「未来の審判」(使徒24章22節〜27節) テーマ:すべての人は何れか神の前で審判を受けなければならない。 時:07.8.26. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 先週の水曜日には佐賀北高校が甲子園で優勝しました。全国の人々に感動を与えてくれたのではないかと思っています。日本だけでなく、この優勝は韓国の新聞にも「爽やかな高校生の反乱」と言うタイトルで紹介されていました。私が偶々テレビをつけた時は、丁度8回裏が始まっていた頃でありましたが、北高校を応援する女子学生たちはもう負けたと思っていたのか、泣きながら声を上げ、手を振っていました。 その時、逆転満塁ホームランが出たわけであります。野球の面白さを十分満喫させてくれた選手たちに「有難う」と言いたくなる気持ちでありました。久々、スポーツを見ながらとても感動をしました。 多くの人々も私と同じ思いを抱いているのではないかと思いますが、プロ野球よりやはり高校野球が面白いものであります。プロ選手に比べれば、未熟なプレーであるのは当たり前でありますが、一生懸命にグラウンドを駆け巡る姿は見る人に純粋さを思い起こしてくれます。 野球だけでありませんが、時々プロスポーツやオリンピックなどの試合では不愉快な気持ちになる場面が往々にあります。選手どうして乱闘になる場面もそうですが、特に審判の判定をめぐって争いが良く起こります。人間のやることでありますから、誤審もあろうかと思います。しかし、時には誤審と言うより明らかにあるチームに有利に判定を下す場面もあります。そのような試合を見た後は暫くの間、後味が悪いと言うか、不愉快になってしまいます。 私は高校野球でそのようなトラブルを見た事はありません。高校野球の試合の場合でも、判定に不満を抱かざるを得ない時もあろうかと思いますが、乱闘になったり、監督と審判と揉みあいになったりする場面は見た事がないのであります。 また、審判が意図的にあるチームに有利に働いたという事も聞いた事がありません。そのようなこともあって高校野球は何時までも人気があるかも知れません。 ところが、どのようなスポーツであろうとも必ず審判があります。試合が公正に行われる事を確保するためであります。この審判は英語ではアンパイアと言いますが、これの本来の意味は「同じでない人」と言う意味があるそうです。つまり、選手とは違う人と言う意味で、選手に何かの処分を下すことの出来る権限が与えられた人の意味が含まれています。考えてみれば、もし、この権限が与えられている審判がなければ、どの試合も成り立たないかも知れません。ただの殴り合いで終わるものが多くなるのではないかと思っています。 さて、今日の聖書の箇所はパウロとペリクスとのやりとりが語られているところであります。私は今日の箇所を読みながら、この世中には今も昔も悪い者はいるんだなと思いました。と言うのは今日の箇所のペリクスはパウロに親切にしていますが、色んな面において不道徳的な人であります。パウロに親切にしているのもお金を貰いたいという下心があるからであります。彼はパウロからお金を期待してパウロに寛大にしていたのであります。 もう少しペリクスの人柄について申しますが、パウロを訴えでているイスラエルの人々の要請を聞き入れて裁判が開かれましたが、ペリクスは簡単に判決を下すのが困難であると思ったのか、初めからこの事件に関わっていたローマ兵の千卒長が来るまで判決を延期することにしました。そして、その間、パウロを寛大に取り扱うように配慮もしつつ再び監禁をしたわけであります。 そして、数日の後、彼は自分のユダヤ人の妻ドルシラと共にパウロを呼び出し、イエス・キリストについて話をしてくれるように頼みました。記録によりますとこのペリクスの妻はヘロデ・アグリッパ1世の娘であります。聖書を読んでいるとヘロデ家の名前が度々出て、誰が誰かややこしいところであります。なぜそうなったかと言えば、ヘロデ大王がなくなった後、子供たちがイスラエルを分割して統治していましたので、ヘロデと言う名を持つ王が何人もいるからであります。 そのようなややこしい話はさておいて、このドルシラと言う人はペリクスの三番目の妻でありますが、いわく着きの妻であります。つまり、人の妻でありましたが、ペリクスが計略で奪った妻でありました。ペリクスは特に彼女を可愛がっていたのか、今日の箇所を見ると一緒にパウロを呼んで話を聞こうとしています。 ところが、パウロの口から出てくる言葉は正義と節制と未来の審判に関する話でありました。二人にとっては心に痛みと不安を覚える話であります。それで彼らは話を中断させて今日はここまで聞こうと言ったのであります。 神様を信じる者にとって福音は慰めの言葉であって、希望を頂く言葉でありますが、彼らにはそうでなかったようであります。 ここで少し立ち止って、正義、節制、と未来の審判とは何かを少し考えて見たいと思います。これは私たちが生きる上でとても大事な概念であります。正義と言う言葉を私たちはあまりにも良く聞いていますので、知っているような気になっているかもかも知れませんが、それを自分の言葉で言い表そうとするとかなり難しいことに気付きます。 中国の昔のある人は正義を「人の道」だと言いましたが、これもまた具体的になっていない話であります。昔から何が正義であるかと色んな人が様々な見解を示してきました。しかしながら、これまで、これが正義だと絶対・普遍的なものとして確立されていません。これからもそうであろうと思います。 広辞苑を見ますと多様な正義の定義の一端が紹介されていましたが、プラトンは国家の構成員がそれぞれの責務を果たし、国家全体として調和が取れた事を正義だと言ったようであります。また、アリストテレスは能力におじての公平な分配が正義だと言ったようであります。 法律が言う正義とは何かを申しますと、時々どこかで見かける絵でもありますが、その絵が良く法律が言う正義を表しています。つまり、女性が片手で秤を片手で剣を持っていますが、秤と剣は公平と処罰を意味します。法律ではこれが正義の象徴だとよく言います。また、ある人は「強者の利益」が正義だという乱暴な話をもしました。 パウロが今日の箇所で言う正義とは何だったでしょうか。結論だけを申しますとこれはウロが力説した問題でもありますが、神様によって義とされる正義であります。これを一言でまとめて「信仰義認」とも言います。こう申しますと初めて聞く方には更に難しくなったと思うかも知れませんが、そうではありません。平たく言えば、人間が作り上げた正義でなく、神の御旨が啓示されたイエス・キリストに従う事が正義であるという意味であります。 人は自ら絶対的な正義を分かる事も、またそれを完璧に実現する能力もありません。それは歴史が私たちの経験がよく知っているところであります。といって人々は正義と言う言葉を諦める事はできません。それで昔から様々な法律や規則を作ってそれを守ることを一応正義だと言ってみたりしてきたわけであります。 この事はキリストがこの世に来られまではユダヤ教においても事情は似ておりましたが、イエス・キリストが来られた後はキリストに従う事が、正義の始まりであり、完成と言う信仰が生まれたのであります。 こう言いますとイエス・キリストに聞き従う事とこの世の常識と対立するものかのように聞こえるかもしれませんが、そうでありません。イエスの言葉は常識やこの世的な正義をしばしば乗り越えてしまう事はありますが、これらと対立するものではありません。例えば、この世においては敵を敵として憎む事が常識であり、場合によってはそれが正義でありますが、イエス・キリストは敵を愛せよと常識をはるかに超えての規範を私たちに勧めるのであります。そのイエス・キリストに聞き従うのが正義であります。 二番目の節制とはそれほど難しい概念ではないと思っています。英語的な言い方でもありますが、節制とは自己コントロールであります。コントロールすべきものは様々あろうと思います。何より自分の欲がコントロールの対象であります。これだけに限らないで時には自分の時間やお金をなどコントロールの対象であろうかと思います。概念的にはそれほど難しいものではありませんが、勿論、また実際にこれを実行していくのは容易い事ではないことを私たちは知っています。 最後に未来の審判でありますが、これこそ私たちの信仰者に最も大事な神様の約束ではないかと思っています。信仰者のみあの世への希望を抱いて生きる事が許されるものであります。 私たちは時々今を生きることを強調します。よく分かる話であります。これは今、最善を尽くし、目の前にある事や、目の前にいる人に対応する意味であります。一寸後でなく今を生きるための大事なモットである事は確かであります。 しかし、考えてみれば、過去や未来と断絶されて今はないものであります。今は過去の積み重ねの延長線であって、未来へとつながっている今であります。今やった事ですべてが終わりと言うことはありません。例え、今、信念を持って最善を尽くし、それが今は評価されなくとも何れか評価されるという希望を抱く時、継続する事ができるものであります。また今は評価されても、何れかそれが評価されないだろうと言う未来への予測があって、初めていまやっている事の修正への道が開くものであります。 例え、今イエス・キリストに従うことによって不利益や苦しみを受けるとしても、何れか神の前で正しく評価される日が来るという信仰が私たちを希望へと導いてくれるものであります。今正しくないことによって得ている利益が楽しいとしても、何れか必ず神の前で審判を受けなければならないという信仰が、その道を悔い改めに導くものであります。 先ほど、人は普遍的な正義を知らないと申しましたが、人が正義を知っていてもそれを適用するには多くの過ちを犯すものであります。この事を比喩で言いますと、野球の試合の時、守るべき基準があります。その一つとしてストライクゾーンと言うモノがあってそのゾーンに入るボールだけをストライクとしなければなりませんが、どんなにすぐれた審判であろうとも失敗を犯すものであります。 法律もそうであります。どんなにすぐれた適用基準があっても、それを適用していくとどうしても不条理が生じてくるものであります。 また、法律には時効と言うものがあります。例え、殺人を犯した人が時効の後、捕まえてもその人を処罰することは出来ません。殺人をするのは普遍的な正義に反するとすれば、幾ら時間が経ったとしても、それに相応しい処罰をしなければならないのに、出来ないのであります。このようなものが人間の営みが設定した制度による正義の限界であろうと思います。 イエス・キリストは復活の後、40日間弟子たちに色々教えまた諭して、天に昇りましたがその際、必ず来ると約束してくださいました。その再臨が何時であるか分かりませんが、何れかその約束を果たして下さると信じています。イエスが再臨する前に私たちが先になくなるかも知れませんが、それでもってすべての終わりではありません。再臨の時にはすべての人が起され、神も前で審判をうけなければならないのであります。言い換えれば、すべての人によるすべての業のアンパイアとして神様が再び立ってくださるという約束は実現されるのであります。 その審判は人が人を裁くように不正確なものではありません。全く正確な審判をなさるだろうと信じています。今、隠れて見えないものであろうとも、神様はすべてを覚えそれを裁くのであります。この約束が私たちにとって今を生きる基準となるものであります。 しかし、この事を恐れる必要はありません。神様は何よりイエス・キリストとして信じ彼に聞き従う者を正しい者とする約束してくださったからであります。信仰に生きる者は幸いであります。 これからも、何時来るか知らない花婿を待つ花嫁のような心境で、待ち望みつつ、今日も生き、また明日を生きたいものであります。 |