2006年7月23日

「信仰による解放」(使徒14・1〜10)

テーマ:弱さにおいて神の栄光が現れる。

時:06.7.23. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤

私は最近、良く周りの方々に自分の体の弱さを口にしています。今日もまず弱音を吐くことから話を始めよとします。私はもう半年ほどなると思いますが、ギックリ腰から始まった腰痛が取れないでいます。鍼灸院で鍼を打ってもらったりしていますが、少し良くなるのかなと思いきやまた悪くなったりして、それが繰り返されています。

昔、「病気は自慢しなさい」と親から聞かされた事がありますが、これもまた知恵の言葉だと思っています。病気を隠せば誰もその病気のためになる情報を与えてくれません。しかし、何かの病気を周りの方々に言えば、それにはこうこうすれば良いとか、あの薬が良いとか、どこどこの病院に行けば詳しい医者がいるとか等と、教えて貰えるものであります。

また、考えてみたら、自分の強さを自慢するより自分の弱さを誇るのが聖書的ではないかと思います。第二コリント12章9節を見ますと、パウロは肉体に一つの「棘」が与えられていました。この棘の具体的な箇所や状態は言及されていませんが、おそらく、目に不治の病を持っていたのはなかったかと推測されています。兎に角、パウロは自分の弱ささえも肯定的に捉えて、その棘の事を「高慢にならないように、私を打つサタンの使いである…寧ろ自分の弱さを誇ろう」と告白しています。

イエス・キリストの十字架の姿は如何でしょうか。イエスは御子として来られました。また、イエスを慕って集まった人々は大勢いました。ですから、その人々を率いてローマ軍ともヘロデ王とも戦う事が出来たと思います。しかし、イエスは最後までそのようにすることによって、ご自分の力を誇示しようとしないで、十字架の上で息を引き取ったのであります。ご自分の上に神の愛、哀れみ、神の力が現れる為であります。そのような苦しみがあって神様は復活を持ってイエスの勝利を宣言したのであります。

人の前で無闇に自分の弱さを語る必要はないかも知れませんが、キリスト者は神の前で自分の弱さや罪を告白する事を大事にします。神様から助けられたいと言う願いがあるからであります。神様から赦され常に新しくされたいと言う信仰からであります。また、そのような自分の弱さを神の前に告白する者は必ず神様が顧みて下さいます。これがまた神様の約束であります。神の前で自分の強さを誇っている者には神様の恵みが働く余地がないと信じています。

自分のギックリ腰とパウロの棘の苦しみとは、勿論、比べ物にならないですが、ギックリ腰を経験しながら腰は体のまさに要だなと思っています。また、体と心は一つだなとも思っています。腰が痛いと心まで憂鬱になってしまうからであります。出来れば、パウロのように自分の弱さを誇ろうと言う気持ちでいたいですが、そうにはならないで、周りの方々に愚痴のようなモノを溢している自分を見ています。

今日の聖書の箇所の終わりのところを見れば、生まれながら足が不自由で歩いた事のなかった人がパウロの口を通して語られる神の言葉によって躍り上がって歩き出したという事が記されていますが、今日、皆さんも私も共に神様の言葉によって、すべてこの世のしがらみや不自由から解放され、躍り立ち上がり、夫々の生活の場に帰る事が出来ればと願います。

 さて、今日の聖書の箇所はパウロとバルナバとがイコニウムと言うところでユダヤ人のたちによって争いに巻き込まれますが、二人はその場から逃げた事を伝えているところであります。

今日の箇所を読みながら創世記の記事を思い出したところがありますが、紹介しますと 26章12節以下に記されていますが、アブラハムの息子イサクは豊かになっていました。しかし、彼の豊かさや強さを妬んで攻撃する人々が彼の周辺を付きまとうようになります。それでイサクが井戸を掘ると周りの人々はその井戸を塞いでしまうのであります。するとイサクは彼らと戦おうとしないで、その場から逃げてまた井戸を掘りますが、また埋められるという事態が繰り返されるのであります。

 そのような中でイサクは神の約束を思い出し、祭壇を築き、主の名を呼び求めるのであります。その後、井戸を掘り、塞がれると言う一連の騒動が終わるのであります。それだけでなく、今まで彼を妬んでいた人々が自らイサクのところに来て和解を求めるのであります。私たちに大いに示唆するものがあります。   

今日の箇所を見る前に、少し今日の箇所の構成を考えて見たいと思いますが、今日の箇所は異質的な二つの話が合体されたような感じであります。つまり、1節から7節まではイコニウムでの伝道の混乱が語られていますし、8節から10節までは信仰による癒しの奇跡が語られています。それで、見方によっては8節から10節までを、11節から始まる話の導入として読むことも出来るだろうと思います。実際に共同訳を見ますとそのような読み方をしています。このように読んだとしても、この8節から10節までの話は突如として入り込んだような感じは否めないと思います。何故このような構成になっているのか、色々考えさせられるところであります。

私たちは、今、連続して使徒行伝から共に聞いていますが、この使徒行伝は教会の誕生や成長の歴史であり、伝道の歴史であります。歴史とは記録者が時間の流れに従ってすべての出来事を記述するものではないだろうと思います。それより、一つの視点に立ってその視点から見て意味のある出来事を選びつつ記録するモノであります。こう考えますと使徒行伝はただ教会の成長過程や使徒たちの伝道の苦労の話を集めたのではありません。教会は神様が成長させ、導いてくれるという視点、また、使徒による伝道も神様が導き、また神様が勝利を与え下さるという視点に立っての記録であります。

また、今日の箇所の8節から10節記事は3章の記録を思い起こすところであります。つまり、ペテロとヨハネが神殿の前に座っていた足なえの人に「イエス・キリスト名によって歩きなさい」と命じると彼はたちまち歩き出したと記されています。今日の箇所と良く似ている出来事であります。この使徒行伝の記者ルカはこの二つの記事を通して、パウロもイエスの直接弟子ペテロと同じ力と権能が授けられた使徒であると言う事を暗示しているのであろうと思われます。

もう一つこの箇所は1節から7節までの対立に対して、結局パウロが正しかったと言う宣言の意味もあろうと思います。つまり、パウロとパウロに反対する人々が対立していましたが、神様がパウロの軍配を上げたと言う示唆の意味でもあろうと思われるのであります。

 私たちは今の時代になっては教会の正当性について何の疑いも持たずにいますが、初代教会時代にはそうでありません。寧ろ、ユダヤ教の会堂の数が絶対的に多い時代であります。キリスト教会は多くの人々によって大変胡散臭い信仰の共同体として見られていたに違いありません。そのような中でパウロとバルナバはまだまったく福音が伝えられていないところにイコニウムに来たのであります。

彼らはまずユダヤ教の会堂に入って福音を語りますと多くのユダヤ人とギリシャ人が福音を信じるようになりました。しかし、物事は何時ものように順調ではありませんでした。首を傾げたユダヤ人がいたのであります。今までのユダヤ教と教えが違うし、イエス・キリストによる救いの約束を受け入れる事が出来なかったのであります。

それで、彼らは異邦人を唆して、二人に悪意を抱かせます。その結果、4節を見ると町が二派に分かれて大変な軋轢が生じていたようであります。つまり、福音を受け入れた人々と、そうでなかった人々との対立が生じたのであります。そして、最後にはユダヤ人と彼らに扇動された人々が一緒になって二人を石で殺そうする事態になりまいた。一派は使徒につき、一派は反対の側に立ってその軋轢はここまで深刻にまでなったようであります。

 如何でしょうか。私たちがパウロとバルナバの立場に立たされるとどのような態度を取るべきでありましょうか。相手が屈服するまで戦い抜くべきでしょうか。そうではないと思います。

福音は誰にも絶対必要なモノであります。誰でも神の前に立って生きるべきであるからであります。それで、福音を伝えるのは正しいことであり、神様が善とするところであると私たちは告白します。と言ってもそれを伝える過程において、強制や戦いが生じてはならないのであります。そこには愛と平和がないからであります。そこにはイエス・キリストの十字架での弱さや苦しみがないからであります。

例えば、親が子供に福音を伝えるために、教会に来なければ、ご飯を食べさせないと言う親はいないのであります。聖書を読まなければ、学校に行かせないと脅かす親はいないのであります。それは強さをもって弱さを強制する行為であり、その強さの中では神様が働く場がないのであります。

 以前ある韓国の牧師から証を聞いた事があります。その牧師のお祖母ちゃんは儒教の教えに固くたっていた家に嫁として嫁いで来たそうです。ところが、そのお祖母ちゃんはもうすでにキリスト者でありましたが、当時の事情を考えれば、一家の中で最も弱い立場に立っている嫁であります。自分が信じているイエス・キリストを伝えるところか、一歩間違ったら、自分の信仰生活さえも禁止されるところであります。

 しかし、その嫁の親切や行いが義理の親を感動させ、二人がまず嫁の後をついで教会に行き、夫もキリスト者となったと聞きました。そして、クリスチャンホームなって自分も献身するようになったと言っていました。

教会の歴史を見てもそうであります。昔、十字軍は武器を持ってでも失われた聖地を異教徒から回復させようとしました。神様が喜ぶことであると信じてそのような事をしていたと思います。しかし、そのような強さの中では神様は働かなかったのであります。つまり、聖地は回復されないで、寧ろ、教会の衰退を招いたのであります。それよりローマによる迫害の時代に教会は成長したのであります。

 今の時代を見ても同じ事が言えるのではないでしょうか。キリスト教国家アメリカは絶大な力をもっています。挑んでくる戦いには真正面から受けて立っています。力を誇っています。しかし、このことによって多くの国々や人々から非難を受けています。その中でキリスト者である大統領の名前を挙げながら、教会までを批判をするのを私たちは時々耳にする事が出来ます。つまり、今のアメリカは教会の為の良い証にはなっていないと言って良いと思います。

 話を今日の箇所に戻しますが、パウロとバルナバは福音を受け入れた人々とそれに反対している人々とによって町が二つに分かれて葛藤しているのを見て、町から逃れます。意気地なしで、無責任であると非難されても仕方ないと思われるほどでありますが、彼らはその場を後にしたのであります。もし、そこで二人が「悪を抱く者たちに負けてたまるもんか」と意地を張って、戦いのリーダとして立っていたのであれば、町にはさらに大きな混乱と犠牲が生じたと思いますが、この二人は弱さと虚しさを覚えながら町を後にしたと思いますが、その後、パウロとバルナバはルステルと言うところで足のきかない人に出会うのであります。

 繰り返しになりますが、彼は今まで歩いた事がありませんでした。誰かによって運ばれて今日のところに座っていたのでしょう。ある意味で最も弱いものであります。しかし、神様はこの弱い者の信仰の故に働いてくださったのであります。彼はパウロの「まっすぐに立って歩きなさい」と言う声を聞いた踊り立ち上がったのであります。

 自分の弱さを一人で嘆いても何もなりません。もし嘆いて嘆いて何かが解決されるのであれば、もし私が今まで生きてきた経験の中でそのような例がたった一回だけでもあれば、皆さんに嘆いてくださいと勧めると思います。しかし、ただ一人で嘆いても何もなりません。結局、自分の命までを呪う者となってしまうのであります。 

 弱さを覚え、神様を呼び求める者は幸いであります。心貧しき者は幸いであります。神様によって慰められるからであります。神様によって助けられるからであります。これからも神様の前で自分の弱さを告白しつつ、共に良い主の栄光の為の証を立てつつ歩み続けたいと願っています。