明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願いします。皆さんの家庭が聖霊に満たされる一年となりますように祈ります。 正月の休みはどうお過ごしになったでしょうか。久しぶりに家族と団欒なひと時を過ごしただろうと思います。今日は今年初めての礼拝であります。その意味で私たちにとっては今日が今年をスタートさせる日であります。 新しい年を迎えるとはある意味で未知への挑戦であります。明日、来週、来月に何があるかまったく正しく予測できる人は一人もいないのであります。また、新しい年を迎えるとは今までと同じことが繰り返されるということでもないと思います。日々まったく新しいことが私たちを待っているのであります。 カレンダを見ますと明日は成人の日であります。休日となっていますが、国を挙げて大人になることを祝い、その意味を自覚して頂くために、そのようにしているのであります。ただ一日体をのばして休みましょうということでは決してないだろうと思います。わたし達の教会にも三名の方が今年で成人になります。成人式は来年のようでありますが、横山マナさん、池下アミさん、広島にいますが、渡辺ケイタ君が87年生まれでありますので、法律的には今年で成人になります。もう一人今我が家で共に暮らしているカタリナも今年二十になります。大人になる意味をよく自分の言葉で吟味して頂きたいと願います。 この間、ラジオを聞いていたら、心理学をやる先生が休みを取る方法を語っていました。大いに「なるほど」と思われましたので紹介しますが、その方曰く、何もしないでただ休むことは本当の休みにならないと言っていました。 確かに、これはわたし達も生活の中で経験することであります。例えば、お正月の後や、連休の後の仕事は逆に捗らないことを経験します。休みをとったから、肉体的に精神的にエネルギーが再充電されているはずなのに、実際はそうならないで仕事や生活のリズムが崩れて苦しむことがしばしばあります。 その方は仕事から解放されたという気持ちで何もしないことだけを喜ぶとそうなるそうです。休むときはリラックスした気持ちで次の仕事をどうするのか、ゆっくり考えつつすごすのが本当の休みであって、次の仕事につなげる創造的な休みとなると言っておりました。 キリスト者は週の初めにいつも礼拝を捧げます。世間の人々が見るとこれは休みの取り方としては適切でないと思うかも知れません。しかし、キリスト者にとって神様の前で共にひざまずく礼拝を通して、本当の休みを取るのであります。 礼拝を通して神様の前に重荷を下ろし、神様に助けを求めたり、神様の言葉を聴くのが本当の休みであると信じています。神様の前に重荷を下ろすということは自分の責任を放棄するということではありません。自分の仕事の場からただ逃げるということでもありません。キリスト者は自分に重荷を背負わされている時であろうとも、礼拝や祈りを通して神様がどのような計画を持ってそれを自分の背負わせているのかを神様に尋ねるのであります。言い換えれば、自分が担っている使命を聞き、受け入れるのであります。その時、初めて本当の意味の休みが与えられ、力が与えられるのであります。今年も共に礼拝を誠実に守りつつ、心に休みを得、力を回復することできればと願います。 今は今年が始まったばかりでありますが、今年の終わりごろになりますと人々は決まって、口々に多事多難な一年であったと振り返るのに違いありません。つまり、何もない、ただ喜びだけの一年とはありえないのであります。これはすべての人々に共通することであります。生きている限り、何か解決すべき問題が生じたり、悲しみが与えられたりするのであります。このことは神様によって守られているキリスト者にも同じであります。 しかし、キリスト者はそれを神様が与えて下った使命であるから、また神様が助けてくださることを信じて前に前に進めるのであります。それを通して、キリスト者は大きな喜びを覚えたり、自分の存在価値を見出すのであります。 もうすでに前おきが長くなりましたが、私は今日の今年で成人となるカタリナに時々「生きることは容易いことではない」と言っています。これは特に若い人々に申し上げたいことであります。成人なる皆様にも様々な困難があったり、誘惑が訪れたりするはずでありますが、そのようなモノを乗り越えて行かなければならないのであります。じゃ、それでは生きるとはただ苦しみと忍耐だけかということになりますが、そうでありません。繰り返しになりますが、キリスト者はそのようなモノを神様が与えてくださるくびきとして負って歩むのであります。そのくびきは軽いのであります。キリストが与えるくびきを自分の使命として担う者は幸いであります。 さて、今日のメッセージのタイトルを「恐れるな」と致しましたが、これはパウロがコリントにいた時のある夜、幻の中で聞いた神様の声であります。パウロは偉大なる伝道者であります。伝道のためには命をも惜しまないで、突き進むような人でありました。しかし、そのような彼にも時には恐れが訪れたりしていたようであります。それで神様は彼に必要な言葉をお与えになっただろうと思います。 パウロがこの言葉を神様から聞いたのがコリントででありました。パウロはアテネからコリントに来ていましたが、コリントと言えば、キリスト者にはとても馴染み深い町の名前であります。コリント人への手紙が聖書にありますが、特に、第一コリント人への手紙は問題の多い教会にパウロがいろいろキリスト者として歩むべき道を諭しているところが大いにあります。昔のコリントと言えば、商業として発達していましたが、町自体が大いに乱れていたようであります。例えば、「コリントする」というギリシャ語の動詞があるほどであって、これは「不品行を行う」と意味で使われていたようであります。 パウロはそのような町に行きましたが、そこで動労者であるアクラとプリスキラと出会います。夫婦でよきキリスト者として賞賛されている二人であります。新約聖書に何回が登場する夫婦であります。二人は元々ローマにいましたが、ユダヤ人のローマからの退去命令を受けて、コリントに来て生活をしていた人々でありました。また、16章4節を見ますと二人はパウロの命の危険から救う出したこともあったようであります。この二人はパウロがコリントを去った後もコリントに残り、教会を守っていたようであります。正に大いなるパウロのパートナーであったわけであります。 アクラの仕事はテント職人でありましたが、パウロもテント職人として共にその仕事しながら、自分の生活を自分で立てていました。 ここはパウロの性格が伺えるところであります。彼は人々の負担になることを気にしていて、自らの生活は自ら立てながら常に伝道をしようとしていた人であります。今の時代においても牧師の中には他の仕事をしながら牧師をする人がいます。しかし、これは良し悪しあろうと思います。また事情が許されれば牧会に専念するのが良いのであろうと思っています。 また、パウロも自分はそのように自分の仕事をしながら伝道をしましたが、それが必ずしも望ましいとも言っていないのであります。 去年ある教会の方から話を聞きました。その教会は牧師を招聘しないことを方針とする教会でありました。そして、信徒が交代で毎週メッセージをすると言っていました。しかし、彼は胸のうちにあることをも言ってくれましたが、やはり教会には御言葉に専念する牧師が必要だというのが彼の経験からの結論のようでありました。 話がそれていましたが、今日の箇所の5節を見ますと「シラスとテモテがマケドニヤから下ってきてからは、パウロは御言葉を伝えることに専念し、イエスがキリストであることを語った」と記されています。シラスとテモテはいわゆるパウロの第二伝道の旅の為にパウロと共にアンテオケ教会を出発していましたが、17章14節を見ますとパウロが身の危険を覚え、マケドニヤ地方のペレヤを去る時、この二人はそこに残っていました。そして、しばらくこの二人はそこの教会にいましたが、今日の箇所から推測しますと、二人はそこの教会からパウロに送られる献金を預かってパウロの所に戻ったようであります。それでパウロは再び御言葉を伝えることに専念することが出来たようであります。パウロにとって大変嬉しかっただろうと思います。自分を覚えそのように献金を送ってくださって、御言葉を伝えることに専念するように励ましてくれたからであります。 しかし、コリントに住んでいたユダヤ人の多くはパウロが伝える御言葉に反抗し、ののしり続けていました。その度合いが酷かったようで、パウロも自分の激しい性格をもろに出して大変な怒りの言葉を彼らに浴びせます。つまり、自分の上着を振り払いながら「あなた方の血は、あなた方の自身にかえれ。私には責任がない」と言うのであります。 パウロが言い過ぎたのではないかと思われるほどでありますが、それほど彼は怒り狂っていたのでありました。 この記事の後8節を見ますとまた会堂司クリポスとその家族一同が主を信じた事、他のコリントの人々がバプテスマを受けたことが記されています。パウロにとってこの上ないほど嬉しい事であります。 私は今日の箇所を読みながら喜びと悲しみ、怒りが交互に語られているんだなと思いました。つまり、嬉しいアクラとプリスキラとの出会いがありました。また、以前のいた教会からの支援もありました。しかし、力を込めて伝えてもまったく受け入れないでののしる人々もありました。パウロは神様からの使命として伝道をしていましたから、ですから、それが彼の生きがいであったと言って良い訳でありますが、あるのにそれが拒否される時の挫折感を大変であったと思います。 しかし、彼は挫けないのであります。彼には果たすべき神様からの使命が明確であったからであります。また考えてみたら、誰だってそのような日々を過ごすのに、一生を過ごすのに様々な困難が起こってきます。 問題は人生の全体を貫く信仰があるかないかであろうと思います。言い換えれば、神様の使命を受けて生きるか、それとも、苦しみは意味がないものとしてただ避けようと必死になって生きるかであろうと思います。困難を避けることが出来れば、その道を選ぶべきでありますが、その道はないと思います。 話を纏めて終わらせて頂きたいですが、パウロにもそのような困難を前にして時には伝えるのをやめたいと思っていた時期もあっただろうと思います。恐れを覚える時もあっただろうと思います。しかし、そのような時、パウロは神様から「恐れるな、語り続けよ、黙っているな」と言う声を聞くのであります。 というより、彼には神の言葉を聞く信仰があったからこそそのような言葉に立つ事ができたと言う方が良いかも知れませんが、その信仰があったからこそ彼は神様の言葉によって励まされ、前に前に進むことが出来たのであります。 私は今日の箇所を読みながら神様はなすべき務めを与えた人には、それを成し遂げる力や協力者をも与える方だなとも思いました。決して一人にさせない方であると思いました。私が神学校に行こう時、神学校を薦めた下さった先生が私に言ったことを覚えています。これからも忘れることがないと思いますが、その先生は神様からの使命を受けて立つ者には神様が必ず必要に応じて満たしてくれるから、ただ前を見て進んでくださいと言いました。 今日の聖書の箇所を読みながらその時の話を思い出しました。パウロには様々な困難が訪れますが、その度によき協力者が与えられたり、金銭的な支援が与えられたりしているのであります。 今は一年を始める時であります。神様の言葉を聞き、この一年どのような使命が私たちに与えられたかを聞く事からこの一年をスタートさせる事が出来ればと思います。その使命を聞いて立つものは必ず神さまが共にしてくださると信じています。 |