、今風に言えば「日曜日に」と言う意味になるかと思います。

私たちは日曜日を主の初めと言い、またこのように日曜日に礼拝を捧げていますが、それはイエスが復活をした曜日であるところに因んでいます。

兎に角、イエスが殺された金曜日から数えて、丁度、三日目である日曜日に、イエスが復活なされて弟子たちに現れて、ユダヤ人に捕らわれてイエスのように殺されるかも知れないという恐怖の只中にいる弟子たちに「安かれ」と言ったのであります。私たちの礼拝も根本的には同じことであります。つまり、私たちは様々な不安や恐れを抱いて生活していますが、日曜日の礼拝を通してイエスが語ってくださる「安かれ」を聞き、共に喜び、それぞれの生活の場に戻って行くのであります。

話を戻しますが、先ほどのヨハネ福音書で様子も、また、私たちの理屈では理解できない様子として記されています。つまり、弟子たちはユダヤ人を恐れて、戸を閉めていましたが、イエスは戸をあけてくれとも言わないで戸がしまっている状態で入ってこられたのであります。これを見ますと、人間の肉のままを復活したのでなく、霊の状態で復活されたようであります。

私たちは今の時代になっては、このようにヨハネ福音書や他の福音書を通してイエスの復活を読んだりしていますが、パウロがこの今日の箇所の手紙を書く時はまだ福音書がない時であります。しかし、今日の箇所の3節をみますと「すなわち、キリストが、聖書に書いている通り、三日目に蘇ったこと」等とが記されています。ここでの聖書とは旧約の聖書のことでありますが、旧約聖書にはキリストは苦難を受け、死に、復活すると記述されているところがありますが、それをパウロも知っていたのであります。

ところが、私たちが聖書に書いてあるからと言う理由だけで、自分の頭では到底理解できないはずの復活について、「分かった」「理解した」「そのように信じよう」等と自分に言い聞かしながら、それを受け入れる事が出来るでしょうか。

私には不可能であると思います。非信仰者は勿論でありますが、やはり信仰者であろうとも聖書に書いてあるからと言われても、自分の頭で理解できない事や、今まで経験したことのない事を聞いた時は疑うものであります。戯けたことだと言いながら退けるのであります。パウロも同じであったはずであります。

それで、パウロは3節で「私が最も大事なこととしてあなた方に伝えたのは、わたし自身も受けたことであった」と書き記しているのであります。つまり、パウロは復活を理解し信じたと言うのでなく、自分もその事を聞いて知っていると言っているのであります。それもそのはずであります。パウロはまだ他の弟子たちのように復活のイエスに出会っていないからあります。

話がすこし逸れますが、パウロ文書に共通する特徴でもありますが、今日の箇所においても彼の気持ちがそのまま良く現れています。つまり、彼は信仰を自分の経験として、自分の言葉として力強く語っているのであります。そのようなパウロでありますので、今日の箇所においても、会ってもいない復活のイエスに出会ったとか、理解し得ないのに信じる事と決めたなどとは言わないのであります。

パウロには聖書に復活が記されていてそれを知っているという事の他に、もう一つ復活について聞いた事がありました。つまり、もうすでに復活のイエスが他のイエスの弟子たちに現れ、数多くの人々に現われて多くの人々の間で噂になっていましたが、その噂を聞いていたのであります。言い換えれば、復活は言い伝えられているものであって、パウロにはまだ復活のイエスを理解したり、体験していないのであります。

如何でしょうか、皆さんは復活のイエスに直接会ったでしょうか。それとも理解できたでしょうか。つまり、論証ずみであるから納得して信じているでしょうか。そうでないと思います。理解したからでなく、様々な形で生きている言葉として、イエスの言葉を聞いているから復活を受け入れていると思います。

つまり、私たちが頭で復活を理解したのでなく、神様の助けもあって私たちの心と魂とをもって受け入れたのであります。復活や永遠の命と言う希望と喜びは私たちが努力して獲得できるものではありません。あくまで神様からあたえられるものであって、伝えられるものであります。信仰は恵みだと言う所以でもあります。

私は直接復活のイエスに出会ったことはありません。復活は私にとってあくまでパウロの言い方を借りて言えば、言い伝えられたものであります。しかし、私は教会がイエスの復活の体であると信じています。もし、復活がなければ、教会は成り立つはずがありません。なぜなら、イエスの十字架の共に、イエスの教えと言葉はこの世において完全なる敗北であるが故に、永遠に葬られたはずであります。しかし、葬られないで生き返ったのであります。

私が始めに教会に行った時の状況をすこし申しますが、私はある事があってまったく絶望をしていた時期がありました。毎日のように死にたい、自分は生きている価値がない、行くところがない、誰とも会いたくもないし、人々から慰められたくもないと思っていました。と言うより、そのように固く「信じていた」と言うほうがより当時の私の気持ちに適していると思いますが、そのような中で、聖書に出会い、イエスの言葉に出会い、教会に行くようになったのであります。教会に行きますと、皆が私を暖かく迎え入れ、慰め、大事にしてくださいました。自らはこの世に生きる価値のない者だと思っていたのに、そうでないものとして歓迎してくださったのであります。

まさに、神様の愛に出会ったのであります。神様の言葉に出会ったのであります。それで自分は神様の言葉と神様の体なる教会と共に生きようという勇気と言うか、希望を見出す事が出来たのであります。もうすでに死んでいたような者に新しい命が吹き入れられたような感じでありました。これが私のイエスとの出会いであり、復活の体験であると言っても良いと思います。

話を今日の箇所に戻しますが、パウロは教会を迫害していた者でありました。十字架の苦しみだの、復活だの言いながら、教会を形成して、祈り、礼拝を捧げている群れを憎んで、そのような人々を縛り上げて投獄しようとすることに走っていた人でありました。

当時のパウロにとって、神様は十字架でのイエスの苦しみと復活を通して、ご自分の愛と罪の赦しと永遠の命を示そうとしたことをまったくわからなかったのであります。人々がそれを語っても、伝えても、聞こえなかったのであります。それより、律法を守って、倫理的に自分を高めるのが、より神が喜ぶところであるとしか信じていながったのであります。

そのようなパウロはダマスコの近くの路上でイエスの声を聞くのであります。これは私たちはもうすでに使徒行伝の9章以下で見たところでありますが、それがパウロにとって復活のイエスとの出会いであります。他の弟子たちが復活したイエスに出会った形とは異なる形でイエスとの出会いでありました。それでパウロは自分を「月足らずの者」にもイエスが現われたと言っているのであります。

このようにしてパウロはイエスの声を聞きますが、その瞬間からパウロは教会を迫害する者から、教会のために生きるものとなったのであります。律法や倫理を語るより、イエスの愛と赦しを永遠の命、復活を語る者となったのであります。

パウロは今日の箇所で語っているように、イエスの復活と言う事実は最も大事なことであり、これがなければ、信仰は無駄だとまで言います。確かにパウロの言葉通りであります。復活の希望があるから私たちは如何なる苦しみを前にしても、例え、自分や愛する者の死を前にしていても、希望を失わないのであります。復活は伝えられている最も大事な言葉であります。これからも共に神のこの言葉を楽しみしながら歩みたいと祈っています。