「宮に対しても、カイザルに対しても」(使徒25章1節〜12節) テーマ:キリスト者はこの世の光と塩である。 時:07.9.2. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 この間、木曜日にミヒャエラと子供たちが戻ってきました。私たちにはもうすでに日本はかなり過ごしやすくなったと感じていますが、ナオミにはまだ暑いようで、「暑い、暑い」と連発しています。これから一年の内にもっともいい季節が始まりますが、少しはこの季節を楽しみたいものであります。 先週も色んなニュースがありましたが、もっとも大きなニュースは安部内閣の改造ではなかったかと思います。この改造の切っ掛けになったのはやはり一ヶ月前の参議院選挙での自民党の大敗であろうと思います。 前の参議院選挙や今度の改造を見ながら、まず、思いついた事を少しもうしあげますが、小沢民主党代表の影響力と言うか政治力に驚きました。そして、若しかしたら、彼が志している日本の政治構造になるかも知れないと思いました。 もう少し詳しく申しますと、といっても正確は年度や党の名前などを調べてでなく、記憶に頼ってでありますが、小沢さんはもともと自民党の幹事長までした人であります。また、そのまま自民党にいれば首相に間違いなくなるだろうと言われた人であります。しかし、彼は自民党から飛び出て新しい党を作りました。それで人々は彼を「ハカイヤ」とも呼んでいるようであります。 自民党の中でそれほど有望視されていた人が何故自民党から出たのか言えば、彼は日本いは二大政党が必要だと思っていたからであります。私は彼が自民党を出た理由をそのように説明をしていた記者会見を覚えていますが。その時、なるほどと思われました。 日本の政治は世界的に見てその類を見る事が出来ないほど長い間、自民党によって、政権が維持されています。ある政治評論家は自民党と言う一党によって政権が維持されていると言うより自民党の内の各派閥によって、実際には政権交代が行われているんだと言う人もしましたが、一般的な見方をすれば、やはり、自民党一党によって政権が続いていると言うのが妥当であろうと思います。 しかし、大きく見るとやはり小沢氏が言うように、有力な二つの政党があって互いに牽制し、競い合いながら、その結果として政権交代が行われるのが望ましい政治体系であると言えるものであります。今度の参議院選挙を見ながら、そのような可能性が少しはあるかなと思ったわけであります。 こう言いますと私は小沢氏や民主党を支持する人のように思われるかも知れませんが、全くそではありません。寧ろ、民主党や小沢氏は自民党に対してもっとその色や政策の違いを鮮明にすべきだと思っています。しかしながら、あくまで望ましい政治体系として小沢氏が言うように二つの有力な政党があるのが良いと言う考え方には賛成しています。 因み申しますが、時々どの党に票を入れれば良いか分からないから選挙に行かないと言う人がいますが、私はそのような話を聞く時、決まった言い方をしています。つまり、今の与党に明確に票を入れる理由がなければ、もっとも有力な野党に入れるべきでありますと言います。やはり権力には牽制し合うシステムになっていないといけないと思っているからであります。 さて、政治には素人でありながら、また、神様を賛美する礼拝とはまったく無関係のように思われるかも知れない政治の話を申しましたが、何故かと言えば、今日の聖書の箇所にパウロの言葉として「宮にたいしても、カイザルに対しても、罪を犯していない」と言う言葉が記されているからであります。ここのカイザルとはローマ皇帝を意味しています。もともとカイザルとは名字でありましたが、何名かの皇帝がその名字を受けついていたので、皇帝の意味としても使われるようになりました。 勿論、皇帝は政治的に頂点に立つ人でありますが、パウロはこの世の権力者にも、神を意味する宮に対しても、誠実であったと言っているのであります。 このパウロの言葉は私たちに対してのメッセージでもあります。つまり、信仰者は神様だけに誠実であれば、それですべてが済むのでなく、この世の権力者に対しても、誠実であるべきと言うメッセージでもあります。 話が前後しますが、今日の箇所の背景を先に申しますと、パウロは今イスラエルの宗教指導者たちに訴えられて、ローマのフェストと言う総督の前に立っています。ここまで来るに長い歳月が必要でした。先週はパウロとペリクスと言う総督とのやり取りを通して共に学びましたが、今日の箇所のパウロの相手としての総督はフェストであります。ペリクスは2年間もパウロが監禁されたまま放置しておいたわけでありますが、その後任としてフェストが来て今パウロの裁判を再開しているのであります。 この裁判の中での先ず、注目すべき言葉はやはり先ほど申し上げたように「宮に対しても、カイザルに対しても」罪を犯していないと言うパウロの言葉であろうと思います。 歴史において政治と宗教と言う関係はとても様々な形態がありました。政治と宗教が一つになっていた時もありました。この形態は旧約の聖書のサムエル記以前にも現れています。また時には政治と宗教が対立していた時代もありましたし、協力しあい、持ちつつ持たれつつの形態をとっていた時代もありました。時には一方が他方の優位に立っていた時代もありました。 私たちはこの国家を時々「この世の国」とも言いますし、これに対して教会を神の国の雛形だとも言います。勿論、国家はひとつの国籍と言う概念を基盤して構成されていますが、教会は国籍とは関係なく、信仰を共にする群れとして立っています。このように立っている基盤が互いに違うものであります。 しかしながらも、信仰者はこの世の国家に属していながら、教会にも属している者であります。それで、この二つの関係をどのように調和させていくかと言う問題にしばしば出会うのであります。 例えば、靖国問題などは決して信仰者として無関心にはいられないものであります。死者を神と祭るのも私たちの教理からは決して理解できないものでありますが、それより、そのようなことによって、神道と国家が持ちつつ持たれつつと言う関係になることは一般国民にも、信仰者にも極めて憂慮すべき事態であります。その危険性は太平洋戦争が十分物語っているはずでありますが、どうやらその教訓が段々忘れ去ろうとしている今ではないかと思っています。 政教分離の原則はイエスも語りました。税金を納めるべきかどうかとイエスに難癖を突きつけた人々に対して、有名なみ言葉でありますが、カイザルのモノはカイザルへ、神のモノは神へと宣言しましたが、このイエスの宣言と今日のパウロの言葉と極めて似ています。 考えて見れば、不思議な気もします。なぜなら、ご存知のようにパウロはイエスから直接学んだ事がありません。しかしながら、イエスの言葉とほぼ同じ言葉を今日の箇所でパウロは発しているのであります。イエスから直接学んではいなかったけれども、パウロはイエスの教えを誰より正確に理解し、学び取っていたと推測されるところであります。 ここでもう一つ確認すべきことはイエスやパウロが「カイザルに対しても」と言った言葉は私たちが置かれている状況とは違うと言うことであります。つまり、イエスにとってもパウロにとってもローマは自分たちを植民地として支配している国であります。殆どのイスラエルの人が憎むべき国家であって、命を掛けてでも戦うべき国家だとしか思っていなかった時代であります。聞き従うより、協力するより、まったく激しく抵抗するのが正義だと思われていた時代であります。そのような憎むべきローマでありますが、イエスもパウロもほぼ同じ趣旨で、カイザルに対しても罪を犯してはならないと言うのであります。全く両立できないような話であります。つまり、憎むべき者であっても、従うべき事柄には従わなければならないと言うメッセージであります。私たちは簡単にアーメンとは言えない戒めであります。 ここで少し視点を変えて考えて見たいと思いますが、憎むべき者であるから力を持って抵抗することだけを善としなければならないのであれば、テロをも肯定しなければならない場面に出会うだろうと思います。 この矛盾する二つの戒めを調和させれば、従うべきことには従いつつ、抵抗ないし、反対すべきモノには、この世の平和が維持しながら反対することであろうと思います。これは極めて難しい判断であり、舵取りであります。 例えで、申しますと、今の政治や国家が私たちの意見や信仰とは相容れない政策は方向に進んでいるからと言って、税金を納めるのを拒否日したり、暴力を持ってその意思表示をするのであれば、右翼的な政治団体と違うところがないと思います。 私たちの生活の中で起こりうる例で申しますが、例え、皆さんが道端で一万円を拾ったとすれば、どうすべきでありましょうか、私はこの世の国家より、神の国を愛する信仰者であるからと言いながらそのお金を献金としますか、それとも警察に届け出ますか、それとも神様が私にくれたと言いつつ自分の物にしますか。私は思うのに、やはり警察に届け出るべきであろうと思います。これが国家が望んでいる方法であるからであります。また、そのようなお金で献金をしても神様は喜ばないと信じています。 因みも申しますが、献金とは私たちの汗を流して得た尊いモノを神様に捧げる信仰行為であります。あってもなくとも良い様なお金をもって献金するものではないと思っています。ある方が私に自分は自分の生活で少し圧迫を覚えるほどの金額を持って献金していますと言っていました。それで生活全体が整えられると言っておりました。 話を纏めて終わらせて頂きたいですが、私たちはこの世の国家に属しながら、神の国の雛形でもある教会に属しています。この二つの国は互いに交じらないものであって、また交じってもならないものであります。しかしながら、この世の国家は必ずしも常に教会が望んでいるように、祈っているように進むわけでもありません。ここで私たちは時にはもどかしさを、時には怒りを覚えたりするものであります。 といって無条件に抵抗し、神様が喜ばない武力を持って抵抗すべきモノではないと思っています。平和のために従うべきものには従いつつ、また許される範囲や方法をもって反対をもしなければならないところに私たちの信仰者は、教会は立っているのであります。 信仰者は、教会はこの世の塩であって光であります。この言葉はとても意味深いものであります。教会がこの世に対して、この世の国家に対して光と塩となりなさいと言う戒めであります。塩のない食べ物はすぐ腐ります。つまり、塩の抜けたモノだけが単独で立っていれば、腐って悪臭を放つものであります。 教会はこの世に対して牽制役の塩として立っていなければならないのであります。塩気のないものとなってはならないのであります。もしそうなれば、もう塩の役割を自ら放棄していることであります。 この世は暗い闇であります。この暗闇の中で教会は光としてたっているべきであります。光は暗闇の中にたっている時、その役割を果たせるものであります。決して暗闇と光は一つとはならないものであります。光が闇に対して、対立と牽制をしている時尊いものであります。 私たちの信仰者は、この世は神の国と世俗の国と言う二つの大きな構造になっていることを知っています。その故に、時には教会は世俗の国家を牽制し、時には教会がこの世俗の国家のために祈り、正しく進むように言わなければならない時がある事をも知っています。 私たち信仰者と教会はこの世の国家と距離を置きながら見下ろせるようなところに立っているものではありません。また、この世に対して力による革命を企てるべき位置にあるものでもありません。あくまで神の愛と、良心の上に立って、この世の塩と光となるべきところに立っているのであります。これからも共にこれを覚えつつ歩みたいと願っています。 |