| 2006年4月23日 |
「鎖は外れ落ちて」(使徒12・1〜11) テーマ:信仰は平安を生み、平安は奇跡を生む。 時:06.4.23. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 今日は礼拝の後、定期総会がありますが、会員皆さんの出席を期待しています。また、会員でない方も陪席は出来ますので、宜しければ参加してください。私は先週の金曜日には二つの会議に出席しました。一つは連合の伝道委員会でありました。もう一つは、新宮九条の会の世話人会でありました。誰にでも同じであろうと思いますが、何処の会議も楽しいものではありません。でも、異なる人々によって出来ている団体が方向を定めながら活動をするためには、欠かせないモノが会議であり、話し合いであります。 この何日間、竹島問題で日本と韓国が揉めていました。その間、ハラハラしながらニュースを見ていましたが、昨日夜やっと一応の解決をしたようであります。でも、まだ問題を孕んでおります。時間は掛かると思いますが、これからも会議や話し合いを重ねながら、円満で、恒久的に解決されるのを期待しています。 先ほど申しましたように、金曜日に出席した会議の一つである新宮九条の会は憲法九条を守ろうと言う趣旨で活動をしている会でありますが、この間は、西嶋有厚・福岡大学名誉教授による「日本の真の安全保障を考える」と言う講演の要約が配られました。目を通すうちに古い言い方でありますが、何故かその時、新鮮な気持ちで読めたところがあります。彼は日本中心史観と米国中心史観を批判する中で「地球に視点を固定すれば天動説が生まれ、太陽に視点を固定すれば、地動説が生まれるように、日米関係も日本に視点を肯定すれば」、と云々しながら、両方の史観を批判していました。そして、最後において最近の東南アジア外交を例に出して「東南アジアでは一致点を大事に確認しあい、不一致点は話し合いを続けて、徐々に解消していく、アジア独特のアセアン方式が広がりつつある」と言っていました。要するに、あらゆる国際問題において自分の視点を固定するのでなく、相手の視点をも考慮しながら、話し合えば、問題は平和的に解決されるという主張であります。 これを今の竹島問題に適用すれば、国やマスコミが一方的に提供する「竹島は日本の領土」と言う視点に固定されて、そこから意見を述べたり、感情を表わすのでなく、これはまた韓国に対しても同じ事を言えますが、兎に角、両国が竹島(独島)は自分の領土と言う視点に固定されて、対立するのでなく、まず、両国が竹島を自分の領土として主張する根拠を対等に並べておいて、市民レベルで話し合いと検討をするなかで、一つの認識が生まれるのでないかと思っています。そして、それが世論となり、それがまた国の方針や政策となればと思っています。 私たちが常に頼りにしている聖書も一つの視点に固定されるのを拒んでいます。例えば、聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる夫々の福音書があります。このように四つに分かれていて、夫々の視点でイエスの言葉を理解しています。それで一つの出来事に対してもすこしずつ違った記述になっています。 考え方によっては四つの視点は読む人に混乱を与えるのではないかと思われるかもしれませんが、確かに始めはどのように読むべきかと言う戸惑いもありますが、それは私たちが普段固定された視点を持つことになれているからではないかと思います。 しかし、私たちは四つの福音書を通して、み言葉が豊かさに接する事が出来るのであります。つまり、視点が一つに固定されていないところから、私たちは違う者同士の共存と言うメッセージを読み取り、またそのように立とうとするのであります。四つの福音書による視点の違いは、イエスの言葉に奥行を与え、読む者には常に躍動感を覚えさせ、また、チャレンジを受けるのであります。まさに生きている言葉であります。 私は「神様は生きている、イエス・キリストは主である」と言う告白以外は如何なる視点にも固定されてはならないと信じています。固定されていて動きのないモノこそ死んでいるものではないでしょうか。 このように、一つの新約聖書の中に福音書が四つある事によって、人々の共存が命じられるものでありますが、使徒行伝の中にも視点の違いが共存している事を見つける事が出来ます。つまり、使徒行伝は私たちにペテロとパウロと言うまったくあらゆる面において違う二人を中心とした活動を知らせてくれますが、それが一つの教会の歴史をなしているのであります。 因みに申しますが、教会も違う人々が集まるところであります。あらゆるところで異なっています。性格や価値観だけが違うのでなく、例えば、ある方はマルコよる福音書が好きだと言いますし、ある方は、ヨハネによる福音書が好きだとも言いますし、ある方は精力的で、活動的なパウロが好きだと言いますし、ある人は弱さを持っているが故に、人間的であるからペテロが好きだとも言います。 私の二人の娘、ナオミとヨハナをみても、あらゆる面で違います。同じ親であって同じモノを食べて、同じ環境で育つはずでありますが、独りは辛いものが好きだし、一人は甘いものが好きであります。私たちの夫婦を見ても同じ事が言えます。 このように教会も家庭も違う人々が集まって、また集められて、調和をなすところであります。違いがなければ逆にさびしくなると言うか、退屈になってしまうのではないかと思います。この事を喩えで言えば、違う声の高さがあるからこそ合唱にハーモニーと言う美しさが生まれるのであります。 さて、今日の箇所はペテロがヘロデ王によって投獄され、み使いによって解放されたことを伝えているところであります。ところが、すぐ後の16節の25節以下には似たような話が記されています。つまり、そこにはパウロが投獄され、地震と共に牢屋の門が開かれた事を伝えています。両方の記事を比べて見るとルカは夫々違う形でペテロとパウロが神様によって用いられていることを書き記しているのであります。それで、私たちもこの二つの記事を比べることによって二人の性格の違いなども垣間見る事が出来るところでもあります。もうすこし詳しく見ますと、まず、今日の記事は神様の助けによって鎖が外れ落ちたのはペテロだけであります。しかし、パウロの場合シラスまた他の囚人の鎖も外れ落ちたと記されています。それだけではく、このことによって獄吏までもが、最後においては、キリスト者となっていくのであります。このようにパウロの場合は他人をも神様による奇跡へと巻き込まれているのであります。 また、今日の箇所はみ使いがペテロのところに来て鎖を外してくれますが、パウロの場合はもっとダイナミックに地震が起こったのと同時に鎖が外れたのであります。 これだけをみても二つの記事の状況だいぶ違っていますし、その違いから色んな事を示唆されるのであります。もう一つ大きな違いがあります、投獄されていた時、パウロは賛美を歌っていました。彼らしいと言えば、彼らしいところであります。しかし、今日の箇所でのペテロは静かに寝ていました。 ところが、パウロが寝ていた風景は私たちにもう一箇所の福音書の記事を思い出させてくれます。つまり、マルコ4章35節以下を見るとイエスと共にいた弟子たちはガリラヤ湖で激しい突風に合った事があります。彼らは死を恐れ慌てふためいていたあげく、自分たちが死のうとしているのに構わないのかと船尾の方で寝ているイエスに詰め寄るのであります。勿論、この船の中での騒ぎにペテロも加わっていたはずでありますが、この騒ぎによって起こされたイエスは弟子たちに叱りながら、「なぜ怖がるのか、まだ信じていないのか」と言うのであります。これを見ると怖がるのと信じるのとは相容れないものだと言っているように思われるところであります。 いずれにしても、イエスと共に歩いている時のペテロの信仰はそのような信仰でありました。しかし、今日の箇所でのペテロは死を前にしていながら、以前イエスが突風のなかで寝ていたように寝ているのであります。 話が前後しますが、今日の箇所の1節を見ますとペテロはヘロデによって捕らわれています。彼が捕らわれる前にはヨハネの兄弟ヤコブが剣に殺されています。これをみますと、ペテロはこの除酵祭が終わると殺されることが定まっている事を暗示しています。つまり、除酵祭と言うめでたいという時を避けてヘロデはペテロを剣にかけようとしているのではなかいかと思わせるのであります。また、そのような死刑囚でありますので、4人一組の4組の兵士が監視をしていただろうと思われるのであります。 ガリラヤ湖で突風が起こった時の様子と比較されるところであります。例えば、ガリラヤの湖で、船が転覆しても岸まで泳いでいける可能性があります。つまり、絶体絶命の危機ではありません。しかし、彼らは騒いでいたのであります。今日の場面はまさに絶体絶命の危機であります。その中でペテロは寝ているのであります。絶対の平安の中にいるのであります。 私たちは何かの事があればすぐ心騒がせたり、怒りを顕にしたり、恐れたりしますが、繰り返しになりますが、今日の箇所でのペテロは死を前にしていながら寝ていたのであります。以前のペテロと今のペテロの姿はまったく違う人物のように思われるところであります。このような平安の中にいたペテロに奇跡が起こったのであります。つまり、み使いが現れて彼を解放したのであります。極めて大事な事を示唆しているところであります。 このように、以前のペテロと今のペテロとまったく違っていますが、この違いは何処から来ているでしょうか、私はやはり復活のイエスに出会ったことによる違いではないかと思います。つまり、以前は目に見えるイエスに従っていました。そして彼はその目に見えるイエスが十字架に付けられると、彼はイエスと自分を裏切って逃げたのであります。そのような彼に復活のイエスが現れ、再び、使徒としての道へと誘ってくれたのであります。 その時からペテロにとってもはや死は終わりではないという信仰が揺るぎないモノとなったのではないでしょうか。死と言うところに視点が固定されることなく、復活のイエスに視点が固定されていたとも言えると思います。それで彼は今日の箇所が示しているような平安の中にいる事が出来たと思われるのであります。また、その平安の中で奇跡が起こったのであります。 今日の箇所を読みながら以前ある牧師から聞いた話を思い出しました。ある意味で今日の箇所と場面がまったく同じであります。朝鮮戦争の時でありますが、当時、韓国のほぼ全土が北朝鮮軍に落ちた事もありましたが、最も南にある木浦まで北朝鮮軍が来ていました。そこである牧師が「反動」として捕らえられました。その時、取調べをしていた北の将校がその牧師に言いました。「お前らは神を見たかのように言ったり、神の国を訴えたりしているが、まったく嘘ではないか、お前は神を見た事があるか、神の国を見た事があるか」と詰め寄ったそうです。それにこの牧師はまったく動揺しないで「私は神も、神の国も見た事はない。しかし、この心の中に神様がいて、この心の中に神の国がある」と答えたそうです。 その夜、その牧師はその将校に呼び出し、他の兵士の前で、「お前は即決処分だ」と言い渡して自分で直接処分すると言って、外へ連れ出したそうです。その牧師は死を覚悟して暫く闇の中を歩いているとその将校が牧師に、「実は自分の親は北朝鮮にある教会の長老であったことやら、自分も一時教会に行っていた事がある」などを告白しながら、銃声と二回鳴らしますので、その間、逃げるように言ったそうです。その将校の心に神様がみ使いを送ったと言っていいのではないでしょうか。 今日の箇所のペテロも今申し上げた北朝鮮軍に捕らわれていた牧師もそうですが、生きている神への信頼が彼らに絶対平安を与えたのであります。信仰はこのように平安を生み出すものであります。信仰はこの世の変わり行く眼に見えるモノに視点を固定するのでなく、目に見えない復活のイエスに、彼の約束に視点をすえて生きるものであると信じています。この信仰によって与えられる平安と喜びはこの世の如何なるものより美しいものであり、強いものであり、賢いものであります。またその平安の中で神様が働き、その中で不思議なことも起こしてくださるものであります。私たちも出来れば、そのような信仰による平安と喜び、知恵と共に日々を歩みたいものであります。 |