「フェストの悩み」(使徒25章13節〜22節) テーマ:主が見るに良き決断をする者は幸いである。 時:07.9.16. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 昨日は青年会が主催した音楽集会がありました。雨のせいか、期待していたよりは人数は少なかったですが、喜びに満ちたひと時を皆さんと共にする事が出来ました。青年会の皆さんに感謝します。 先々週のメッセージの始めにも日本の政治について少し申し上げましたが、今日も先ず安部総理の辞任との関連の話を少し申し上げたいと思います。彼の今度の辞任は余りに唐突で、国民は呆れ果てているようです。 安部総理が自民党の中でリダーシップを発揮出来なくなったのは参議院選挙での敗北からであろうと思いますが、その時が辞任のタイミングであったと言われています。しかし、その時は辞めないで、首相職を全うするという強いメッセージと共に改閣まで断行しましたが、結果はそうならなかったのであります。考えてみれば、選挙の敗北の時から総理は気力を失い、今度の改閣の時からは全く植物状態になっていたようであります。 この辞任の直接的な原因が何であるかについて色々取り沙汰されていますが、どうやら自民党の幹事長と官房長官に指導力を握られていた事が大きかったようであります。 と言ってもこの辞任のすべての責任は安部総理が被るしかないものであります。つまり、まわりの人やそのような原因を作った人々がその責任を分け合う事が出来ないし、他の人が自分の辞任の責任があると言っても全く空しいものであります。なぜなら、彼自身が自民党の責任者であるからであります。それで安部総理に非難が集中されているのであります。 勿論、総理大臣は大変責任の重い地位であります。極めて孤独な地位であろうとも十分推測されます。でも、そのような形で責任を放棄するのはいくら非難されても仕方がないと思っています。 さて、今日の聖書の箇所はフェスト総督の悩みが画かれている箇所であります。パウロも直接は登場してこない場面でありますが、地域の治安や政治の責任者であるフェストはパウロをどうすれば良いのかまだ判断が出来ないで躊躇している様子がよく現れている箇所であります。それで今日のメッセージのタイトルもややロマンチックでありますが、「フェストの悩み」としたわけであります。 もう少し今までの経緯を申しますと、パウロは世界伝道に導かれて、小アジアを旅していましたが、途中でペンテコステに合わせて、一時エルサレムに戻りました。そこでイスラエルの人々によって信仰上の問題で訴えられました。つまり、今日の箇所の19節にも言及されていますが、パウロはイエスの復活を人々に伝えていましたが、それが主にイスラエルの人々から怒りを買ったのでありました。 2000年経った今も教会とキリスト者はイエスの復活を信じ、人々にそれを伝える事を使命としています。多くの人々はそれを聞くと怒るまではしなくとも、心の中で笑ったり、分けの分からない話だと呟きます。 教会が誕生して間もなくの時代にはイスラエルの人々はそれを語ること、それを伝えることは死に値する罪だと思っていたようであります。それで人々は復活を語るパウロを殺すようにフェストに訴えていたのであります。 イエスは御子としてこの世に来られ、人々に悔い改めて、神に戻るように奨めましたが、人々はそのイエスを捕らえ、十字架に掛けて殺しました。しかし、イエスの自らの預言でもあり、旧約に約束されていた事でもありますが、三日後に復活をされ、弟子たちに現れていました。パウロは復活のイエスに直接会った訳ではありませんでしたが、つよい光の中でイエスの声を聞き、イエスの復活を信じるようになり、その喜びを人々に伝えるために命を掛けようと決意をしていた人であります。 話を今日の箇所に戻しますが、そのようなパウロを捕らえて、訴えているイスラエルの人々の話をフェストが聞きますと、どうしても死に値するような悪事ではありませんでした。 それもそのはずであります。人を死刑にするには死刑を定めた法律の条文が必要であって、また法律が定めた条件を満たしている時初めて、死刑と言う判決が出来ますが、ローマ人のフェストから見れば、ローマの法律にはパウロを死刑に出来るようなものがなかったわけであります。 フェストからすれば、イスラエルの人々とパウロの対立とはただ信仰上の問題であって、心の内部の問題に過ぎなかったのでありました。勿論、心の内部のモノは外に何れが現れるものでありますが、復活を信じることによって外に現れるものは、希望の言葉であって、永遠に生きる命の言葉であります。限りなく神によって注がれる愛であります。その愛を受けての隣人への愛の実現しようとするのがキリスト者であります。 復活を信じることは愚かな事でもなく、他人に危険を及ぼすようなものでもありません。寧ろ、人が生きるに欠かせないものであります。 兎に角、法律的な根拠のない処罰を求めているイスラエルの人々の訴えを前にしたフェストは大変困惑をしてしまいました。と言うのはこのような処罰を求める人々を受け入れないことによって、自分が責任を負っている地域で、反乱で起こったらこれは大変であると思っていただろうと推測をしています。このカイザリヤと言う地域は他の地域のようにローマの力が安定的に及んでいるところでなかったようであります。ですから、イスラエルの人々の願いを全く無視することも容易いことではなかっただろうと思っています。 と言ってローマ市民権をもっているパウロを一方的な人々の主張や憎しみだけを聞いて死刑にすることも出来ないとフェストは思っていたのでありました。 フェストがこのような悩みをしている時に、アグリッパ王とその娘、ベルニケとが表敬訪問のために自分のところに来たところ、その悩みと今までの経緯を説明しているのが今日の箇所の話であります。この事をもう少し申しますと、ご存知のようにイスラエルはローマの植民地でありましたので、その地域の最高責任者はローマの総督であります。つまり、アグリッパ王より上の人でありましたので、フェストを表敬訪問しているのであります。 今日の箇所を見る限りフェストはかなり慎重な人であって、合理的に判断をする人のようであります。彼はローマの仕来りやローマの法律に則って、この事件を処理しようとしていた事がよく伝わります。 地域の治安の責任者として、また人の命を奪うことの出来る権限が与えられている者として当然の悩みであろうと思います。 今日の箇所を読みながら、私たちに思い浮かぶ場面があります。イエスが十字架に付けられる前にピラドと言う総督の前に立っている場面であります。ピラドはイエスには罪がないことを知っていました。しかし、イスラエル人々の叫びに負けて、イエスを十字架に付けても良いと最終的な判断を下した人であります。彼は群衆を恐れてそのような判断をしたとも言えると思います。彼はそのような判決を下しておいて、水で手を洗いながら、イエスを殺した罪は自分には関係ないと自ら宣言をしました。全くの責任の放棄であります。自分がどのような地位にいるかの忘却であります。 如何でしょうか、彼は自らのそのような宣言によって、イエスを殺害した罪から逃れる事が出来たでしょうか。そうではありません。永遠に彼の名を不名誉な名として語られているのであります。 このピラトと今日の箇所のフェストとを比べれば、フェストの方がよりましな選択をしていると思います。彼はパウロを死に渡す事を出来ないと思っているのであります。 話が変わりますが、私たちは日々を様々な事を選択し、決断をします。小さいものであれば、天神に行くのに電車で行くか、バスで行くべきか、それとも車で行った方がいいかなどを色んな事を顧慮しながら選んでいます。 生活のすべてが選択の連続であると言って良いかも知れません。そのような時、迷ったり、悩んだりをします。時に明確にある事が正しいと思いながらも、回りの状況を考えながら、不本意な選択をしてしまう時もあります。ピラトがそうでありました。 また、私たちは自分がおかれている地位や立場を考慮して判断をしなければなりません。例えば、親は親としての判断をしなければならないのであります。幼い子供がナイフをもって遊びたがっているからと言ってナイフを渡しながら、これはお前の責任の下で遊ぶが良い、もし怪我をしても私には責任がないと言うのであれば、親としての責任を放棄であります。また、実際に怪我でもすれば、親の責任は放棄できない事だと気付くだろうと思います。 こう考えますと私たちは様々な地位や立場に立って、それに則って決断をしています。親として、大人として、教師として、夫として、妻として、キリスト者として、日本人として、大臣として、総理としてなどなどがあります。そして、それぞれ地位にたって選択や決断をしては、良い結果であろうとも悪い結果であろうとも、その責任を負うものであります。どのような形であろうとも決してその結果から全く離れる事は出来ないものであろうと思っています。何らかの責任を負うしかないものであります。 例えをもう一つ申し上げますが、私たちの周辺には様々なマニュアルがあります。鍋火買ってもその使い方、つまりマニュアルがついて来ます。料理の本も一つマニュアルのようなものであると思いますが、料理のレシピ通り作っても、人によって味が違うものであります。ですから、いくら料理の本の通り料理をしたとしても、最終的には自分が味を見て確認をするものであります。料理本を作った出版社が味について責任を取ってくれるものでない事を知っているからであります。 何故、このような例えを申し上げたかと言えば、すべて事の最終的な責任は自ら取るしかないものであると言う事を申し上げたかったからであります。言い換えれば、何処何処にそのように書いてあったからそのようにしただけだ、それで自分には責任はないというのは許されるものではないと言うことであります。 話を纏めて終わらせて頂きたいですが、私たちがキリスト者として、救われた者としての誇りも、喜びもあります。そうであれば私たちはキリスト者としての責任もあります。この責任は神様への責任であり、隣人への責任でもあろうと信じています。 パウロは他のローマ書1章14節で、「私にはギリシャ人にも、未開な人にも、賢い者にも、無知な者にも果たす責任がある」と言いました。つまり、すべての人に対して責任があると言うのであります。どのような責任なのかと言えば、福音を伝える責任であって、神の愛を伝え、共に分かち合う責任であります。キリスト者は決して、孤立されてはならないものであります。言い換えれば、他人に対して何の責任も無いところに立っているものではありません。 今日の箇所でのフェストはローマの仕来りに則って、決断をしようとしながら苦悩しています。また、先ほど例として申し上げたピラトは群衆の機嫌を大事にしようとして、御子イエスを殺害する最後の責任者としてなってしまいました。 私たちキリスト者は何に則って、何者として時には悩み、また、判断すべきでありましょうか。男としてだけでありましょうか、日本人としてだけでありましょうか。そうではないと思います。やはり最終的には私たちはキリスト者として、神によって造られた一人の人間として、神の声を聞きながら、日々選択をし、決断をしながら歩むべきではないかと思っています。その時、私たちは隣にいる人が誰であろうとも、その人に対して責任のある者として関わる事が出来るのであります。私たちは決してキリスト者として、隣人への責任を放棄してはならないのであります。と言うより、人は決して隣人への責任を放棄できないものであります。 |