| 「悔い改めに相応しいわざ」(使徒26・19〜32) テーマ:その実を見ればその木がどのような木であるかを知る。 時:07.10.14. 於:和白教会主日礼拝 説教者:黄仁坤 収穫の季節です。私たちの教会でもこの収穫の季節を感謝して教育委員会の主催で、再来週にみかん狩りに行く計画を立てています。多くの人々が共に行けることを期待しています。今年も三上農園でありますが、私はこの新宮町に住むようになって立花蜜柑の美味しさを知りました。スーパーに行けば様々な地域の蜜柑が並んでいます。形は似ていますが、味はそれぞれ違います。それぞれ品種と地域が違いますし、育てた農民も違うからであろうと思います。 私は今まで、立花蜜柑ほど美味しいのをまだ食べた事がありません。その中でも特に三上農園の蜜柑は美味しいと思っています。その農園の三上さんが勤勉に管理しているからであろうと思っています。ここで、まず、収穫の季節を感謝するという意味を少し考えてみたいと思います。 農民にとってはこの季節は収穫と共に一年間の労働を終えるという意味もあり、一年の働きが評価される時期でもあろうかと思います。しかし、私たちにとってはそのような意味は薄く、収穫されたものをただ美味しく頂くのではないかと思います。 私たちは土を耕すこともしなかったのに、枝にぶら下がっている蜜柑をもぎ取って食べれば良いわけであります。これも蜜柑狩りに行った時の話であります。それより、ただスーパーでお金を払って手に入るのが普通であります。兎に角、私たちは何の生産の過程に関わらないで、簡単に蜜柑をいただく事が出来ます。 しかし、考えてみたら、一つの蜜柑が実るのには多くの汗を流して人がいるはずであります。土を耕し、肥料をやり、枝を整えたり、木の間の草を抜いたり、時には風に倒れないように注意を払っていたはずであります。それだけありません。神様によって雨が降らされ、太陽が照らされていたのであります。そのような人々の汗と天の恵みがあって初めて私たちは収穫の喜びを味わう事が出来るのであります。収穫を感謝するとはそのような意味があろうかと思います。 さて、今日の聖書の箇所でありますが、パウロの弁明、そしてパウロとアグリッパ王やフェスト総督とのやり取りが記されているところであります。 少し余計な話かも知れませんが、話を始める前に申し上げます。もう気づいている方もいらっしゃるかも知れませんが、今日の聖書箇所が先週予告しておいた箇所より少し長くなっています。先週の週報には今日の聖書の箇所は19節から23節までとなっていますが、今日もプログラムには32節までとなっています。 他の意味があるのでなく、使徒行伝を少しだけ急いで終わらせたいと思ったからだけであります。元々11月までには使徒行伝が終わるだろうと推測していましたが、今年一杯になりそうで、少し急がないと来年の1月の半ばまで伸びそうであったので、できれば今年中に使徒行伝を終えて、来年の初めの週から一日一章の箇所に従って共にみ言葉を学びたいと思っています。 私は来年共に一日一章ずつ皆さんと共に読んでいけることをとても楽しみにしています。もうすでに週報に「日々の糧」の箇所が毎週新しく記されていますが、ぜひ皆さんもそれに従って毎日一章ずつ読んで頂きたいと願っています。 話が逸れていましたが、今日の聖書の箇所はパウロのユーモア感覚と言うか、皮肉をも読み取ることの出来る箇所であります。パウロは自分の目の前にいる人々に悔い改めをして自分のようになることを散々勧めておいて、最後においては両手に掛かっている鎖を見せながら、自分のようになってほしくないと言ったのであります。 もう一つ面白いところでありますが、24節を見ますとフェストはパウロの話を聞いている途中、大声で「お前は勉強しすぎて気が狂っている」と言いました。フェストはユダヤ教などの宗教の話にはそもそも関心がない人であります。つまり、フェストはパウロの話にそもそも関心がありません。ところが、パウロの話の中でキリストは多くの苦難を受け、殺されるが、よみがえると言う下りに来ては、我慢が出来なくなったのか、「狂った」と自分の気持ちを爆発させたのであります。 今は、私たちが人を前にしてキリスト者は復活を信じていると言っても、さすがに「お前は狂っている」と面と向かって言う人はいないと思います。それを語る教会とキリスト者が多いからであります。 ところが、パウロが活躍していた時代はまだキリスト者は数に入らないほどでありました。その少数の人々が復活のイエスと出会い、新たにされた後、人がそれを信じようが、信じまいが構わず、語りだしたのであります。彼らのイエスとの出会いの経験がそうさせたわけであります。しかし、今日の箇所が示しているように、当時のキリスト者は周りの人々から狂った者扱いを受けていただろうと思います。 人はなかなか他人の話を聞こうとしないものであります。自分の経験や自分が納得できる範囲だけで聞こうとするからであります。それで、自分の経験や自分の信念を超える話になりますと、その話は常識から外れている言いながら跳ね除けます。時にはその話は「私と考え方」が違っているからと言いながら聞こうとしないのであります。酷い場合は、「お前は頭が可笑しくなっている」と罵りながら、話を聞こうとしないものであります。 今日の箇所でパウロもイエスの復活を語ったことによって狂ったと言われました。でも、パウロにとって紛れもないイエスとの出会いは自分の経験であります。この世のすべての人が死んだ人が蘇ることはあり得ないと言っても、彼自身にとっては生々しい体験であります。死んだ筈のイエスが自分をイエスだと紹介しながら光の中でパウロに現れたのであります。 それで彼は文字通り狂ったようにイエスを語り、人々に悔い改めを勧めながら歩き回りましたが、パウロが言う悔改めとは何であったかが20節に具体的に示されています。つまり、悔改め、神に立ち返り、悔改めて、それに相応しいわざを行うという二つの事が示されています。 悔改めとは過去のある言動の過ちや失敗を後悔するような部分的な行為ではありません。聖書が言う悔改めとは、神を信じないで生きていた今までのすべての人生を捨てるというか、否定して、神の元に立ち返ることであります。 それで、悔改めた人は、今日の命も神様によって与えられているものであって、今日の私たちの口に入る食べものも神様によって与えられたものであって、今日出会う人々も神様の導きによってであって、すべてが感謝すべきことであって、すべてがくすしき出来事であると言うのであります。 しかし、神に立ち返っていない自分の命は自分のものであって、あるいは、せいぜい親からもらったものであると言います。また、自分の賢さによって自分の口に食料が入るものであって、その故に人と神に感謝するより、自分に感謝すべきであって、自分を誇るのであります。 そのようにして結局人との関係も、神様との関係も断絶されたところで一人で立とうとするのであります。これが聖書が言う罪であります。 人が生きることの実際は如何でしょうか。繰り返しになりますが、農民が流した汗があって、太陽が照らされ、雨が降らされて初めて私たちは食べる事が出来るのであります。私たちは一人で孤立して生きるのでなく、他者と神様と有機的に繋がっていて初めて生きているモノであります。 悔改めとは神様から離れていて者が神様の元に戻るということでもありますが、悔改め神に立ち返った人はこの世のすべては神様のわざであるが故に、どのような事が起こっても希望を失わないのであります。神様が再びみ手を伸ばしてくれる事を信じているからであります。悔改めた人は死の谷を歩もうとも恐れないものであります。例え、死んでもそれによってすべてが終わるのでなく、神との新たななる出会いの時として受け止めるからであります。悔改めて神の下に立ち返った人は幸いであります。 話が変わりますが、この間ある方から悩みの電話を頂きました。キリスト者でありますが、自分は八方塞であって、誰も自分を助けてくれることは出来ないと言いながら嘆いていました。話を聞きますと大変な状況であることは確かでありますが、でも絶望をしている時ではないと思いました。それで、私は神様に祈りましょう、神様にすべてを委ねましょうと言いましたが、返事は返って来ませんでした。 私はキリスト者には絶望がないと信じています。もしキリスト者が絶望するのであれば、神の力を信じないことであり、また復活も空しいものになってしまうと思っています。なぜなら、復活こそ絶望すべき出来ことへの神の勝利であって、その勝利が私たちにもうすでに約束されているのに、それを信じない時、絶望が襲うと思うからであります。 もう一つ、パウロは今日の箇所で悔改めた人はそれに相応しいわざを行うものであると言っています。ただ大きな声で主を呼び求める事だけが正しい信仰者の姿ではないだろうと思います。ただ敬虔そうに祈りの声を上げるだけが信仰者の姿ではないだろうと思います。キリスト者としてそれに相応しいわざが普段の生活の中で行われる時、その人を正しいキリスト者と言えるのではないでしょうか。 ところが、何がキリスト者に相応しいわざであるかは具体的に今日も箇所には示されていません。と言うより、聖書の何処にも具体的には示されていないと思っています。ですから、それぞれ自分の立場から、自分に相応しいわざは何であるかを問うべきであろうと思います。 喩えで、申しますが、蜜柑の木が蜜柑を実ります。柿の木が柿の実を結ぶものであります。一年のあいだ多くの汗によって育てられた木が良い実を結ぶものであります。私たちが復活を信じているのであれば、復活の実を結び、聖霊に導かれているのであれば、聖霊の実を結ぶものであります。キリスト者はキリストの実を結ぶべきであろうと思っています。渋柿を結んでおいて、自分は渋柿ではないとは言えないものであります。 誤解がないように申しますが、私たちがキリスト者はモラルにおいて完璧であるべきであって、失敗や過ちを犯してはならないということではありません。聖書にはそのようの完璧な人は意外に誰もいません。アブラハムだって失敗をしましたし、モーセだって間違いをしました。 そのように失敗や間違いをするようになっているのが人間であります。問題はそのような時、常に、神の前に立ち返ることであります。そのような人を神さまがまた新たに導いて下さるのであります。 最後にもう一つ申し上げて話を終わらせて頂きたいですが、20節以下をみますとパウロは先ずダマスコの人々に、そしてエルサレムの人々に、そして、ユダヤ全土に福音を伝えたと言っています。ここを見ますと彼はダマスコでイエスに出会ってで、その場から伝道のわざを始めたことが分かります。 もう少しキリストについて勉強して、もう少し休みを取ってからでなく、もう少し私の生活が整えられてからでなく、その場から福音を語り始めたのであります。まさに、彼はキリスト者として、使徒として、それに相応しいわざを行ったのであります。 私たちがそれぞれもうすでに神様によって植えられている木であろうと思います。私は黄仁坤と言う名の木であります。また神様によって降らされる雨によって、照らされる日差しによって、また十字架の苦しみと、復活の喜びによって育てられているのであります。このことは皆さんも等しいものであります。 そのように育てられているからキリスト者に相応しい実が結ばれように、祈りつつ、また神の言葉に聞き従いつつ日々を歩みたいものであります。そして神に喜ばれ、人に喜ばれる良い実として収穫されたいものであります。 |