2006年4月30日

「朽ちない者として」(第一コリント15・42〜49)

テーマ:キリスト者は復活の希望によって永遠を生きる。

時:06.4.30. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤

今日は先に天に召された方々を記念して捧げる礼拝であります。なぜ、今日を召天者記念礼拝としているのかを言えば、この時期は教会としてはイースター(=復活祭)を記念する期間でもありますが、それで、毎年イースター礼拝の次か、その次の日曜日を私たちの教会は召天者記念礼拝として来ているわけであります。

召天者の名は週報に記されていますが、特に、去年丁度この頃、亡くなった坪根さんのご主人の死には驚きました。生きることの虚しさを覚えざるを得ませんでした。ここに記されている方以外にもその間、天に召された方もいますが、ここに記された方々は、私たちの教会で、祈りの中で告別式を行った方々であるか、教会と深く関わっていた方であります。これからもこの方々のために教会として共に祈りに覚えて行きたいと思っています。

私たちは今日このように先に亡くなった方々を覚え、礼拝を捧げていますが、死は決して他人事にはなり得ません。つまり、いつも送る側にたつだけでなく、いつか送られる者となるのであります。

また、人間はいつか誰だって亡くなるとものであると知っていても、実際に愛して止まない人が亡くなったり、何かの病気で自分が死を言い渡されたりすると、死に対して超越した態度をとることは出来ないものであります。

このように、死の問題は決して他人事とすることも、また、常に超越した者として距離をおいて眺める事の出来ない問題であります。

また、この死は未来においての出来事でもありません。なぜなら、私たちは今日送ったものとして立っていますが、このように死は常に送るものとして、または送られる者として、私と人を巻き込みながら、私たちの今現在の営みに深く関わっています。また、この死と言う現実をどうのように受け止めるかは今をどのように生きるかと言う問に直結してもいます。

今日のこの礼拝を通して先になくなった方々の復活を祈りつつ、また私たちが今をどのように生きるべきかを考える一時となることを期待しています。

キリスト教は復活の宗教であります。イースターに因んで、先々週のメッセージの時にも聖書の言葉に基づいて申しましたが、私たちの信仰は復活の信仰であります。これがなければ悪戯に信仰生活をするようなことであります。この復活こそ最も私たちの信仰において大事なことであります。

この復活は私たちが工夫して作った概念ではありません。私たちの文化の中で自然発生的に出来たものでもありません。イエス・キリストが十字架に掛かって死に、三日後に復活をなさって、弟子たちと多くの人々に現れた事実によるものであります。

このイエスの復活とは私たちも時々耳にしている「蘇生」とは違うものであります。蘇生とはまだ命が僅かでありながら残っていた状態から元気を取り戻すことを言います。つまりこれは瀕死の状態から回復されたと言う意味でありますから、そこには「死」と言う意味は介入する余地がありません。しかし、聖書が言う復活とは完全に命が絶たれた状態から命が新しく与えられることを言います。イエスは死に、葬られて三日後に甦ったのであります。ある者は人間的な思いからイエスの復活とはイエスが気絶した状態に葬られて三日後に目を覚ましたのではないかとも言います。しかし、イエスは完全に亡くなっていていました。十字架の上で死に槍でわき腹を突付かれて、水と血が流れ出ていたのであります。

また、復活とは霊魂不滅の思想とも違います。霊魂不滅とは簡単に申しますと、人間の魂は肉が滅びても死ぬ事がないと言う思想であります。この思想は最も古いものであって、ある意味で最もわかり易い自然な思いでもあろうと思います。また、哲学者プラトンも命をそのように理解していたようであります。つまり、霊と肉が合体されている状態が生きていることであって、それが分離するが死の状態であるとそのように思っていたようであります。それで肉の命がなくなっても何時までも亡くならない霊はどこかで生き続けると信じていたようであります。

このような思想はいまだに多くの方々が受け入れているのではないでしょうか。例えば、多くの今の時代の葬儀の様子を見ても、死者に手を合わせます。霊がどこかで生きている。または、その亡骸の中にはまだ魂が生きているなどのような思いがそのようにさせるのであります。

不謹慎な話であるかも知れませんが、この世には「霊」があるなどとまったく信じないけれども、世間ではそのようにやっているから一応手を合わせようとそのように思いから亡骸を前にして手を合わせる方もいるかも知れません。これこそまた偽善であります。

葬儀の様式を見れば、その文化ないし信仰が死をどのように理解しているかを知る事が出来ますが、キリスト教の葬儀の様式は、神様に捧げる一つの礼拝と言う形で行われます。それで、例えば、死者に向かって弔辞を語るのでなく、その葬儀に参列した人に向かって語られるのであります。死者に手を合わせるのでなく、神さまへの祈りを持ってその場に臨むのであります。花を捧げる時も、送る者の心を込めて祭壇や棺に備えるものであって、死者に捧げるものではありません。

すこし極端かも知れませんが、キリスト教の死の理解を垣間見る事の出来る例を一つ申し上げます。日本で亡くなったあるアメリカの宣教師の葬儀の実例でありますが、宣教師の奥さんは死者を囲んでの葬儀はしたくないと頑なに言ったそうです。それを周りの方々も理解をして死者は家に残したまま、教会で告別式を行ったそうです。私たちの信仰としてはそのような姿勢に対して納得をしながらもそれをそのまま受け入れるのはかなり抵抗があります。また、それを実行するには世間体がありますので勇気が必要でありますが・・・。

私は仏教の教えや思想に対しては非常に学ぶべきところが多いと思っていますが、如何しても葬儀に関する様式には抵抗を覚えます。つまり、仏壇を作って毎日のように手を合わせ、食べ物を供えたり、生活を報告したりするのであります。つまり、仏壇を霊の住処としているのであります。また、その延長線上での意識であろうと思いますが、ある方は写真を見ながら声をかけたり、テレビなどを見ると写真を持って裁判所に行ったり、何かの思い出のところまで持参して、声をかける風景をも私たちは見かけます。要するに日本の文化にはこの霊魂不滅思想がかなり広く受け入れられているのではないかと思います。  

このような思想と言うか人間的な思いから、また、幽霊が語られます。また不届きな宗教においては先祖の霊などを語りながら、脅かして金を貪ります。キリスト教には幽霊はありません。こう言いますと聖書が言う「悪霊」とは何かと言う疑問が生じてくると思いますが、この話はまたの機会とさせて頂きたいと思います。

この霊魂不滅思想はこのように最も分かりやすいところもあって、昔から世界中に広まっていますが、その故に、教会にも昔から影響を及ぼしたことも事実であります。しかし、キリスト教や聖書は決してこの霊魂不滅思想ではありません。

確かにヨハネ福音書の11章26節には「また、生きていて、私を信じる者は何時までも死なない」と記されていますが、これは霊があって何時までも死なないと言う意味でなく、復活があるから、例え、死んでも死なないと言う意味であります。

繰り返しになりますが、やはり、復活とは一旦肉が滅びると魂も共に死んで神の時に従って生き返るということであります。死んでもいないところには復活もありえません。キリスト者はイエスが十字架の上で死に葬られ三日後に復活をし、私たちもその恵みの中で生きている事を信じています。つまり、イエスが死から神の力によって甦らせられたのと同様に私たちも復活させられると言う信仰に生きるのであります。

今日の箇所の42節を見ますと「朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものに甦り」となっています。ここを見ますと一見、種が蒔かれて、その種が朽ちて、新しい目を出すことのように記されていますが、ここも注意すべきところであろうと思います。つまり、人も麦が地に落ちて新しい目を出すことのように、自分の命が滅びても自分の分身として子供が命を受け継ぐことが永遠の命や復活とだと理解してはならないのであります。

この世的な思いや、人間的な限界から復活を理解しようとしていた人々が混乱ぶりを聖書から一箇所紹介します。マタイ福音書22章24節以下に記されていますが、イエスは復活を人々に教えていました。しかし、それを信じていない人々もいましたし、思い違いをしていた人々もいたのであります。

当時はイスラエルには結婚した男性が亡くなると、その奥さんはまた夫の弟と再婚する事が出来る制度を持っていました。そこで、イエスの復活に異議を唱えている人々はイエスに詰め寄ってこのようなことを尋ねます。つまり、あるところに7人の兄弟がいましたが、長男が結婚して亡くなり、その奥さんは次男と再婚をしました。しかし、その次男もまた亡くなったので、三男と再婚をした。またもやその三男もなくなった。このようにして次々と末っ子のところまで嫁いでいた女性がいましたが、皆いつか復活をすれば、その女性は誰の妻であろうか、復活しては困るのではないかとイエスに言います。

彼らはこの世の思いを持って復活を考えていたのであります。嫁いだり、娶ったりそのような思いをもって復活を想像していたのであります。それで復活があれば困る、復活なんかありえないと言ったのでありました。

それを聞いていたイエスは「聖書を読んだ事がないのか、思い違いをしてはならない」と言いながら、復活の時には彼らは娶ったり、嫁いだりすることはない、彼らは天にいるみ使いのようにモノである」と言ったのであります。

聖書が語る死と復活とは何かをすこし纏めて申し上げて話を終わらせて頂ですが、聖書の言う「死」を一言で言えば、「神との断絶」であると言えます。今日の箇所の40節以下にも記されていますが、初めての人間「アダム」が言及されています。そして、すこし聞きなれていない言い方であるかも知れませんが、「最後のアダム」と言う言葉もあります。ここで「最後のアダム」とは「復活のイエス」のことであります。

初めの人間アダムは肉に生きる者でありました。と言うより自らが肉に生きる者となったと言ったほうが良いと思います。つまり、彼も霊的な人間として造られました。それで初めは、神と共に生きるモノであったわけでありますが、彼は神の言葉に逆らって自らが善悪を判断する者となり、それによって神から離れた者となったのであります。聖書は象徴的にそのアダムによって人類に罪が入り込み、その罪によって人々は死に至るようになったと語っています。

如何でしょうか、今も多くの人々がアダムとして生きているのではないでしょうか。復活は理解できない、そんなはずがない。人間は誰でも一回は死ぬものである。死に対して勇気を持ってあるがまま受け入れようではないか。それがどうしたなどと自分に自分の言葉を語ることによって自らを納得させているのであります。言い換えれば、自分が善し悪しを決めて自分が善しとするところにしたがっているのであります。まさに神から断絶されたところに立っているのであります。

しかし、これは死と共に全てが無に帰すると言う事であります。人生の結論は無であって、今生きるのもまた無であると意味であります。つまり、全ての人は等しく肉だけによって出来ているものであって、何れか皆また元の土に戻るだけであると言うことであります。乱暴な話であり、急ぎすぎた結論であります。

神様は人の肉を確かに土を持ってお造りになりましたが、それだけでありません。ご自分の息、霊をも吹き入れてくださったのであります。

最後のアダムとしてのイエスは最初のアダムの罪を克服して父なる神に従う者でありました。そして、十字架に掛かり死に三日後に復活をなさったのであります。これを信じる者はみな天に属する者とするためでありました。朽ちない者とするためであります。つまり永遠の命を与えるためであります。この信仰に生きる者は幸いであります。たとえ、死んでも復活の希望によって生きるからであります。

最初のアダムは神からの断絶の中におりました。またこれは死を意味していますが、イエスはその断絶が再び回復されたところに立っていたのであります。それで彼は神の言葉に最後まで従って行くのが赦されたのであります。そして、栄光に導かれたのであります。これからも共に復活を信じて、語りながら、もうすでに亡くなった方々との再会をも楽しみとしながら、共に歩みたいと祈っています。