2006年7月9日

「異邦人の光」(使徒13・44〜52)

テーマ:信仰者は神の言葉に導かれて、自分が立つべきところを知る。

時:06.7.9. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤

あんまり話題にもしたくないことでありますが、先週は北朝鮮のミサイル発射が世界中を震撼させました。特にこれは日本や韓国にとっては直接的な脅威であります。彼らは訓練の一環として発射したと言っていますが、実験というより威嚇として発射したことは否めないと思います。なぜなら、彼らは平素そのような事を言って来たのも事実であるからです。聞くところによると韓国全土に届くミサイルだけで600発ほどあるそうです。

このニュースが飛び込んできたのは水曜日の朝でありました。朝、起きてワールドカップの話題を期待しながらテレビをつけるとこのニュースで皆が怒っていました。また、ある者は興奮して憎しみを隠さずに語っていました。

私は様々な思いや不安を抑えながらも、何時と変わりなく水曜日の祈祷会の準備をしましたが、その日の聖書の箇所は、丁度、終末を生きるキリスト者の姿勢が語られているところでありました。

要約して紹介しますとマタイ福音書24章7節でありますが「民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。また、飢饉は起こり、また地震があるだろう」と終末の時の混乱の様子が語られています。これに続いて「しかし、すべてこれらは生みの苦しみの初めである」と語られています。終わりが終わりでないという約束であります。如何なる状況であっても絶望で終わる事はないという神様から福音であります。

この世には何かの不安の種になりそうな事件が起これば、その不安はあっという間に増幅されるものであります。噂は噂を生みながら膨らんで行くものであります。また、そのような不安に乗じて何かを企む者も現われます。先ほどのマタイ福音書ではそのように不安に乗じて何かを企む偽預言者の言葉に気をつけるように戒めています。水曜日には丁度このマタイ福音書の言葉が与えられて、感謝でありました。つまり、色々な不安や苛立ちの中でも先ほどのマタイのよる福音書のみ言葉にたって一日を過ごす事が出来たわけであります。

キリスト者はイエス・キリストと共に生きる者であります。イエス・キリストにすべてを委ねて生きる者であります。ですから、如何なる場面が来ても、例え、明日戦争が起きるとしても、明日この世の終わりが来るとしてもイエスに耳を傾けるものであって、そこから希望を見出すものであります。キリスト者は最後までイエス・キリストと共に耐え忍び、最後まで平安と愛を失わない者であります。

しかし、例え、私たちがこの世の人々と同じく右往左往したり、憎しみを増幅させながら、その感情に身を任せるのであれば、私たちキリスト者とこの世の人々との違いは何処にあるでしょうか。

信仰と恐れは両立しないモノであります。マルコによる福音書4章35節以下に記されていますが、弟子たちとイエスが船に乗ってガリラヤ湖を渡る時でありました。突然、突風が吹いて船が直ぐにでも沈没しそうになっていました。弟子たちは恐れおののいて、船尾で寝ているイエスに詰め寄って抗議をします。するとイエスは彼らに「なぜ、そんなに怖がるのか、どうして信仰がないのか」と言います。ここのイエスの言葉を良く吟味してみる必要がありますが、怖がることと信仰は両立しないと言うメッセージであります。考えて見たら当たり前ですが、この世を怖がる者は信仰を失うようになります。遅かれ早かれ怖がるものに従うようになるからであります。

その騒ぎの後、イエスの弟子たちは「イエスを恐れて」互いが語り合ったと記されていますが、恐れの対象が転換されているのであります。つまり波を恐れるのでは、イエスを恐れるようになったのであります。信仰を取り戻したという意味として理解して良いところであります。この世の波を恐れるのでなく、イエスの言葉を恐れをもって聞くのが信仰であろうと信じています。

私たちはこの良くない時代を生きていますが、何があろうとも、慌てることなく、怖がることなく、すべてへの勝利者であるイエス・キリストと共に歩みつつ、良き道を見出したいものであります。

さて、今日の聖書の箇所はパウロと一部のユダヤ人との対立が語られています。そしてその対立を切っ掛けにしてパウロが一つの方向転換を決心している事が語られている所であります。

まず、なぜ、パウロ、バルナバがユダヤ人たちと対立するようになったのか、それも安息日に、また、おそらく今日の騒ぎはユダヤ人の会堂の周辺でありますが、なぜそのようになったのかを申し上げたいと思います。

 今、この騒ぎは「会堂周辺」で起こったと申しましたが、これは私の推測であります。少なくとも今日の騒ぎになったのは会堂の中ではないだろうと思われるから、このように推測をしています。先々週の聖書の箇所を通して私たちが見たように、アンテオケのあるユダヤ人の会堂にパウロとバルナバが礼拝に参加しました。そして、彼らは会堂司らに証を勧められました。それで、パウロはチャンスだと言わんばかりに、会堂司が聞けば、大変怒るような話までをしました。つまり、ユダヤ人の指導者たちがイエスを殺した事を批判しながら、そのイエスこそ救い主であって、その救い主は死に留まらないで復活をなさったと語ったのであります。

 会堂司たちには到底受け入れる事の出来ない内容であります。しかし、会衆はパウロの証を大変喜んで、来週の安息日にも来て同じ話をしてくれるように頼んだわけであります。

それで二人は今日もまたユダヤ教の会堂に来たわけであります。しかし、会堂司たちはもうすでにパウロとバルナバを喜んでいなかったから、パウロとバルナバを会堂に入れなかったと思います。パウロと自分たちとの信仰はまったく違うものであって、自分たちと共に礼拝を捧げる事が出来ないと思っていたに違いないからであります。

今の時代においての私たちはユダヤ教とキリスト教はまったく違うモノであると言うことに疑いませんが、パウロが活動していた時期にはキリスト教とユダヤ教の違いがそれほど明確ではなかったはずであります。つまり、ユダヤ人とユダヤ教とは同一視されていた時代であろうと思われますが、パウロはユダヤ人でありますので、会堂での礼拝参加はなれていることでありますし、また会堂の人々もユダヤ人の格好をして入ってきたパウロを当たり前のようにユダヤ人として見ていたはずであります。それで初めの安息日にパウロに証を勧めたのであります。しかし、パウロの証を聞いてみるとユダヤ教とは全然違うものでありました。

 どう違うのかを一言で申しますとユダヤ教は律法が生活の基準となっていますが、キリスト教においては、律法に従うのでなく、生きた律法であるキリストに従う信仰であります。

 例えば、ユダヤ人でない者がユダヤ教の信仰者となる為には、割礼を受けなければならないし、今までの生活の習慣を捨てて、ユダヤ教の律法に従って生活をしなればなりません。言い換えれば、ユダヤ人になり切らなければ、ユダヤ教徒にはなれないことであります。これは事実上、異邦人には旧約に初めに語られている天地を創造した神への信仰は閉ざされていると言って良いと思います。

 また、度々新約聖書の指摘されていることでありますが、ユダヤ人の内部においても律法を完璧に守りきる事は出来なかったようであります。また出来るモノでもありません。つまり、律法を守って神様がみるによい義人となるのは不可能であります。このような事から考えますとユダヤ教においての律法とはユダヤ人の共同体を形成し、ユダヤ人としてのアイデンティティを確保する役割をしていたものでもあります。

 そのような律法の役割を越えて、すべての人々ために、神を礼拝し、神の言葉に従う道がイエスのよって開かれたのであります。つまり、偏狭な枠としての律法、外観的な律法を守るのでなく、神の御旨を余すところなく表わしているイエス・キリストに従う事が律法に従うことであって、習慣や宗教的な儀式まで一致させなくとも良い時代が到来したのであります。

このことにいち早く気付かされた人がパウロでありました。それでパウロはエルサレムに留まるより世界に向けて伝道のために旅立っていたのであります。その途中で今日の箇所のアンテオケ教会での出来事が起こったのであります。

 ところが、このピシデヤのアンテオケは多くの人種がいる商業都市であったそうです。ここは交通の中心地であって、ギリシャ人、ユダヤ人、ローマ人そして土着のフリギア人が多く住んでいたようであります。

 そのような人々が人種を超えて、パウロの言葉を共に喜んだようであります。44節を見ると殆ど全市を挙げて神の言葉を聞きに集まったと記されています。ここの「全市を挙げて集まった」とは誇張された表現でありますが、ここで言おうとしているのは人種に関わらず、多くの人々が集まったことであろうと思っています。しかし、一部のユダヤ人たちはこの事態を喜ぶ事が出来ずに、パウロとバルナバを「口汚く」罵ったようであります。

 話が少し変わりますが、最近は来ていませんが、以前はたまにエホバの証人たちが私のところに来て自分たちの信仰を語ろうとしています。これは宗教の違いの以前の問題でありまして大変失礼なことであります。

 私はエホバの証人とキリスト教とはまったく違う信仰であると思っていますが、彼らもそのように思っているからこそ、自分たちの信仰を伝えるために教会にまで来るのであろうと思っています。

 彼らは新しい律法を掲げています。例えば、皆さんも良く知っていることでありますが、輸血は聖書が禁止している血を食べる行為であるから駄目だと言います。つまり、私たちはそのような律法を守っていないのでキリスト者でないと言うのであります。彼らはそのような律法の中に留まっているものだけが自分たちと仲間であると思うようでありますが、その律法の外にいる者に対しては大変な反感を抱くのであります。

 話を今日の箇所に戻しますが、50節を見ますと「ユダヤ人たちは信心深い貴婦人たちや、町の有力な者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出させた」と記されています。

 律法を守るのに熱心であることはこのように人を排除することになって行きます。さらには熱心であれば熱心であるほど、命を奪うことにまで過激になっていくものであります。

これは律法によって一つなっていくのでなく、律法を境にして人を隔てることであります。これが文字よる律法の限界であります。

 しかし、イサヤ書にはもうすでに神の言葉が異邦人にも与えられ、神のことによって異邦人も救われるという約束が与えられていました。それが今日の箇所でパウロが引用している47節であります。異邦人は異邦人であるがまま、つまり、ユダヤ人になりきらなくとも救いの言葉が与えられると約束されていたのであります。

 この約束は偉大なる福音であります。なぜなら、この言葉によって今まで救いの外にいた異邦人が喜ぶ事ができたのであります。また一方、生粋のユダヤ人でありながら、律法によるユダヤ人の枠から追い出されるという矛盾の只中で、苦しむパウロとバルナバにとってはよって立つ言葉であるからであります。このようにこの福音は異邦人とユダヤ人を共に生かす言葉であります。

 パウロとバルナバはこの約束の言葉に立って新しい道を開いていくのであります。ユダヤ人のだけに新たなる律法であるイエス・キリストを伝えるのでなく、異邦人にイエス・キリストを伝えるという新しい決心が出来たのであります。考えてみたら、今日箇所での事件はパウロとバルナバにとって大きな試練であります。世界伝道を夢見て一歩踏み出して見たところいきなり壁ぶつかった格好であります。大変な苦しみ、やるせない気持ちになっていたと思います。しかし、その苦しみの只中で、彼らは「異邦人の光」として立ち直る事の出来る言葉が与えられたのであります。

 苦しみの只中でも御言葉が与えられ、その言葉から新たなる力を、新たなる道が開かれる者は幸いであります。これからもこの世の一々の現象を恐れるのでなく、日々与えられるみ言葉を喜び、神さまを恐れつつ共に歩みたいと願っています。