2006年5月14日

「主の使いが彼を打って」(使徒行伝12・18〜24)

テーマ:悪人は自ら滅びる。

時:06.5.14. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤

最近一冊の本を手にしましたが、それはもう何年か前に西南学院大学校の国際文化学科のスタッフたちによる公開講座を一冊の本にまとめたものでありました。タイトルは「異世界・ユートピア・物語」であります。私はこの本が出版されていること知らないでいましたが、ミヒャエラがそれを買ってきていたので、めくって見たわけであります。その中で初めに森泰男先生が書いた「エウトピアからユートピアへ」と言う章を読んでみましたが、今日のメッセージのテーマとも関連がありますので紹介します。

ユートピアとはそもそも16世紀のトーマス・モアの小説のタイトルであります。「理想郷」とも訳される言葉でありますが、このユートピアと言う言葉の構成をみますと前の「ユー」とはギリシャ語においては「否定」の意味を持っています。そして、トピアとは「ところ」と言う意味であります。つまり、ユートピアとはこの世にないところと言う意味になるかと思います。

 森先生はその講義集の中で、ユートピアをこの地上に具体的に造るのは無理である。例えば、共産主義はそのような試みをしたが、失敗に終わっている。また、これからもユートピアに対して陶酔的になって、そのようなそもそもありえないモノを建設しようとすると革命的な事になるなどを言いました。そして、彼はアウグスティヌスの「神の国」を頼りとしながら「メートピア」と言う新造語を提案しながらその意義を語っていました。つまり、この「メー」もギリシャ語において「否定」の意味でありますが、でもこの「メー」は仮定法において使われる否定であります。つまり、直説法の「ユー」となれば、現実的にありえないということで終わってしまいます。しかし、仮定法になりますとありえないながら、その事柄に対して希望として語る事が許されるわけでありますが、その意味でのメートピアを言っていました。もう一寸分かりやすく彼が言わんとするところを引用しますと「空想文学的に理想社会を現実逃避的にただ夢想するのでなく、動きそうにない現実を直視しながら、何とかして少しでも善い社会を作り出して行こうと地道に努力する事が大切であろう」と森先生は言っていました。

確かに先生が言っているように、私たちの生活を見ても、また、歴史を見ても現実はなかなか変わりません。つまり、物質的な面が発達して生活が便利になっても、依然として人々は不満に満ちていまし、ニュースを見ていても、相変わらず、眼を逸らしたくなるようなニュースや戦争・テロなどのニュースが多いです。これからもこの現実は動きそうでもありません。このような悪に満ちた世界に私たちは身をおいているのであります。それが私たちの実感であるが故に森先生の話は私たちに説得力をもって迫ってくるだあろうと思います。

 このような現実への嫌悪感ないし無力感から人々は常にユートピアを求めますが、この世にはユートピアは存在しません。といより、私たちはユートピアを失っています。初めに神は人を造ってエデンの園に置きましたが、自ら神の言葉に逆らって、その理想郷を失ったのであります。

 話が変わりますが、私たちは時々運命と言う言葉を語り、また耳にする事が出来ます。言うまでもありませんが、運命とは人間の行く道は生まれながら定まっていてそれを人間は如何しても拒む事も改善することも出来ないという考えであります。そのような人間の考え方に乗じて占い師などは金をもうけに走ったりしています。

 しかし、キリスト教はまったく運命と言う言葉を知りません。ですから、生年月日がどうだ、家の方向が如何だなどはまったく言いません。また、結婚や引越しの日取りなどもまったく無視すると言っても良いと思います。

 このようにキリスト教は運命と言う言葉を知れません。でも、人間の本質は神様の言葉によって知っています。また、これは運命と区別すべきことでありますが、つまり、御言葉に基づいて本質上の原因から避けられない人間の苦しみなどは語ります。例えば、人間は誰だって一人であります。人は神様によって一人として作られているからであります。その故にまた孤独を覚えざるを得ないものであります。これはまさに本質的なものであります。例え、多くのお金が与えられても、多くの家族が与えられても、優れた健康が与えられても、孤独と言う本質的な苦しみから解放されえないのであります。

 また、人は罪の只中にいることをもみ言葉を通して知っています。そして、それは原罪によるものでありますが、この原罪の故にまた人はエデンの園の外にいるしかないものであると事をも知っています。これは運命でなく人間自らの選択でもありました。このようにして人は悪に満ちているこの世に身を置くしかない者となったのであります。

 さて、今日の聖書の箇所はヘロデによる殺戮とまた自らの悪事によって御使いに打たれて命が絶たれた事を伝えるところであります。まず、順を追って話を進めたいですが、ヘロデはペテロを逃がしたことに怒り狂っていたようであります。それでペテロを監視していた番兵たちを取り調べて彼らを死刑に処しました。怒りを彼らにぶつけたというか、責任を追及したわけであります。このように、今日の箇所は前の箇所の雰囲気と打って変わって殺伐な話が展開されているところであります。

 もう一つのヘロデの怒りがありました。詳しい理由は記されていませんが、ツロとシドンの人々に対しても怒りを抱いていたようであります。これに困っていたツロとシドンの人々もヘロデの怒りを和らげてみようと、仲介者を挟んで彼の前に出て、ヘロデの演説を聴くことになったようでありますが、その演説を聴いて彼らは「これは神の声だ」と叫んでヘロデの機嫌を取ろうとしていました。

この姿は決して美しい風景ではありません。なぜなら、信仰者は如何なる時でも神を信頼し、神を褒め称えるものでありますが、彼らは食料を得るためにヘロデの声を「神の声」だと叫んでいたからであります。その叫びによって偶像礼拝をする結果となり、神を見失っています。この事を喜んでいたヘロデもまた何かの毒虫に噛まれて息絶えてしまったのであります。

このような事が記された後、24節を見ますと一見、前の文脈とは関係ないような話となっています。つまり、「こうして、主の言葉がますます盛んに広まっていった」と記されています。この箇所を私は今日の箇所だけと結びつけて読むのでなく、12章の初めから関わっている箇所として読むべきであろうと考えています。

何故かを少し申し上げますが、12章の初めから暫くはペテロが捕らわれていて、死を待つところで神の御使いがペテロを解放したこと、また、その間、教会は彼のための祈りをしていた事が語られています。信仰者の目からみてとても美しい場面であります。しかし、今日の箇所から、殺戮の場に変わっています。また、ヘロデ王も神に打たれて亡くなっています。そして、24節で主の言葉がますます盛んになったと伝えているのであります。

要約しますと、神に頼っている者は神様によって救い出され、神に反逆している者は神がまた裁いた。その結果、主の言葉がますます力を得たということであります。言い換えれば悪は自ら滅びて、神の言葉はますます力を得たということであります。

悪は必ず何れかが明るみに引き出され、裁かれるのはこの世の本質であります。神は生きているからであります。時は遅くなることはありますが必ず裁かれます。私たちはこの信仰によってこの悪の世界においても希望を失わないのであります。

最近、世間を騒がせたニュースがあります。神奈川県平塚市のアパートで男女と男児1人、幼児二人、合わせて五つの遺体が見つかりました。もうすでに岡本千鶴子容疑者は実の娘を殺害したことで逮捕されていますが、男児の遺体は22年前に行方不明になった千鶴子容疑者の息子利英ちゃん(当時6)と認める供述をしているようであります。22年前の殺害から彼女はこの世を騙しながら、悪事を重ねて来て、その結果、五つの遺体を隠さなければならなくなっていたのであります。自ら崩壊してしまったと言って良いのではないでしょうか。

先週のメッセージを少し思い出して頂きたいですが、ペテロがヘロデに捕らわれている間、教会はテロなどのような手段を講じようとしないで、祈りをしていました。つまり、この世の悪に直接抵抗するのでなく、共に神様に祈りをしていたのでありますが、これがこの悪に満ちた世を生きる教会とキリスト者の姿ではないかと思います。これこそ最も力強い抵抗であります。教会が平安の中で祈りをしている間、ヘロデは怒りと共に自滅をしてしまったのであります。

今日の箇所でのツロとシドンの人々はヘロデの悪事とは直接関わっていませんでしたが、でも、エルサレム教会とはまったく違う態度を取っていました。つまり、ヘロデの前でへつらったのであります。しかし、彼らが期待していたヘロデが亡くなってしまったのであります。これからどうするんでしょうか。他の権力者の前に出てまたもや屈辱的にこれは「神の声だ」と褒めるのでしょうか。

信仰者はまず神に訴えるのであります。神さまに苦しみや悲しみを申し上げるのであります。いつも喜びだけに満ちている世界であれば、常に喜びの賛美が出来るかも知れません。しかし、現実はそうでなく、悪に満ちた世界でありますので、私たちは時には怒りを覚えるのであります。そのような時であっても信仰者は自らその怒りを晴らすのでなく、神様に訴えるのであります。

聖書は神様に頼る者への救いの歴史でもあります。例えば、イスラエルの人々は食べ物の豊かなエジプトから脱出をし、砂漠をさまよいました。食べ物のために奴隷になっていてはならなかったからであります。彼らは飢えのあまりに、エジプトへの戻ろうとも思いましたが、でも最後には神を信頼して砂漠を選びました。そして、約束の地に入る事が出来たのであります。しかし、今日のツロとシドンの人々は食料のために神を捨てて、ヘロデを選んだのでありました。

もう一箇所、ダビデによる歌を詩篇から引用します。35編でありますが、「主よ、私と争うものとあらそい、私と戦う者と戦ってください。盾と大盾を取って、私を助けるために立ち上がってください。槍と投げやりを抜いて私に追い迫る者に立ち向かい、『私はお前の救いであると』私に言ってください」と彼は祈りました。

ダビデは、勿論、いつも神様に頼んだわけではありません。自ら戦いをもしました。つまり、自ら悪と戦いもしましたし、また自ら悪をも犯しました。しかし、彼は今申し上げて詩をみて分かりますように、まず、神様を信頼し、また自ら悪を行った時は神の前で罪を告白していたのであります。

今もこの世はダビデが生きていた時代と同じであります。善と悪とが混在をしている時代であります。しかしながら、今の時代はイエス・キリストが救いを約束してくださった時代であります。アダムによって失ったエデンがイエス・キリストによって回復され始まった時代であります。と言うより私たちはこの悪に満ちた世に身を置きながらも、イエス・キリストを主と告白することによってもうすでに心の中ではエデンの園を生きているのであります。

話をまとめて終わらせて頂ですが、今日の箇所と先週との箇所の話はまったく対立している話であります。今日の箇所は悪の只中で他者を殺戮しながら生きようとするヘロデの姿があります。また、この世の権力者にへつらいながら、自らを助けようとしていた人々の姿があります。しかし、先週の箇所はこの世の悪に直接抵抗はしないで神様の前で祈りをしながら耐えていた教会の姿を伝えているのであります。そして、最後には悪人たちは自ら崩壊をしてしまい、主の言葉がますます盛んに広まった事を伝えています。

教会はそのようにして成長してきたのであります。教会は自ら悪と戦うより神様が戦ってくださいと祈りつつ成長してきたのであります。また、神様は約束とおり、悪と戦って勝利をして来ているのであります。その勝利の喜びを私たちもいま恵みとして頂いているのであります。

今日の箇所は教会とキリスト者が悪に満ちたこの世をどのように生きるべきかを示唆するところではないかと思います。悪は必ず裁かれます。また、神様により頼む者は必ず救われるのであります。これは最も本質的な事柄であり、真理であると信じます。例え、今、悪人によって苦しまれる事があっても、神様の約束を信じて、耐える者は幸いであります。これからもこの信仰によって共に歩みたいと祈っています。